紫呉は鬼神の力のせいか数日は食べなくても生きていけるため、あまり食事に頓着はない。だから以前は朝食を取らない日も多かったらしい。
 だが、凜が朝食を作るようになってからは、一緒に食事を取るようになっていた。

 「凛が作るものは美味いな。初めて食事が美味いと思えるようになった」と言って、まるで極上の料理を食べているかのような幸せそうな表情で食べてくれるので凛も嬉しくなる。
 だが、凜もまた人と共に温かい食事をとるのは、両親が亡くなってから初めてのことで、紫呉との食事の時間は幸福な時間であった。

 (ううん、紫呉様と過ごす時間は全部幸せな時間だわ)

 これまでの生活を考えると夢のようで、もしかして朝目覚めたら本当に夢なのではないかと思ってしまうこともある。
 仕事に向かう紫呉を見送り、しずと一緒に朝食の片づけをしていると、しずが凛がつけている銀細工の簪に目を留めた。

 「最近よく付けられていますね。よくお似合いですよ」
 「ありがとうございます。母の形見なんです」
 「そうでしたか」

 最初は特別な日だけにつけようと思っていた簪であったが、身につけると母に守られているように思えて、最近は良くつけるようになっていた。
 昼食の下準備をしようとしていたしずが、突然声を上げた。

 「あぁ、なんてことでしょう! 塩が無くなっているのを忘れていました」
 「では私が買って来ますね」
 「でも、凛様にお手数をおかけするのは……」

 渋るしずであったが、しずはこれから掃除洗濯とすることが山積みだった。一方、凛は手が空いている。
 どう考えても凛が買いに行く方がいいだろう。

 「今日はお天気がいいので、少し散歩をしたいんです」
 「分かりました。では、お願いします」

 凜は笑顔で答えると、財布と買い物かごを持って屋敷を出た。
 商店街までの下り坂をのんびりと歩く。
 秋風が少し冷たいが、日差しは温かかった。

 「すみません。冴咲凛さんですよね」
 「は、はい」

 凜が振り返ると目鼻立ちのはっきりとした書生が立っているが、その顔には見覚えがあった。
 華絵の取り巻きの男性だ。だが、何故彼が自分に声をかけてきたのかと疑問に思った途端、後ろから何者かに羽交い絞めにされた。
 凜は反射的にそれに抵抗して叫び声をあげたが、男の力では敵うわけがない。

 「や、止めて! 誰か!」

 力の限り抵抗し、その反動で簪が落ちたが気にする余裕もなかった。
 そうしているうちに凛の隣に車が横付けされ、あっという間に引きずり込まれていた。

 「出せ」

 声の主を見ると、華絵のもう一人の取り巻きである商家の子息だった。

 (何が起こってるの? 誘拐? でもどうして私を?)

 混乱して頭が働かない。車の中には運転手を含めて男性3人で、いくら抵抗したところで無駄であることだけは分かる。
 恐怖で身を固くした凜は、息を殺して車が止まるのを待った。
 
 ※
 
 男に連れていかれた先は、冴咲家にある蔵の中だった。
 蔵の中へと乱暴に投げ入れられたので、勢い余って地面に倒れ込んでしまう。
 その時、綾香の声が蔵の中に響く。
 
「ご苦労様。あなたたちは外を見張っててくださる?」

 入口に立った綾香は、男たちに妖艶な笑みを向けてそう言うと、男たちは黙って外に出て行った。
 綾香と凛だけが、暗くすさんだ空気の中に残される。

 「久しぶりね。ふん、まだそんな似合わない着物着ているの? そういう綺麗な着物は綺麗な女性が身に着けるものよ。まさか、自分に似合ってるだなんて勘違いしてないわよね」

 綾香は凛を見下ろして嘲笑した。凛は震える体を抑えながら、絞り出すようにして何とか綾香に尋ねた。

 「私を、ここに連れてきてどうするつもりですか?」
 「ふん、化け物の癖に口を開くなんて、ずいぶん態度がでかくなったんじゃない? まぁいいわ。今日はあなたに言いたいことがあってここに連れて来たの」
 「言いたいこと?」
 「そう、大人しく時鬼の屋敷からから出なさい。そうすれば痛い思いをしないで済むわよ」
 「え?」

