その日、冴咲家は慌ただしかった。
 というのも、華族で伯爵の時鬼(とき)家の当主が冴咲家にやって来るからだ。
 冴咲家は海外と商いをしており、華族である時鬼家と縁が結べれば、大口の客になる。それ故、丹造は時鬼家当主――時鬼(とき)紫呉(しぐれ)の訪問に際し、使用人たちに気合を入れて準備をさせていた。
 最高級の食器に、最高級の茶や菓子が用意され、床もピカピカに磨かれ、ほこり一つないほどだ。
 凛もまた掃除を終え、そろそろ調理場へ下がろうとしていた時だった。
 丹造の声が廊下の先から聞こえて来た。

 「ようこそおいで下さいました。ささっ、どうぞ中へ」
 「失礼する」

 足音がして丹造と共に来たのは2人の男性だった。
 一人は老齢の男性だった。齢は50も後半といったところだろうか。白髪を整髪料できっちりと後ろに撫でつけており、口ひげを蓄えた様子は貫禄があった。たしか、時鬼紫呉は陸軍少佐だと聞いたが、納得の居ずまいだ。
 そしてその後ろについていたのは思わず目を見張るような美丈夫だった。
 長身ですらりとした体躯に長い手足。顔の造作は切れ長な目に高い鼻梁という容姿は日本人離れしており、人気役者と言っても通用する容姿であった。
 歩く姿はすっと背筋が伸び、纏う空気に気品が感じられる。

 (なんて美しい方なのかしら)

 不意に青年がこちらを見て、目が合ってしまう。その時、初めて凛は男性を凝視していたことに気づき、慌ててその場で膝をついて礼をした。
 老齢の男性が丹造と話ながらジャケットを脱ぐと、その後ろの青年がすかさずそれを受け取ったのだが、その瞬間コロンと音がして、凛の目の前に万年筆が転がって来た。
 どうやらジャケットのポケットから落ちてしまったようだった。
 万年筆を拾って青年に渡そうと万年筆に触れた瞬間、凛の脳内に目まぐるしく映像が駆け巡った。

 (これは、万年筆の記憶だわ)

 この老齢の男性が、この青年から万年筆を贈られている光景であった。
 『このおいぼれに、このような素晴らしい物をお与えいただくとは、身に余る光栄です。ありがとうございます、紫呉様』
 『倉田にはいつも助けられている。これからもよろしく頼む』
 この会話から察するに、お付きだと思っていた青年の方が時鬼家当主である紫呉なのだろう。

 (ご老人の方がご当主様だと勘違いしてたわ)
 凛がそう考えていると、突然大きな声で丹造に名を呼ばれ、凛は我に返った。
 「凛、お客人にお茶を用意しろ」
 「は、はい。かしこまりました」
 凛は慌てて礼をして、その場を離れた。
 
 ※
 
 お茶の用意を済ませた凛は、それを持って丹造たちのいる客間へ向かい、障子の前で声をかける。
 「失礼いたします。お茶をお持ちいたしました」
 「入れ」
 丹造の言葉を受けて障子を開けると、いつものように客人にお茶を出そうとして、凛は手を止めた。
 奥に座っているのが老齢の男性で、手前の障子側の席に青年が座っていたからだ。

 (どういうこと? 若い男性の方が当主の紫呉様なはずなのだけど……)

 礼儀として入口よりも奥が上座にあたり、身分の上の人物が座るものである。先ほど視た物の記憶からは、青年が当主の紫呉であり、老齢の男性は使用人の倉田という人物のはずだ。
 なのに、何故逆に座っているのだろうか?
 凛は首を傾げながら、青年の前にお茶を置いた。

 「何をやっとるか!」
 突然丹造に怒鳴られ、凛はびくりと肩を震わせた。
 「お前はお茶の一つも出せないのか!?」
 「え……?」
 「まずはご当主である紫呉様にお茶を出すのが先だろう! ったく、まともに茶も出せないとは」
 「で、ですが、この方がご当主様でございますが」
 凛は何故怒られているのかが理解できず、戸惑いながら丹造に言った。

 その様子を見た倉田と呼ばれていた男性は低い声で凛を庇った。
 「気になさらず。誰しも間違えることはある」
 「本当に、申し訳ございません。使用人の教育も出来ず。いやはやお恥ずかしいところをお見せいたしました。……凛、お茶を置いてさっさと戻りなさい」
 「は、はい。大変申し訳ありませんでした」
 凛は慌てて深く礼をすると、逃げるように部屋を出た。
 緊張から息を深く吐き出す。丹造のあの剣幕だと夕食抜きだろう。
 (失敗してしまったわ。でも、あれはどういうことなのかしら?)

 「君、ちょっといいか?」
 ぼうっと考えながら調理場に向かっていると、背後から突然声を掛けられ、振り返ると先ほどの青年が立っていた。
 「は、はい。なんでございましょう」
 「なぜ俺が時鬼家当主だと思った?」
 「えっ? そ、それは……」
 まさか本当のことなど言えるわけもなく、歯切れの悪い言葉しか出てこない。
 「なんとなく、です」
 真っ直ぐに見つめて来る青年の視線を直視することができず、思わず視線を逸らしてしまう。

 だが、突然青年にグイと手首を掴まれ、引っ張られたかと思うと、目の前に青年の端正な顔が迫っていた。
 間近で目が合い、思わず息を呑む。
 同時にドクンと心臓が音を立て、顔がかっと熱を持った。
 青年の瞳には驚いている表情の自分の顔が映り、互いの心を覗くように見つめ合う形になった。視線を逸らしたくても囚われてしまったように目を逸らすことができない。
 だが、瞬間。青年の瞳が金色へと変わったように見えた。

 「っ!」

 凛が驚き、小さく声を漏らすと、青年の手から熱が伝わってきて、凛の体をうねるように駆け抜けた。そして、様々な映像が濁流のように頭に浮かんでは流れていく。
 くらくらして、自分がどこに立っているのか分からない。
 息が詰まって目の前が真っ白になっていった。
 だがそれも一瞬のことだった。
 次に凛が気づいた時には、廊下にへたり込んでいた。大きく肩で息をして新鮮な空気を肺へと流し込んだ。

 「君は……」

 青年がぽつりとつぶやきを漏らし、凛を驚きの表情で見ていた。
 「いや、なんでもない。君の名前は?」
 「凛と申します」
 「そうか。呼び止めて悪かった。今度ゆっくり話をしよう」
 そう言って青年は背を向けて戻っていった。

 (さっきのはなんだったのかしら?)

 青年の突然の行動にも驚いたが、触れられた時の奇妙な感覚が体に残って、まだくらくらしている気がする。
 息がかかるほどに近寄った青年の顔を思い浮かべると、再び顔が真っ赤になってしまう。
 とても美しい男性だった。
 彼は「今度」などと言ったが、もうその機会などないのは明らかだ。
 相手は華族で自分はただの使用人なのだから。

 「早く夕食の準備を手伝わなくては」

 凛は気持ちを切り替えるようにそう言うと、再び調理場に向かうことにした。
 だが数日後、時鬼家当主から凛に婚姻の申し込みが来た。