私の朝には『推し』がいる。

 毎週水曜日。午前七時三十分の快速電車。前から数えて三両目あたり。

 一番端の電車の片隅で、いつもイヤホンを耳につけて遠くを眺めている彼。

 手足が長くて、なんとも小顔。胡桃色のお洒落な髪型に色白の肌。

 最近はマスクで隠れているけど、たまたま飲み物を飲むときに見た横顔は見惚れるほどに美しい造形をしていた。なんてこった。私の推しは今日もはちゃめちゃに格好いい。

 スマホを開いて、『今週も気になってる人と同じ電車になれた! 神!』と打ち込む。

 見ているだけでもドキドキする。私の運命の王子さまがいるとするなら間違いなく彼だ。

 私は確かにミーハーで彼の顔はドタイプではあるけれど、完璧に彼の沼に突き落とされたのはもう三カ月以上も前の話になる。

 きっかけは秋の満員電車。試験前で寝不足の私は空気の悪さと電車の揺れに、吐き気を催して電車の片隅に座り込んだ。

 ああ、最悪。吐きそう。死ぬ。でもこの電車で学校に向かわないと遅刻決定だし……。

 声を掛けてくれる人はいない。ただでさえ人がひしめき合っている。

 誰もがつり革を掴んで、時間が過ぎるのを待っていた。

 そんな中、真っ青な顔でみんなの足元を見つめていると肩をそっと叩かれた。

 顔を上げると、私と同じ年くらいのマスクをつけた男の子が椅子の方へ指を差している。

 口元は見えないけど〝すわって〟と言っているように思えた。

 何だ、この人。周りは大人ばかりなのに。誰も何も声を掛けてこなかったのに。

 瞬きを何度か繰り返していると、彼は少し困ったように眉を下げて、そうしてまた椅子の方を指差した。

 はっとして、よろよろと立ち上がる。

「すみません……」

 頭を下げて、縋る思いで椅子に座ったあと今一度頭を下げる。目を合わせても、彼はやっぱり何も言わない。だけど、その綺麗な目元でにっこりと半円を描いた。

 以来。私は彼のとりこだ。

 好きか、と言われたら正直わからない。でも気になる存在。リスペクトさえしている。

 元々人に優しく、なんて親に言われていたけど、彼に出会ってからは出来るだけ困った人には手を伸ばすように日々心がけていた。

 彼は、私の通う高校のある駅とは三駅手前で降りる。制服を見る限り、有名私立の名門校だ。

 いっつも耳にワイヤレスイヤホンをつけている。

 誰かと話をしているところを見たことがないから、名前がわからない。なので私はいつも彼を心の中で『推し』と呼んでいる。

 今日こそ……今日こそ、声をかけて、名前を聞く!

 そう、毎朝心に決めているが、なかなかどうして隙がない。というか、私のような愚民があんな素敵な殿方に声をかけていいものか甚だ疑問である。

 何かきっかけが欲しい。あの孤高の存在に声をかけるきっかけが。

「ど、どうも! 今日は、いい天気ですね~!」

 これは違う。初対面でぎこちないにもほどがある。

「は、はじめまして! 三カ月前はありがとうございました~!」

 遅過ぎる! 何を今さら! って思われる。というか覚えているかもわからない。

「あ、あのう! いつもこの電車に乗ってますね! 家はこの線路沿いですか?」

 ストーカーか! 気持ち悪いだろう、こんなの。

 異性に声をかけるってこんなにハードルが高いものなのか……ああ、もうどうしたらいいんだ。

 今日も声を掛けられずに見送るのか、私は……いつになったら、勇気が出るのや、

 ら。と思った瞬間、彼がスマホを取り出したポケットから何かを落とした。あれは、鍵だ。

 結構な音が鳴ったのにイヤホンで聞こえないのか、気づいていない。

 電車のドアが開く、彼はそのまま歩いて行こうとする。え、ちょっと待って鍵……!

 スマホの時計を見る。電車を一本、逃しても、ギリギリ。いける。

 私は咄嗟に足を動かして、鍵を拾って電車の外に出た。

 飛ぶようにホームに出て、寸でのところで電車のホームドアが閉まる。

 先を歩いていくその人に「っあの!」と声を張った。周りの人がこちらを見る。しまった、恥ずかしい。

 その上、その人は気づかない。ちくしょう、なら、もう前に回るしかない。

 咄嗟に駆けて、その前に回り込む。その人はびっくりしたように目を見張って、案の定立ち止まった。

「あのっ、鍵!」

 鍵を見せると、長い睫毛に縁取られた目をぱちくりとさせて、寸秒したあとはっとしながらポケットを漁っていた。

 そして、すぐに頭を下げて、私の手からその鍵を受け取る。

 何も、言わないな。と思って、その長身を見上げた瞬間、その手が動いた。

 あれ、それ。

 固まっていると、その人はまたはっとして、困ったように耳を指さして首を振る。

 そして左手を水平にして、その手の甲に右手を直角に当ててそのまま縦に引いてお辞儀をした。

 そうだ、それ。小学校のときに授業の一環で習ったことある。

〝あ り が と う〟

 手話だ。

 多分、お礼を言われている。あ、どう、どうしよう。

 こういう時、というか。声のかけ方とかこれでよかったんだっけ?

