昼間、丹念に磨いた店内は、あっという間に塩で真っ白になった。千秋が頭にかかった塩をふるい落とし、落とした塩をりんが掃く。
その横で、見知らぬ男性が、ぽつんと椅子にかけていた。先ほど、店の前に立っていた男性だ。千秋が招き入れたものの、座ったまま微動だにしない。
「あの、若旦那様……」
「やめてくれ。『千秋さん』とか何とか、他に呼び名はあるやろ」
「じ、じゃあ……若様」
「それもどうやろうなぁ……まぁええわ。なに?」
千秋は、まだちょっとへそを曲げたままだ。じっとりとした視線を、りんは甘んじて受ける。
「あのお人……どなたです? お客さんですか?」
「そうやで」
「でも、あのお人……」
ちらりと『客』を見る。いかにも勤め人の紳士だが、さきほどから何も話さず、そしてじっと壁を見つめたままだ。千秋にもりんにも、目もくれずに。
千秋が快く招き入れたので、もしや普通のお客なのかと思ったが、やはりどう考えても奇妙だ。
「ご明察。あやかしさんやな」
「やっぱり!」
「気ぃつけや。お客さんに塩なんぞぶちまけて、怪我させたらどないするんや」
「怪我? 塩で?」
まだ少し塩辛いのか、顔をしかめて舌を出す千秋は、塩壺を指して小声で言う。
「なんで九字と一緒に塩をかけようとした? 追い払うためやろ? 効果があると思たんやろ? 正解や、効果がある。そやから、大事なお客さんを傷つけるところやったんや」
「あ……え、えらいすんまへん!」
ようやく事の重大さに気付き、りんが大きく頭を下げる。すると客の紳士は、くるりとこちらを向いた。
「かましまへん」
先ほどと同じ口調で、だが先ほどよりもどこか柔らかな声音で、そう告げた。
「良かったな。昼間のんと違て、穏やかなお人で」
こちらを向いたまままた動かない紳士に、千秋は向き直る。塩まみれになった手ぬぐいを畳んで、居住まいを正した。
「遅なってすんまへん。何を食べはりまっか?」
千秋が尋ねると、紳士はゆっくりと頷いた。
思えば、この店には決まった料理がないようだ。客の注文に合わせて、その場その場で色々拵えるのだろうか。
千秋の問いに、紳士はたどたどしくも迷いなく答える。
「飯……魚……卵……」
掃除の合間に厨房を見たが、今言われた材料はすべて揃っていた。
(焼き魚とご飯と卵焼きと、あと汁物を一つつけて……いうところやろか)
ちょっと豪勢な飯屋の料理を想像していた。だが、紳士はもう一つ、告げた。
「……牛の乳」
「ほぅ」
「牛の乳!?」
思わず声を挙げてしまったりんとは対照的に、千秋と紳士は、淡々と会話を続けている。
「飯に魚に卵に牛の乳……もしかしてケズレーのことかいな。いやぁ西洋料理に詳しいでんな」
なんだか機嫌が良くなった様子の千秋は、笑いながら立ち上がる。紳士は、それにぺこりと小さくお辞儀をした。
「ほな、ちょっと待っといてんか」
そう言って、前掛けと襷を身につけると、千秋はくるりとりんを振り返る。
「あんた……えっと……何て呼んだらええんや?」
「『りん』と、お呼び下さい」
「ほな、りん。お客さんに、お茶出してんか」
「は、はい!」
ずんずん歩く千秋に着いて、りんは厨房に向かった。
これから、昼に作ったような不可思議な料理を作るのだろうかと思うと、気に入ってもらえるのだろうかという不安と、そしてそれを上回る期待が、湧いてくるのだった。
その横で、見知らぬ男性が、ぽつんと椅子にかけていた。先ほど、店の前に立っていた男性だ。千秋が招き入れたものの、座ったまま微動だにしない。
「あの、若旦那様……」
「やめてくれ。『千秋さん』とか何とか、他に呼び名はあるやろ」
「じ、じゃあ……若様」
「それもどうやろうなぁ……まぁええわ。なに?」
千秋は、まだちょっとへそを曲げたままだ。じっとりとした視線を、りんは甘んじて受ける。
「あのお人……どなたです? お客さんですか?」
「そうやで」
「でも、あのお人……」
ちらりと『客』を見る。いかにも勤め人の紳士だが、さきほどから何も話さず、そしてじっと壁を見つめたままだ。千秋にもりんにも、目もくれずに。
千秋が快く招き入れたので、もしや普通のお客なのかと思ったが、やはりどう考えても奇妙だ。
「ご明察。あやかしさんやな」
「やっぱり!」
「気ぃつけや。お客さんに塩なんぞぶちまけて、怪我させたらどないするんや」
「怪我? 塩で?」
まだ少し塩辛いのか、顔をしかめて舌を出す千秋は、塩壺を指して小声で言う。
「なんで九字と一緒に塩をかけようとした? 追い払うためやろ? 効果があると思たんやろ? 正解や、効果がある。そやから、大事なお客さんを傷つけるところやったんや」
「あ……え、えらいすんまへん!」
ようやく事の重大さに気付き、りんが大きく頭を下げる。すると客の紳士は、くるりとこちらを向いた。
「かましまへん」
先ほどと同じ口調で、だが先ほどよりもどこか柔らかな声音で、そう告げた。
「良かったな。昼間のんと違て、穏やかなお人で」
こちらを向いたまままた動かない紳士に、千秋は向き直る。塩まみれになった手ぬぐいを畳んで、居住まいを正した。
「遅なってすんまへん。何を食べはりまっか?」
千秋が尋ねると、紳士はゆっくりと頷いた。
思えば、この店には決まった料理がないようだ。客の注文に合わせて、その場その場で色々拵えるのだろうか。
千秋の問いに、紳士はたどたどしくも迷いなく答える。
「飯……魚……卵……」
掃除の合間に厨房を見たが、今言われた材料はすべて揃っていた。
(焼き魚とご飯と卵焼きと、あと汁物を一つつけて……いうところやろか)
ちょっと豪勢な飯屋の料理を想像していた。だが、紳士はもう一つ、告げた。
「……牛の乳」
「ほぅ」
「牛の乳!?」
思わず声を挙げてしまったりんとは対照的に、千秋と紳士は、淡々と会話を続けている。
「飯に魚に卵に牛の乳……もしかしてケズレーのことかいな。いやぁ西洋料理に詳しいでんな」
なんだか機嫌が良くなった様子の千秋は、笑いながら立ち上がる。紳士は、それにぺこりと小さくお辞儀をした。
「ほな、ちょっと待っといてんか」
そう言って、前掛けと襷を身につけると、千秋はくるりとりんを振り返る。
「あんた……えっと……何て呼んだらええんや?」
「『りん』と、お呼び下さい」
「ほな、りん。お客さんに、お茶出してんか」
「は、はい!」
ずんずん歩く千秋に着いて、りんは厨房に向かった。
これから、昼に作ったような不可思議な料理を作るのだろうかと思うと、気に入ってもらえるのだろうかという不安と、そしてそれを上回る期待が、湧いてくるのだった。