時鬼家の来訪からしばらくしたある日、凛は翌日の朝食の仕込みが終わり、そろそろ部屋に戻ろうという段になって、他の使用人から声を掛けられた。
 
 「凛、旦那様が呼んでいるわよ」
 「分かりました」
 (こんな時間に何の用かしら)
 
 殆どの使用人は各々の自室へ戻っている時間だ。
 今日は、へまをした記憶はないのだが、また何か言われて叱責されるのだろうか。
 そう考えると凛の胸が重くなるのを感じた。
 凛は不安と恐れを抱えながら丹造の部屋へと向かった。
 
 「失礼します」
 「凛か、入れ」
 
 凛が部屋の中に入ると、珍しく上機嫌な顔つきの丹造と、にやりとした笑みを浮かべた叔母の明子と華絵がいた。
 このように笑う三人を見るのは初めてで、凛は戸惑いながら丹造の前に座った。
 
 「お前に縁談が来た。明日にもこの家から出て行ってもらう」
 「え?」
 
 一瞬何を言われたか分からなかった。
 一拍置いて丹造の言葉を理解した凛は、驚いて目を見張った。
 自分のような者に縁談が来るなど夢にも思っていなかったからだ。
 戸惑っている様子の凛を見た華絵は、くすくすと笑いながら丹造の言葉を補足するように言った。
 
 「時鬼のご当主様があなたを見初めたようよ。良かったわね。名門時鬼家のご当主様に嫁げるなんて、身に余る光栄よね。本当、羨ましいわ」
 
 華絵は大仰に言うが、言葉とは裏腹に嘲笑の色があった。
 当主と言われて思い浮かんだのは、先日会った老人だ。いくら何でも歳が離れすぎている。
 
 「そんな……」
 「まぁ、縁談と言っても実質は妾でしょうけど、妾でも幸せだと思いなさい」
 「そうだ。先方からは持参金も何も不要だと言って来た。身一つで来ていいとのことだったからな。明朝、出て行くように」
 「……」
 「分かったな」
 
 すぐには返事が出来ずにいる凛に丹造が念を押す。だが、凛には拒否権などない。
 
 「は、はい。……失礼いたします」
 
 凛はそう答えるだけで精いっぱいだった。混乱した頭のまま丹造の部屋を出ると、ふらふらとした足取りで自室に戻った。
 自室に入った途端、凛はその場でへたりこんだ。
 ずっとこの家から出たいと思っていたが、それが明日になることにも実感が湧かない上、あの老人の妾になるのだという事実が受け止められない。
 叶わぬ夢だと思っていたが、いつか誰かと結婚して幸せになりたいという夢は本当に失われてしまった。
 
 凛は小物入れから髪飾りを取り出すと、その美しい銀細工に触れた。
 『幸せになって欲しい』『どんな男性と結婚するのかしら』
 この髪飾りを見ながら両親は微笑みながら凛の幸せな未来を思い描いてくれていた。
 なのに、現実には妾になるのだ。
 両親が願っていてくれていた幸せな結婚とは程遠いものだ。
 だがどんなに嫌だと思っても、凛の立場では拒否することはできない。
 
 「うっ……」
 
 簪を握る手に熱い雫がぽつりぽつりと落ちていく。気づけば思わず涙がこぼれていた。
 凛は嗚咽を押し殺して泣いた。
 
 (でも、仕方のないことだわ。ご当主様はお優しい方かもしれないし、ここでの生活よりもよくしてくださるかもしれない)
 
 そう思うことにして、凛は溢れる涙を拭うと、力の入らない体を動かして明日の出立の準備を始めた。
 そして翌朝、誰にも見送られることもないまま、凛は生まれてからずっと暮らしていた屋敷をひっそりと出た。
 
 ※
 
 時鬼家の屋敷に着いた凛は、その門の前で思わず感嘆の声を漏らした。
 
 「凄い……」
 
 赤煉瓦の門柱に異国の花の意匠の入った門扉は、話に聞いていたものよりずっと立派だ。
 さすがは華族の屋敷である。
 凛は一瞬、このまま門を潜っていいのか悩み、その場で立ち往生していると、突然門がキィと開いた。
 
