◆
俺の朝には『推し』がいる。
毎週水曜日。午前七時三十分の快速電車。前から数えて三両目。
車両の真ん中あたりで、いつもスマホを見下ろしている彼女。
黒髪ストレートな彼女は、鎖骨につくくらいの髪型をしている。
特に結うことをしないまま、いつも肩にさらりと流している。
顔はマスクで隠れているけど、以前見たことがある。よく電車で会うから、顔はなんとなく覚えていた。人の顔はよく見てしまう。
生まれつき耳が悪くてあまり高い音が聞こえないから、相手の表情をよく見るようになった。最近はマスクで顔が隠れているし、口元も見えないから本当に不便だ。
スマホがあるだけマシだけど、やっぱりもどかしさがある。
相手が、俺に何かを伝えることが嫌になってしまったらどうしよう、とか。
うんざりされてしまったらどうしよう、とか。
気遣いが絶えなくて、たまにしんどくなる。嫌なわけじゃない。日常に溶け込んでいるから。
でもたまに。ほんのたまに、逃げ出したくなる。
そんな悩みを抱えて乗っていた夏の通学電車。
座って単語帳を読んでいた彼女が急に立ち上がった。満員だから、立ち上がると目に映るのは必然だった。
すると、彼女は少し気分が悪そうな人に声を掛けて、席を譲っていた。
同じ年くらいなのに、優しい子もいるもんだと思った。
周りに座っている大人たちは見て見ぬふりをしていたのに。
今し方、席を譲った人と笑みを零して話している彼女。一体どんな声で、話しているんだろう。
少しだけ気になった。
そしてある日、俺はたまたま椅子に座っていて、近くに立っていた彼女が車両のドアにもたれ掛かるように座り込んだ。
顔色は悪く、動かないようにしているのか、ずっと足元を眺めている。
俺は咄嗟に立ち上がり、彼女に向かって席に座るように促した。
彼女は驚きつつも、俺に頭を下げて椅子に座っていた。ただそれだけだったけど、彼女と目が合ったのはそれが初めてのことだった。
そこから時々、彼女が電車に乗り込んでくる姿を探すようになった。
満員の時も、そうじゃない時も。
俺の目は、自然と彼女の姿を追っていた。
彼女のことは名前がわからないからひとまず『推し』と呼んでいる。
というのも、アイドル好きの友人に「気になる人物はとにかく推しにしとけ。これ鉄則」と言われたからだ。
推しの定義はよくわからないけど、ひとまず仮名として置いている。
そんな彼女に鍵を届けられた時はびっくりした。
慌ててポケットを叩いて、やってしまった、と思った。
だけど、まさか。彼女が、届けに来てくれるとは思わなかった。
咄嗟に、手話を使ってしまったけど、間違えた。
伝わるわけがないのに。頭の中で反省していれば、先ほどまで俺たちが乗っていた電車が走り出した。
あ、もしかして、俺のせいで一本逃させてしまったのではなかろうか。
しまった、と思い、謝ろうとすれば、彼女は慌てた様子で頭を下げてホームのベンチに向かっていた。
どうしよう。ちゃんとお礼を言えていない。
あと、そうだ。名前を聞いて、それから。
そこまで考えて、不意に緊張が背中を走った。
だってどうしよう。
もし彼女が、俺が普通と違うってわかって、今頃引いていたら……。
世の中は大分、優しくなった。生きやすくなった。
それでもやっぱり、馴染めないこともたくさんある。
他人は思っているより案外、良い人が多いけど。
だからといって、それだけじゃないのも事実だ。
人の考えはみんなそれぞれだから、そういう偏見を持っている人も少なからずいる。
耳が聞こえないとわかった途端、少し強張った表情をして困惑と気遣いと、少しの、嫌悪が入り混じった、そんな。
そんな顔をされてしまったら、どうしよう。
緊張と不安と、それから少し、怖さが滲んだ。
でも。それでも、一度。彼女とちゃんと話してみたい。
俺は勇気を出して、ベンチに座った彼女の元へ歩を進めた。
それから、咄嗟に筆談で話かけた。スマホに打てばいいのに。
なんだかその時、頭が回らなかった。
〝先ほどはありがとうございました この電車よく使ってますよね〟
彼女は大きく頷いて立ち上がった。何かを伝えようとしている。
〝もしかして 電車遅らせてしまいましたか?〟
怒らせていたらどうしようと思っていたら、彼女は首を振った。
大丈夫、だったのかな。いや、そんなわけない。遅れているのは事実だ。
〝ごめんなさい 俺のせいで〟
文字を書く俺の手元を見下ろす。
耳に髪をかけながら、じっと見下ろす彼女。
伏せる目元を縁取る睫毛を見て、意外と長いんだなと少し見惚れてしまった。
すると、ホームに電車が滑り込んでくる。はっとして、すぐに〝お気をつけて〟と書いた。
お気をつけて、なんて普段でも言わない。緊張ゆえの、下手くそな言葉遣いだった。
彼女が少し上を見上げた。発着メロディが流れているんだろう。目が合ったので、手を振れば、また彼女が何かを伝えようとしていた。
なんだろう? マスクがもごもごしていてよくわからない。
彼女は迷ったように頭を下げて、慌てて電車に乗り込んでいた。
手を振る彼女。一体、今のはなんだったのだろうか。
それに、そうだ。名前、せめて。
慌ててノートに文字を書く。見えるかわからないけど、少し大きめに、〝また、〟と。
〝また、水曜の朝に〟
と。書きたくても、書ききれなかった。
時間がなかったから。
というのは、言い訳だ。
本当は、水曜の朝、彼女を見ていたことをバレたくなかったからだ。
いやいや、中学生か。俺は。
恥ずかしくなって、ノートともに鍵を鞄にきちんと仕舞う。
首元を掻いて、遣る瀬無さに息を吐く。
俺みたいなのに声をかけられても迷惑だろう。
不便をかけても仕方ない。贅沢は願わないことにしよう。
この話はお終いだ。
諦めてきたものが多い人生だったけど、これもまたそのひとつになるだけ。
時が過ぎ去れば、いつか淘汰される一過性の気持ちに過ぎない。
忘れてしまおう。忘れよう。
そんな思いで、一週間を過ごした。