「一部屋しか空いていなかったんだ」
申し訳なさそうに頭を掻いて、コウ君は言った。私は、セミダブルベッドの上でぐったりと横たわり、上着のポケットから取り出したスマホを握り締める。
本当は酔いが覚めつつあり、背筋を正して座ることができるのだけれど、弱々しく純朴な女に見えなくてはならない。
私は震える声で言った。
「だ、だめです」
「だめ?」
私は少し顎を引いて頷いた。
「付き合ってもいない男性と同じ部屋で……なんて」
コウ君は「ああ」と呟いた。口の端に薄っすらと嘲笑が浮かんでいる。
「じゃあさ、付き合う?」
「え?」
シャワーを浴びた直後の石鹸の匂いが近づいて来る。
「実は俺さ、越智さんのことすごく気に入ったんだけど」
「わ、私なんかのどこを」
「そういう、自己肯定感が低いところとか。何というか守ってあげたくなる」
体温の高い手のひらが、私の頬を撫でた。
きゅっ、と胸の奥が締め付けられる。自己肯定感が低いから、利用しやすいと思い、私に目をつけたのか。
「とにかく、だめ。やめてください……」
「俺のことが嫌?」
「そうじゃなくて」
「じゃあ良いでしょ。俺の彼女になってよ。一生大切にするから」
「でも、こんなこと、会社のみんなに知られたら」
「知られないよ」
仰向けに寝転がる私の上に、大きな影が降って来る。
「君か俺が言わなければ、誰にも知られない」
そう、コウ君の言う通りだ。
言わなければ誰にも知られない。私かあなたが、口に出さなければ。
普段と違う石鹸を使っても、コウ君の肌からはいつもと同じ香りがする。懐かしい匂いに包まれながら、気づけば目尻から涙が零れ落ちていた。コウ君はそれを唇で吸い取って、「大丈夫、心配ないよ、好きだよ」と囁いた。
涙の理由は、私にも明確にはわからない。愛した人に裏切られた屈辱を痛感したからなのか、それとも愛おしい肌の感触に思慕が募ったからなのか。そのどちらもであるような気がしつつ、実は共に異なるような予感もする。
理由のわからない涙、張り裂けそうな胸の痛み。複雑で濃密な感情の渦。ふと思い至る。……まるで物語の主人公にでもなったかのようだ。
地味で平凡な普通の会社員の私が、こんな悲劇の舞台に立っているなんて、奇跡のように心地良い。
こめかみを流れる涙は止まることを知らない。
その日から私達は、人目を忍んで交際を始めた。定期的に遠出をして、仲睦まじい写真をたくさん撮った。もちろん、誰に見せることもできないけれど、コウ君は「いつか結婚式で使うんだから、たくさん撮ろう」と言って微笑んだ。
一方で、誕生日などのイベント事の時には、決まってコウ君とは会えなかった。仕事があるとか、家族仲がとても良いから両親兄妹と食事に行くのだとか。純粋な馬鹿を演じる私は鷹揚に受け入れて、いつも笑顔を絶やさない。コウ君は私が良い子であることを一寸たりとも疑っていないようだ。
それから、私の生活にも、ほんの少しだけ変化があった。コウ君のSNSを探る中、ひょんなことからヨガに興味を持ち、レッスンに通い始めたのだ。生活スタイルの関係か、毎回更衣室で顔を合わせる同世代の女性がいた。勇気を出して話しかけたことがきっかけで仲良くなり、交友を深めている。
他愛もない日々の雑談の中、コウ君にそれを伝えると、一瞬真顔になってから、柔らかな表情で「良かったね」と言ってくれた。
そうこうするうちに、早九ヶ月。やがて、運命の日がやって来る。
「ど、どうしようコウ君。さっきすれ違った人、エリアマネージャーだよね。ほら、この前視察に来ていた……」
クリスマスの気配に浮足立つ街で、社内の知人に姿を認められてしまったけれど、今は何も怖くない。
その晩、私は自宅で、全てを破壊するための時限爆弾を用意した。
深夜、時計の短針が十二を指す。雌伏の時の終わりを告げる秒針が、規則正しい音を室内に響かせていた。