 「えっ?」
 
 驚いた凛であったが、何故か入れと言われているような気がして、不安を抱えつつ門を潜った。
 木々の間の道をしばらく歩くと、白い洋館が現れた。凛は洋館のステンドグラスで彩られた玄関扉の前に立つと、恐る恐る玄関扉を開けて声をかけた。
 
 「ごめんください」
 「まぁ、お待ちしておりましたよ」
 
 出迎えてくれたのは初老の女性だった。
 白髪交じりの髪を後ろで団子に結わえ、薄紅色の着物の上に割烹着を身に付行けているこの女性は、格好からして使用人だろう。
 妾ということで冷たく迎えられると思っていた凜は、目尻を下げて柔らかな笑みで出迎えられ緊張が少し解けた気がした。
 
 「どうぞ、お世話になります。冴咲 凛と申します」
 「ようこそお越しくださいました! さぁさぁ、紫呉様がお待ちですわ。どうぞどうぞ」
 
 まるで歓迎されていると勘違いしそうなほど好意的に屋敷に迎えられて廊下を進むと、その道すがら、女性はにこやかに微笑みながら気さくに凛に声を掛けてくれた。
 
 「わたくしは倉田しずと申します。この家の家政婦をしております。紫呉様が突然奥様を迎えたいなどと仰ったのを聞いて驚きましたが、お嬢さんみたいな可愛いらしい方ならば納得です。紫呉様は一見すると怖く見えるかもしれませんが、とても気の優しい方ですのでご安心くださいね」
 
 しずはそう言うが、凛の知る紫呉は厳しい顔をして威圧的な雰囲気だったためどうしても怖いという印象しかない。だが、確かに自分のようなさして美しくもない、みそぼらしい女を妾としてでも迎えてくれるのだから、優しい方なのかもしれない。
 
 (そうよね。妾としてでも私を迎えてくれるのだから、精いっぱいお仕えしなくては)
 
 そう思っているとしずが部屋の前で足を止めて、声をかけた。
 
 「紫呉様、冴咲凛様がお付きになりました」
 「入れ」
 (え?)
 
 中から聞えたのは若い男性の声だった。そのことに違和感を覚えつつ、凛が部屋に入るとあの付き人の青年が革張りの椅子に座って本を読んでいた。
 
 「あぁ、来たか」
 青年は本から顔を上げると凛を見てそう言った。
 「しず、お茶を頼む。君はそこに座ってくれ」
 「は、はい。失礼します」
 凛は青年に勧められたソファに座り、室内を見回して当主の姿を探すが、室内には青年だけのようだ。
 
 「あの、紫呉様にご挨拶をしに参りましたが……ご不在でしたでしょうか」
 その言葉を聞いた青年は訝し気な表情を浮かべた。
 「なんだ? まだ分かっていないのか? 君はこの間気づいていたじゃないか」
 「……え。では、やはりあなた様がご当主様だったのですね」
 では何故紫呉は倉田の付き人の様に振舞っていたのだろうと首を傾げていると、紫呉は事の内容を説明してくれた。
 
 紫呉は知人から丹造との取引を持ち掛けられ、断り切れず冴咲家を訪ねることになった。だが、相手はどんな人間かも分からない。時鬼家は華族という家柄もあり、縁故を結びたい家が多く、女性を送り込んで誘惑してくる者、陥れようと虎視眈々と醜聞を狙う者、下心を持ってすり寄って来る者など、様々な人間に接することになる。
 それゆえ、初対面の人間には信頼に値するかを確認する意味で、倉田を当主だと偽って接触させ、相手の性格や本音を見定めるのだという。
 
 「俺がただの付き人だと思うと、対応や話し方がぞんざいになる人間が多い。本性を見るのには都合がいいんだ」
 「そういうことだったのですね」
 入れ替わりの事情が分かって凜が納得すると、紫呉が思い出したように話を変えた。
 「そうだ。本当は倉田を迎えにやるはずだったんだが、別件で屋敷を開けていて、君には歩いて来てもらって悪いことをした。疲れただろう。君の部屋を用意しているから休むといい」
 「あの……妾の私が本宅に住んでもよいのでしょうか?」
 紫呉の言い方だと、凛の部屋がこの屋敷にあるように聞こえた。だが、妾というのは本来別宅で暮らすものだ。本宅に部屋を貰うなど聞いたことがない。
 
