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誰もいないはずの家、この時間まで帰っていないことは誰にもばれないはずだった。自分の甘さを痛感したのは家の門をくぐったとき、家の騒がしさに気づいたとき。
まずいと思い駆け足で家の中へ入る。もうじき二十時になる、普段なら絶対に許されない時間だ。
「瑠莉!何をしていた!」
靴を脱いでいると飛んでくる怒号。反射的に体に力が入る。
「ごめんなさい。今日は……」
「言い訳はいいから早く来なさい」
私の言葉を遮り、手を引いていく父。家に父がいるのは久しぶりで、今日はただならぬ事情があるのだと察する。
今日は誰も家にいないはずだったのだが、父に引かれるままリビングにいくと、そこには母と美桜もいた。軽蔑した目で見る二人に居心地悪くうつむく。
「急いでこれに着替えて身なりを整えなさい」
父から渡されたのは、綺麗な瑠璃色の着物。
有名な政治家や実業家の集うパーティに父と行った際、綺麗なドレスを着ることは何度かあった。しかし、着物を着るのは初めてだ。
両親もきれいな着物を身にまとっており、これからどこか重要な場所へ行くのだということは容易に想像できた。普段と変わらない服装で机に肘をつき様子を見ている美桜はどこか楽しそうだ。
「着付けるからこっちに来なさい」
育ちの良い母に手際よく着付けられ、時間がないからと何も知らないまま、手配されていた車に乗り込む。美桜だけは家に残されたが、本人は不満な素振りを見せずひらひらと手を振った。
車内で簡潔に話された内容に、いよいよかと思う。私がこの家に引き取られた日から、その未来は決まってたのだろう。政略結婚の道具になるということは。昔より減ったとはいえ、現代も家同士の利益のため結婚をするというのはおかしな話ではない。
美桜がかわいくて仕方ない二人は、彼女をその道具にすることは避けたい。美桜は望んだ相手との結婚を反対されないだろうが、私の結婚に私の意思は関係ないのだ。むしろ、十八歳になるまで待ってくれたことに感謝するべきか。
今回の政略結婚はあくまで決定事項。明日の予定だった顔合わせが今日に変更され、急いで帰ってきた家に私がいなかったのだから相当焦ったことだろう。
相手は鬼神崎のご子息だと聞き、美桜のあの様子に納得がいく。鬼神崎は日本でトップレベルに有名な会社を経営している。一色もかなりの資産を持っているが、それでも鬼神崎には敵わない。
そんな鬼神崎の息子と一色の娘が婚姻関係を築くというのは願ってもないこと。唯一懸念することがあるとするならば、鬼神崎の人としての評判があまりよくないことだろうか。鬼神崎は圧倒的な地位を確立しているが人の集まるところを好まない。父でさえ直接会話をしたのは両の手で数えられる程度だと。
周りの人間に興味がなく、酷く冷めた印象を持つ鬼神崎に、大切な娘を嫁がせることはできないが瑠莉ならば話は別だ。元々存在しなかった娘、必要とされていなかった娘の唯一の使い道がついに見つかったとそれは喜んだことだろう。
「分かっていると思うが、決して失礼のないように」
そう単調に話す父にとって、私は本当に都合のいい道具でしかないのだろう。正直、どうでもよかった。今の家では生きているだけ。元より居場所はなかったのだから、今更どこへ行ったって変わらない。生きていける環境を与えられるだけで私は幸せだ。
車を走らせて着いた先は美しい料亭。着いてすぐ何かあったようで、先に一人で行くように伝えられる。何やら大変そうな彼らに背を向け進み、言われた通りの部屋に向かっていると庭園に人影が見えた。本来なら部屋までされる案内を断り、のんびり歩いている廊下から見えたその人影。
その人物が苦しんでいるように見えて、つい中庭に入り声をかけてしまった。
「あのっ、大丈夫ですか?」
私よりも大きな背中に声をかけると、相手はゆっくりと振り返った。月明かりに照らされる男性は、今まで見たどんな男性よりも美しく息をのんでしまう。二人の目が合い、互いに目を見開く。私が驚いたのはその美しい容姿だけではない。彼の額に小さな角が見えたのだ。見間違いかと目を凝らすが、それは確実にそこにある。
「それ……」
私が声を出すと、目を見開き固まっていた彼が、慌てた様子で額を隠す。そして苦しそうにその場にしゃがみ込んだ。