 最初、凜は何を言われているのか分からなかった。

 「まったく、本当に頭が悪いわね。黙って時鬼の屋敷を出ろと言ったのよ」
 「何故……ですか?」
 「だってあんな素敵な方の傍にあなたみたいな気味悪い貧相な女がいるなんておかしいでしょ。あの方には私のように器量の良い女性が似合うもの。あぁ、行く当てがないのなら、またこの屋敷で暮らすのを特別に許してあげる」

 確かに綾香の言っていることは理解できる。
 紫呉のように美しく、富も名声も持っている男性の隣には、もっと美しく聡明な女性が立つべきなのだろう。
 決して自分のような美しくもなく、学も教養もないような人間が隣に立つべきではない。
 だが、紫呉の隣に自分以外の女性が立っているのを想像するだけで、胸が張り裂けそうにずきずきと痛み、泣きそうになる。

 (そんなのは嫌……!)

 そう思った瞬間、凛は声を絞り出していた。

 「……嫌です」
 「は? 何か言った?」
 「絶対に嫌です! 私は、紫呉様の傍から離れたくありません!」

 まさか凜が反抗するとは思わなかったのだろう。
 綾香は驚き目を見張ったが、次の瞬間には気を取り直したように蔑んだ笑みを浮かべて凛を見た。

 「はぁ? まさか自分が紫呉様に相応しいなんて勘違いしているわけじゃないわよね? 紫呉様にちょっと優しくされたからって、本気で自分が好かれていると思ってるの?」
 「相応しいだなんて思っていません。でも、紫呉様はこんな私を受け入れてくれました」
 「冗談言わないでよ。化け物のあんたを受け入れた? 触れた物の記憶を視るだなんて化け物の力を持つあなたを、受け入れる人間なんているはずないじゃない。冗談でも笑えないわ」
 「本当です! 紫呉様は私を恐れないと、気味が悪いとも思わないと言ってくれました。だから、紫呉様から『出て行け』と言われない限りは、絶対に出て行きません!」

 凛は今まで人生の全てを諦めていた。
 全てを諦めて、何かあれば口をつぐんで俯くだけだった。
 だが、これだけは譲れない。紫呉の傍にいることを諦めたくない。
 諦めて何もしない自分とは決別する。
 凜はそう思うと、奥歯をぐっと噛みし、華絵の目を真っ直ぐに見た。
 そんな凛の態度に綾香は目を吊り上げて怒りの表情を浮かべ、激高した。

 「このっ!」
 バチンという乾いた音が蔵に響く。頬を思い切り殴られ、あまりの痛さに凜は息を呑む。
 「……っ、化け物のくせに生意気よ! あんたなんて、私の下でこき使われて、汚い着物を着て、惨めに地面に這いつくばって生きるのがお似合いなのよ!」

 一気に捲し立てた綾香は、肩で息をしながら憎しみの色を浮かべた目で凛を睨みつけた。

 「甘い顔をしていれば、付け上がって。せっかく最後に紫呉様に会わせてあげようとしたのに。私の厚意を踏みにじって。じゃあ、この手紙を紫呉様に持って行くことにするわ」
 綾香は懐から一通の手紙を取り出した。

 「な、何をするつもりなの?」
 「あなたは自分が紫呉様にいるのがいかに愚かであったかと気づいて、自ら時鬼家から出て行くという手紙を私に託して失踪するのよ。きっと、紫呉様は厄介者がいなくなってせいせいして、探すこともしないでしょうよ」
 「そんな……」
 「紫呉様にあなたは似合わない。だから私が代わりに嫁いであげるわ。だって容姿もいいし、お金もあるもの。紫呉様もきっと私を望まれるわ。……さて、紫呉様のところに手紙を持って行かなくちゃ。あなたはここで大人しくしていることね」
 「止めて! お願い!」
 「私に触らないで!」

 華絵から手紙を奪い取ろうとした凛を、綾香は力の限りに突き飛ばす。そして懇願する凛に対して、華絵は勝ち誇ったように笑うと、踵を返して蔵の入口へと向かった。
 それを追いかけようとした凜の前に、取り巻きの男が凛の前に立ち塞がると、凛はドンと突き飛ばされた。
 「あっ!」

 気づいた時には土蔵の扉が閉まり、凛は暗闇の中に一人残された。
 無情に閉められた扉を凜は呆然と見つめる。
 紫呉の元を立ち去るというあの手紙を受け取ったら、紫呉はどう思うだろうか?
 華絵の言う通りせいせいしたと思うだろうか?

