すると、なにか冷たい空気に触れた気がした。まだ冬ではないのに、急に雪山に迷い込んだような肌寒さを感じていた。
だが寒さと同時に、不思議と温もりのようなものも感じていた。ふいに誰かの手に触れたかのような、ほのかな温もりだ。
いったい何の温もりなのか。それに思い至るより先に、誰かの声が聞こえた。
――お父ちゃん、美味しいなぁ!
――ホンマや。牛のお乳がこんなに美味しいなんてなぁ
笑っている。誰かと一緒に食卓を囲みながら、その笑顔を見て温かな気持ちが湧いた。
英国からの客人に聞いた料理を、家族にも食べてみてもらおうと思ったのだった。自分でも牛の乳を使うのかと驚いたが、言われたとおり作ってみると、美味しかった。きっと喜んでもらえる。
食べさせてやりたい。食べてもらいたい。
ああ、良かった。喜んでくれた。
もっと他にも美味しい料理はないものか。家族のために。妻を、子どもを、喜ばせたい。
そんな想いが、りんの胸の内に溢れた。その想いは、りんのものじゃない。きっと、このあやかしのものだ。
こんな風にあやかしの想いを感じることなんて、初めてだ。驚きと、そしてまどろみに近い心地よさに、いつの間にか身を委ねていた。
だが、また急激な寒さに襲われた。
ああ、なんてことをしてしまったんだろう。そう、思っている。
あやかし自身の想いを感じるからこそ、わかる。
このあやかしは、家族を愛する優しい紳士を喰らってしまった。ただただ膨らむ欲を抑えきれず、目についた人間を喰らったのだ。
喰らうことで、ほんの一時、空腹は癒えた。だが、それを越える罪悪感と虚無感に襲われた。家族の愛に触れてしまったから。
その苦しみを少しでも和らげようと、あやかしは紳士のふりをして『家族』の元に帰った。
だがそのせいで、知ってしまった。自分の奪ったものがいかに大きなものか。自分の罪がいかに大きく、深いか。
そして、自分を恐れるようになった。
それだけの焦燥に駆られながらも、時が経てば、また腹が減ってくる。少し気を抜くと、『家族』まで喰いたいと思ってしまう。
それだけは、嫌だ。
そう思って家族から離れ、往くあてもなく歩いていたら、店の灯りが見えた。暗闇の中ぽつんと灯る光に惹かれて、気付いたら、店の前に立っていた。
すると、人間の男が声をかけてくれた。聞けば、この店の店主だという。柔らかな笑みを浮かべて招き入れてくれた、その店主は……
「若様……」
目の前で心配そうな顔でりんを見つめる、千秋その人だった。
(そうか。このお客さんは、若様に救いを求めて来はったんや……)
空腹と、欲と、それに抗う『家族』への情と。それらが胸の内でぐるぐる混ざり合って反発し合い、息もできないような苦しみに悶えていた。
だから、この紳士はこの店にたどり着いた。
家族の笑顔、美味しい料理、救いの一皿……りんの胸までが、大きな波に飲まれていくようだった。気付くと、そんな気持ちが溢れかえって、温かく頬を濡らしていた。
「これは……思い出のお料理なんですね」
「……そうみたいやな」
りんは、そっと匙を手にする。そして、手を合わせて言った。
「いただきます」
だが寒さと同時に、不思議と温もりのようなものも感じていた。ふいに誰かの手に触れたかのような、ほのかな温もりだ。
いったい何の温もりなのか。それに思い至るより先に、誰かの声が聞こえた。
――お父ちゃん、美味しいなぁ!
――ホンマや。牛のお乳がこんなに美味しいなんてなぁ
笑っている。誰かと一緒に食卓を囲みながら、その笑顔を見て温かな気持ちが湧いた。
英国からの客人に聞いた料理を、家族にも食べてみてもらおうと思ったのだった。自分でも牛の乳を使うのかと驚いたが、言われたとおり作ってみると、美味しかった。きっと喜んでもらえる。
食べさせてやりたい。食べてもらいたい。
ああ、良かった。喜んでくれた。
もっと他にも美味しい料理はないものか。家族のために。妻を、子どもを、喜ばせたい。
そんな想いが、りんの胸の内に溢れた。その想いは、りんのものじゃない。きっと、このあやかしのものだ。
こんな風にあやかしの想いを感じることなんて、初めてだ。驚きと、そしてまどろみに近い心地よさに、いつの間にか身を委ねていた。
だが、また急激な寒さに襲われた。
ああ、なんてことをしてしまったんだろう。そう、思っている。
あやかし自身の想いを感じるからこそ、わかる。
このあやかしは、家族を愛する優しい紳士を喰らってしまった。ただただ膨らむ欲を抑えきれず、目についた人間を喰らったのだ。
喰らうことで、ほんの一時、空腹は癒えた。だが、それを越える罪悪感と虚無感に襲われた。家族の愛に触れてしまったから。
その苦しみを少しでも和らげようと、あやかしは紳士のふりをして『家族』の元に帰った。
だがそのせいで、知ってしまった。自分の奪ったものがいかに大きなものか。自分の罪がいかに大きく、深いか。
そして、自分を恐れるようになった。
それだけの焦燥に駆られながらも、時が経てば、また腹が減ってくる。少し気を抜くと、『家族』まで喰いたいと思ってしまう。
それだけは、嫌だ。
そう思って家族から離れ、往くあてもなく歩いていたら、店の灯りが見えた。暗闇の中ぽつんと灯る光に惹かれて、気付いたら、店の前に立っていた。
すると、人間の男が声をかけてくれた。聞けば、この店の店主だという。柔らかな笑みを浮かべて招き入れてくれた、その店主は……
「若様……」
目の前で心配そうな顔でりんを見つめる、千秋その人だった。
(そうか。このお客さんは、若様に救いを求めて来はったんや……)
空腹と、欲と、それに抗う『家族』への情と。それらが胸の内でぐるぐる混ざり合って反発し合い、息もできないような苦しみに悶えていた。
だから、この紳士はこの店にたどり着いた。
家族の笑顔、美味しい料理、救いの一皿……りんの胸までが、大きな波に飲まれていくようだった。気付くと、そんな気持ちが溢れかえって、温かく頬を濡らしていた。
「これは……思い出のお料理なんですね」
「……そうみたいやな」
りんは、そっと匙を手にする。そして、手を合わせて言った。
「いただきます」