「大丈夫ですかっ!?」
駆け寄り体を支えると、正面から抱かれるような形で体重をかけられる。
「すまない、少しだけ……」
弱った声の彼にかける言葉を見つけられず、彼が落ち着くまで黙って背中を擦ることしかできない。辛そうにしていた彼は二分もすれば落ち着いた様子だ。顔を上げて向かい合わせに立つ彼の額に角はなくなっていた。
「いきなりすまなかった」
「私は大丈夫です。それよりさっきの角って……」
先ほど見た違和感が忘れられず、気になったまま聞いてしまう。彼は困ったように眉を下げ、ゆっくりと口を開いた。
「あぁ、あれは角だ。鬼、なんだ」
「そうなんですね」
「それだけか?」
「それだけって……?」
呆気にとられる彼に首を傾げる。
「怖がらないんだな」
「怖がるって言っても……」
もちろん驚かなかったわけではない。祖母が話してくれた、あやかしと言われる存在を目の当たりにしたのだから。あの話で日本を救った鬼という存在。それが本当かは分からないが、私の中であやかしは、鬼は恐怖の存在ではないのだと思う。それに――
「あなたから嫌な感じはしないので」
「そうか」
鬼だからといって何だというんだ。何かされたわけでもないのに特定の存在を怖がるなんて馬鹿な話だ。私は私を道具としか思っていない両親と美桜の方が怖くて憎い。
「そうだ、名前は?」
「瑠莉です、一色瑠莉」
「瑠莉、か」
懐かしいような愛おしいような眼差しで私を見つめる彼に胸が高鳴るのを感じる。勘違いかもしれないが、人間離れした美しい容姿で見つめられたら誰でも勘違いしてしまう。
「あなたは何というの?」
「俺は――」
「瑠莉!こんなところで何してるんだ!」
彼が名乗ろうとしているのを遮ったその声に顔を歪める。忘れていた、今日ここに来た目的を。振り返るとその声の主である父は驚いたの顔をしていた。
「なんだ。朔都君も一緒にいたのか」
「はい。私が彼女をここに誘ったので怒らないでやってください」
父の視線の先にいる彼が淡々と答える。父の口から知った朔都という名前、それは私が婚約する鬼神崎の下の名前だ。彼が、私の将来の伴侶なのだ。
「冷えてきましたし中に入りましょう」
「えぇ。じゃあ瑠莉、行こうか」
戸惑い気味で彼から差し出された手を取る。私の前にいるのに敬語で丁寧に話す父に、彼がどれほど大きな存在なのかを感じさせられる。私の半歩先を歩く彼は何も気にしていない様子だ。緊張か、はたまた別の何かでか心臓がうるさい私とは大違いだ。
両家の顔合わせは何の問題もなく順調に終わった。これより二人は婚約者となり、私が二十歳を迎えたら正式に結婚するのだと。あとは二人で話でもと言われ、二人っきりになった部屋。先に沈黙を破ったのは朔都だった。
「瑠莉はこれでよかったのか?」
心配そうにこちらを見る朔都。きっと私が何も知らされずこの場へ連れてこられたことを察しているのだろう。
「はい。いきなりで驚いたけど、私はよかったと思っています」
これは本音だ。いつかはこうなることを覚悟していたし、これまでの生活に未練はない。
私は明日から朔都の住む家で一緒に暮らすのだと先ほど決まった。学校には変わらず通えるが、早く鬼神崎の暮らしに慣れ、将来のために学んでほしいと。鬼神崎の人たちに私が歓迎されるかはわからない。それでも、家族の中で孤独を感じるよりはきっと堪えられる。
「俺がいるから心配するな。瑠莉を幸せにするから」
朔都は甘い言葉を口にする。今日出会ったばかりのはずなのに、昔から知っているように優しくしてくれる。なぜだかわからないが、その言葉に溺れてみるのもいいかもしれない
「それでは、また明日お迎えに伺います」
「はい。よろしくお願いいたします」
親同士の挨拶を朔都と少し離れて見つめる。二人の婚約が確定してから、父は今まで見たことがないほど上機嫌だ。きっとこれによって得られる利益は大きいのだろう。
引き取られたばかりのころ、どんなに頑張っても得られなかった父の笑顔。こんなにあっけなく見られてしまったことが複雑だ。こちらを向いた父から帰るぞと声をかけられる。
「瑠莉、誕生日おめでとう」
父に向かって歩き始めた私に朔都が言う。もう日付は変わり、今日は私が生まれた日なのだ。私が気づかなかった誕生日に彼は気づいてくれた。初めて生まれたこの感情に名前を付けられるほど、私はそれを感じたことはなかった。