 (いえ、きっと違うわ。そんなことを思う方じゃない)

 紫呉の優しさは本物だ。
 人外の力を持つ自分を受け入れてくれて、いつも気遣ってくれたあの優しさは絶対に嘘じゃない。

 (でも、なんて恩知らずだと思うかもしれない)

 紫呉に嫌われると思うと身が引き裂かれるような思いだった。
 俯き、泣きそうになる。
 だけど、ここにいて泣いていても何も解決しない。
 諦めて俯いて泣くだけの自分とは決別すると決めたではないか。

 そう思った凛は、涙が滲んだ目をぐいと拭うと、ゆっくりと立ち上がって前を向いた。
 扉を開けようとするが、案の定鍵が掛けられており、びくとも動かなかった。

 「誰か! 誰か助けてください!」

 助けを求めて何度か声を上げたが、一向に人が来る気配はなかった。
 どうしたらいいか。
 凜は周囲を見回すと、蔵の上部には窓があるらしく、うっすらと光が漏れている。

 (あそこから出れないかしら?)

 凜はそう思うと、棚をよじ登って上部の窓まで行こうとしたが、そう上手くはいかなかった。
 棚に足を掛けた瞬間に、ぐらりと体が傾いたと思うと棚が倒れてしまったのだ。
 ガシャンという音がして、気づけば棚に収納されていた物が床に散らばった。

 (もしかして割れてしまった!?)

 きっと高価なものばかりだろうと思った凜はひゅっと息を呑んで慌てて散乱している物を確認した。
 幸いにして書物が多く、陶器は箱ごと落ちただけなので中身は無事のようであった。
 (良かった、割れてない。……あ!)
 ただ一つだけ、信楽焼の湯呑茶碗だけが箱から出て床に転がっている。

 派手な物が好きな叔父の所蔵品は、一見して豪奢だったり明るく華やかなものが多いので、信楽焼のような茶色を基本色とした落ち着いた色の茶器を持っているが意外だった。
 珍しいと思いつつ、湯呑茶碗に触れた。
 その途端に凛の脳にいくつもの画像が流れた。

 冴咲家の客間に緊張した面持ちの青年と丹造が座卓を挟んで向かい合って座っている。
 朧げな記憶ではあるが、この青年の顔には見覚えがある。
 (お父様の車の運転手さんだわ)
 運転手の青年に、丹造がこの信楽焼の茶碗を差し出して茶を勧める。
 『いつも兄さんが世話になってるね。これ、兄さんから君への差し入れだよ。出発まで菓子でも食べて休憩してくれ』
 『ありがとうございます。ではお言葉に甘えていただきます』
 『今日は兄さんは葉山まで旅行に行くのだったね。遠いから道中気を付けて運転してくれよ』
 『はい、もちろんです」
 青年は勧められるままに菓子を食べ、お茶を飲み切ると一息ついた。
 『ごちそうさまでした』
 『ああ。じゃあ兄さんをよろしく』
 そう言って丹造は運転手の青年を見送った。そして、部屋から出て行ったのを確認すると、湯飲み茶わんの中身を確認するように覗き込んだかと思うと、にやりと笑った。
 『よし、ちゃんと茶は飲んだな。睡眠薬が入っていることには気づいてないようだし。これで運転手が事故を起こせば兄さんは死ぬだろうし。そうしたら冴咲家は俺のものだ』

 凜が視たのはそこまでだったが、それだけで十分だった。
 衝撃で言葉が出なかった。
 「まさか……叔父様が運転手さんに薬を盛ったの?」
 信じられない思いで湯呑を見つめる。

 まさか、まさか、まさか

 だが、凜は確かに湯呑に刻まれた記憶を視たのだ。間違いがあるはずがない。
 あの日、運転手がスピードを出しすぎたのは睡眠薬を盛られたせいで意識がなくなり、事故を起こしたといことになる。
 つまり、丹造が両親を事故で死なせた元凶ということになる。

 「そんな……お父様たちは叔父様に殺されたということ?」

 凛の言葉と同時に、蔵の中に陽の光が入った。
 振り向くと開いた扉の前に、目を剥いて驚愕の表情で凜を見る丹造が立っていた。