 だが凛の問いに、紫呉が眉間に皺を寄せた。
 「どういう意味だ?」
 「え?ああ、あの……冴咲の者に妾になるのだと言われて来ましたので」
 もし当主が老齢の男性であるならともかく、美丈夫の紫呉が、さして美しくもないみすぼらしい自分を本気で娶ろうと思うわけがない。
 だから妾になるのだと思っていたが違うのだろうか?
 「なるほどな。どうやら誤解があるようだ」
 紫呉はそう言うと、足を組み直し、腕を組んで言葉を続けた。
 
 「まず君に婚姻を申し込んだのは事実だ。だが、妾にするつもりはない。君をあの家から引き取るには婚姻と言う形が一番適当だったからだ」
 「引き取る、ですか? 何故でしょうか?」
 「君には常人が持ち合わせていない力があるのではないか?」
 その言葉に凛は息を呑んだ。なるべく平静を装って、何とか首を振って否定しようとした。
 だが、声が震えてしまう。
 「いいえ、ありません」
 「では質問を変えよう。あの日、何故君は俺が紫呉だと分かった? あの場では皆、倉田が当主の〝紫呉〟で、俺はその付き人だと思っていた。なのに、君だけはそうではなかった。それは何故だ?」
 紫呉は無言でいる凛を見つめる。まるで決して嘘は見逃さないという様に。
 だが、力のことなど絶対に言えない。
 叔父たちが、使用人たちが、化け物を見る様な目で自分を見る。
 その目を思い出して、凛はぎゅっと手を握り目を強く瞑った。
 
 「君は物の記憶を視ることができるのだろう?」
 「っ!」
 「不安に思うことはない。俺は君を恐れることはないし、気味が悪いとも思わない。何故なら俺も、人外の力を持っているからだ」
 「え……?」
 
 恐怖を思い出して伏せていた顔を、思わず上げて、凜は紫呉を見た。
 紫呉がパチリと指を鳴らすと、それに呼応するように机の上のランプに灯がついた。

 「俺の力は鬼神の力だ。触れた人間の記憶を読むこともできるし、常人には見えない妖を操ることもできる。さっきも君が門の前で立ち止まっていた時、門が自然に開いただろう? あれは俺が妖に門を開けるように命じたからだ」

 紫呉は他にも物に手を触れずに動かせること、人の考えを読むことも、その力をもって人を殺すことさえ出来るという。
 「まぁ他にも色々できることはあるが。……お前は俺の力を見て気持ち悪いと思うか? 恐ろしいか?」
 「いいえ。思いません」
 寧ろ人外の力を持つ仲間に会えた気持ちになり、紫呉と出会えたことも、こうしてその力を明らかにしてくれたことも嬉しくなった。だから紫呉の事は信じてもいい、そう思えた。

 凛が答えると、紫呉は小さく笑った。そして話を続けた。
 「もう一つ確認がある。その力は冴咲家直系にしか受け継がれないはずの力だ。なのに君は使用人として働いていた。何があった?」
 「……私が7歳の時、両親が事故死したのです」
 凜はこの力のせいで叔父の怒りを買ってしまい、家を追い出されない代わりに下女になったことを説明した。
 「なるほど。そういうことだったか。両親が事故死とは……原因はなんだ?」
 「車の事故です。葉山の別荘に行く途中、運転手が速度を出しすぎたために車道から外れて、崖から落ちたそうです」
 運転手の青年は朗らかで凜にも優しく接してくれていた。真面目な人間であったため、速度を出しすぎるとは思えないのだが、たまたま速度を出してしまったのかもしれない。

 「そうか。辛いことを思い出させたな。これからはこの屋敷で自由に暮らすといい。欲しいものや必要なものは何でも用意しよう」
 「えっ……ここにいてもよろしいのでしょうか?」
 「あぁ。もちろんだ。婚姻については無理強いするつもりはない。それに俺はまず君をあの家から出したかっただけだ。それに突然見ず知らずの男と婚姻など考えられないだろう。まずはこの屋敷でゆっくり過ごして、この先の事を考えればいい」
 こうして、凜は紫呉の厚意に甘える形で、しばらくの間、時鬼家に身を寄せることになったのだった。