 いろいろ習ったはずなのに、思い出せない。

 とりあえず首を大きく振った。

「いえっあの! ひ、拾っただけなんで!!」

 思いっきり身振り手振りをするけど、伝わっている気がしない。

 ひとまず、あまり長く引き止めても仕方ない。

 頭を下げて、逃げるようにホームに備え付けのベンチに向かう。

 び、びっくりしたー……初めて話しかけたドキドキと、ああいう、なんていうのかな。

 手話を使う人に初めて会った緊張が入り混じって、どっと疲れた気分だった。

 ああでも、そっか。イヤホンじゃなくて、あれはたぶん補聴器だ。

 あんなお洒落なのがあるんだ。初めて知った。

 っていうか、だ。私ってば、せっかくの初コンタクトを無駄にしたのでは?

 それにあんなに突然目の前に回って、いきなり進行を止めるやり方は強引かつ失礼だったのでは?

 もっと何かやりようがあっただろうに、あの人からすれば冷たい人間に見えたかもしれない。

 逃げるように離れてしまったし……しかも名前を聞きそびれた。

 あんなに脳内で練習していたのに……全然上手くいかなかった。ああ、なんて恥だ。

 反省だ。と頭を抱えて、そして不意に隣を見る。そして、はた。と目を見開いた。


「な、なんで……」


 どうして。何故だ。

 目の前に〝推し〟がいる。

 世界が数秒ほど固まったように思えて、私は瞬きを繰り返した。

 その人はにっこり笑って、ノートの切れ端を差し出した。

 え、と思いながらその紙を開く。

〝先ほどはありがとうございました この電車よく使ってますよね〟

 なんだこれは。夢か?

 推しも、その推しの字も猛烈に綺麗で頬を抓りそうになる。

 目をぱちくりさせて、顔を上げる。


「つ、つかってます!」

 とりあえず大きく頷いて立ち上がった。無駄に大きい声を出してしまう。

 本当は口元を見せたいけど、マスクをむやみに外せなくてやきもきする。

 すると、今度はノート自体を取り出して、何かを書いていた。

〝もしかして 電車遅らせてしまいましたか?〟

 首を振る。いや、確かに鍵を拾って、渡すために電車を一度降りたがそんなことはどうだっていい。無問題だ。

〝ごめんなさい 俺のせいで〟

 見せられるノートから、彼を見ればその綺麗な目が申し訳なさそうな色を見せる。

 なんと返事をすべきか迷っていたら、タイミングよく電車がホームに滑り込んできた。

 冬特有の凍てつくような風が、私たちの間を吹き抜けていく。

〝お気をつけて〟

 最後にノートにそれを走らせて、目元でにこりと笑う。

「あ、の」

 と。口を開いたと同時に、発着メロディが流れる。思わず、電車を見て、そうしてまた彼を見ると、その手をゆるやかに振った。


「な、なまえっ」

 当たり前のように声で伝えようとしてしまう。ああもう、それではだめだというのに。

 案の定、彼は首を傾げている。ああ、私のバカ!ノートを私も出すべきだったのに。

 時間もないので、私は迷った末、頭を下げて慌てて電車に乗り込んだ。

 電車のドアがギリギリのところで閉まる。振り返れば、ホームからこちらを見て、彼は軽く頭を下げていた。

 名前、聞けなかったなぁ。

 落胆しそうになりつつ、手を上げて、ぎこちなく振る。

 なんだかよく見せたいという気持ちが先行しすぎていつもの私より、いろんなことが不器用になっていた。

 そんな私に、彼はノートに何かを書く。

 走り出した電車。

 彼は、すぐにノートを私に向けた。

〝また、〟

 ドアに貼り付くようにして、追ったその文字は、そう綴ってあった。


『また、』と。

 そう、書いてあった。

 ……え、うそ。どうしよう。

 ってことは、また。声をかけていいのかな。

 いやでも、『また、』で途切れていた。

 『、』の続きはなんだったんだろう。

 頭を抱えて、ドアの方を見る。

 そしてまたドアから視線を外し、口元を両手で覆って、またドアを見る。

 落ち着かないまま何度かそれを繰り返して、私は目的の駅に降りるまでずっとそわそわとしていた。

 いや、でもまた、と書いているのだから。

 声はかけても……ああ、でもその場合、口の動きもマスクで見せることは出来ないし……なら、ノートか。

 いやでも、それでは効率が悪い。

 もっと上手く……。

 あ、そうか。

 スマホを開いて、検索をする。声を掛ける方法、これだ。これしかない。

 自分の手のひらを見下ろして、

「よし……」

 気合と同時に顔を上げた。