申し訳なさそうに頭を掻いて、コウ君は言った。私は、セミダブルベッドの上でぐったりと横たわり、上着のポケットから取り出したスマホを握り締める。
本当は酔いが覚めつつあり、背筋を正して座ることができるのだけれど、弱々しく純朴な女に見えなくてはならない。
私は震える声で言った。
「だ、だめです」
「だめ?」
私は少し顎を引いて頷いた。
「付き合ってもいない男性と同じ部屋で……なんて」
コウ君は「ああ」と呟いた。口の端に薄っすらと嘲笑が浮かんでいる。
「じゃあさ、付き合う?」
「え?」
シャワーを浴びた直後の石鹸の匂いが近づいて来る。
「実は俺さ、越智さんのことすごく気に入ったんだけど」
「わ、私なんかのどこを」
「そういう、自己肯定感が低いところとか。何というか守ってあげたくなる」
体温の高い手のひらが、私の頬を撫でた。
きゅっ、と胸の奥が締め付けられる。自己肯定感が低いから、利用しやすいと思い、私に目をつけたのか。
「とにかく、だめ。やめてください……」
「俺のことが嫌?」
「そうじゃなくて」
「じゃあ良いでしょ。俺の彼女になってよ。一生大切にするから」
「でも、こんなこと、会社のみんなに知られたら」
「知られないよ」
仰向けに寝転がる私の上に、大きな影が降って来る。
「君か俺が言わなければ、誰にも知られない」
そう、コウ君の言う通りだ。
言わなければ誰にも知られない。私かあなたが、口に出さなければ。
普段と違う石鹸を使っても、コウ君の肌からはいつもと同じ香りがする。懐かしい匂いに包まれながら、気づけば目尻から涙が零れ落ちていた。コウ君はそれを唇で吸い取って、「大丈夫、心配ないよ、好きだよ」と囁いた。
涙の理由は、私にも明確にはわからない。愛した人に裏切られた屈辱を痛感したからなのか、それとも愛おしい肌の感触に思慕が募ったからなのか。そのどちらもであるような気がしつつ、実は共に異なるような予感もする。
理由のわからない涙、張り裂けそうな胸の痛み。複雑で濃密な感情の渦。ふと思い至る。……まるで物語の主人公にでもなったかのようだ。
地味で平凡な普通の会社員の私が、こんな悲劇の舞台に立っているなんて、奇跡のように心地良い。
こめかみを流れる涙は止まることを知らない。
その日から私達は、人目を忍んで交際を始めた。定期的に遠出をして、仲睦まじい写真をたくさん撮った。もちろん、誰に見せることもできないけれど、コウ君は「いつか結婚式で使うんだから、たくさん撮ろう」と言って微笑んだ。
一方で、誕生日などのイベント事の時には、決まってコウ君とは会えなかった。仕事があるとか、家族仲がとても良いから両親兄妹と食事に行くのだとか。純粋な馬鹿を演じる私は鷹揚に受け入れて、いつも笑顔を絶やさない。コウ君は私が良い子であることを一寸たりとも疑っていないようだ。
それから、私の生活にも、ほんの少しだけ変化があった。コウ君のSNSを探る中、ひょんなことからヨガに興味を持ち、レッスンに通い始めたのだ。生活スタイルの関係か、毎回更衣室で顔を合わせる同世代の女性がいた。勇気を出して話しかけたことがきっかけで仲良くなり、交友を深めている。
他愛もない日々の雑談の中、コウ君にそれを伝えると、一瞬真顔になってから、柔らかな表情で「良かったね」と言ってくれた。
そうこうするうちに、早九ヶ月。やがて、運命の日がやって来る。
「ど、どうしようコウ君。さっきすれ違った人、エリアマネージャーだよね。ほら、この前視察に来ていた……」
クリスマスの気配に浮足立つ街で、社内の知人に姿を認められてしまったけれど、今は何も怖くない。
その晩、私は自宅で、全てを破壊するための時限爆弾を用意した。
深夜、時計の短針が十二を指す。雌伏の時の終わりを告げる秒針が、規則正しい音を室内に響かせていた。