「香苗ちゃん、本当に大丈夫?」
同じチームの同僚たちが、心配そうに眉を下げている。
あれから私はサワーを一杯飲んで、わざと千鳥足を装った。私がお酒に弱いことは全員知っているので、違和感はないはずだ。
実のところ、人見さんたちが思っているほど、アルコールが苦手な訳ではない。だから案外意識ははっきりしているし、もちろん誰に介助されなくても真っ直ぐ歩くこともできる。
それでもあえて情けない足取りを晒しているのは、コウ君の目に留まるため。純粋で素直で馬鹿な、騙されやすい女だと思ってもらうためだ。
実際コウ君は、面白いほど簡単に騙された。居酒屋で私に興味を抱いたあの瞬間から、コウ君の目の奥には、誠実さというベールに包まれた欲望がちらちらと見え隠れしていることに、私は気づいていた。
九か月間、浮気相手とはいえ恋人として過ごした経験がある私だからこそ気づくことができる程度の微かな汚れだったけれど、決して見逃すことなどない。
記憶ではこの後、お酒で気分を悪くした私を休ませるという名目でホテルに向かい、コウ君と私は一夜を共にする。
「香苗ちゃん、お家遠いし心配だよ」
「大丈夫ですよ、電車に乗ってしまえば一本なので」
「俺と方向が同じだからね。電車に乗るまでちゃんと送って行くから心配しないで」
「まあ、溝沼さんが一緒なら安心だけど」
人見さんが、気遣わし気でいて、どこか安心したような表情をした。後輩を家まで送らなければいけなくなってしまったら面倒だな、とでも思っていたのだろう。
心に黒いドロドロを纏った私は、以前よりもずっと、他人の悪意に敏感になった。というよりも今までは、純粋であり続けるために、後ろ暗い感情の一切から目を背けていたのかもしれない。
「さあ、行こうか。歩ける?」
「はい……」
意識してか細い声を出し、コウ君の腕に縋るようにして歩く。同僚たちの、好奇と心配の入り混じった視線が背中に突き刺さったけれど、私はあえて見せつけるように、コウ君の方へと身体を寄せた。
道すがら、慣れた調子でエスコートするコウ君と、他愛もない話に花を咲かせる。
会話の内容は、頭に入らない。記憶する必要もない。そもそも一度聞いたことがある話だし、そうでなくとも彼と長く良好な関係を築く必要はないのだから。
やがて、駅の白い明かりが見えてきた。赤ら顔のサラリーマンや愉快に騒ぎ立てる学生たちが、終電間際の金曜の駅を賑やかな熱気で満たしている。
改札の前に立ち、電光掲示板を見上げる。終電まであと五分。
私は右足で自分の左足をわざと踏みつけて、よろめいた。すかさずコウ君が、私の腰を抱くようにして支えてくれる。間近で視線が重なり合う。じっとりと熱を帯びた空気が流れた心地がした。できるだけ初心に見えるような動作で、私は視線を逸らす。
「あの、ごめんなさい」
「気にしないで。それよりも大丈夫? 具合が悪い?」
上目遣いに見上げたコウ君の瞳が一瞬、獲物に狙いをつける蛇のように鋭く光った。それも束の間のことで、獣じみた眼光はすぐに影を潜め、体調不良の知人を心底案ずる表情が取り繕われた。
私は何も気づかない純粋な女の振りをして、小さく首を振る。
「いえ、大丈夫です。少し眩暈がしただけで」
「無理しないで。向こうのベンチで少し休もう」
「でも」
私はちらりと電光掲示板に目を遣る。それを遮るように、視界いっぱいにコウ君の身体が割り込んだ。
「心配しなくて良いよ。タクシーで送ってあげるから」
「それは申し訳ないです」
「どうってことはない。越智さんが電車の中で倒れちゃう方が心配だ」
コウ君は目尻の皺を深め、私の肩を抱き駅前の時計広場へと促した。相変らず賑やかな場所だけれど、植え込みの側の一角は比較的静かで、私たちは自然とそこへ吸い込まれて行った。
水を買って来ると言い、コウ君の後ろ姿が雑踏に消えて行く。私は儚げな笑みを薄っすらと浮かべたまま、ポケットに手を入れてスマホを操作する。
しばらくして、温かいほうじ茶と冷たいミネラルウォーターを手にしたコウ君が戻って来た。
「どっちが良い?」
「じゃあ、温かい方を」
お礼を言って受け取り、喉を鳴らして温かな液体を嚥下する。上下した喉骨の動きを、コウ君が見つめている気配がする。
「ねえ越智さん」
コウ君は、何気ない調子で言った。
「落ち着くまで、どこかで横になった方が良いんじゃない」
「どこかって?」
「駅前のビジネスホテルとか」
ほら来た。笑い声が出そうになるのを堪えるのが大変だ。
私は警戒した小動物のように視線を彷徨わせ、それから口元を押さえ、急にもよおした吐き気を堪える演技をする。
「大丈夫!?」
「は……い……」
「やっぱりゆっくり休んだ方が良い。どうせ終電もないし、タクシーを呼ぶよりも泊まった方が安いし。ああ、もちろん部屋は別にするから心配しないでよ」
けれど一時間後、結局私たちは同じベッドで横になっていた。
同じチームの同僚たちが、心配そうに眉を下げている。
あれから私はサワーを一杯飲んで、わざと千鳥足を装った。私がお酒に弱いことは全員知っているので、違和感はないはずだ。
実のところ、人見さんたちが思っているほど、アルコールが苦手な訳ではない。だから案外意識ははっきりしているし、もちろん誰に介助されなくても真っ直ぐ歩くこともできる。
それでもあえて情けない足取りを晒しているのは、コウ君の目に留まるため。純粋で素直で馬鹿な、騙されやすい女だと思ってもらうためだ。
実際コウ君は、面白いほど簡単に騙された。居酒屋で私に興味を抱いたあの瞬間から、コウ君の目の奥には、誠実さというベールに包まれた欲望がちらちらと見え隠れしていることに、私は気づいていた。
九か月間、浮気相手とはいえ恋人として過ごした経験がある私だからこそ気づくことができる程度の微かな汚れだったけれど、決して見逃すことなどない。
記憶ではこの後、お酒で気分を悪くした私を休ませるという名目でホテルに向かい、コウ君と私は一夜を共にする。
「香苗ちゃん、お家遠いし心配だよ」
「大丈夫ですよ、電車に乗ってしまえば一本なので」
「俺と方向が同じだからね。電車に乗るまでちゃんと送って行くから心配しないで」
「まあ、溝沼さんが一緒なら安心だけど」
人見さんが、気遣わし気でいて、どこか安心したような表情をした。後輩を家まで送らなければいけなくなってしまったら面倒だな、とでも思っていたのだろう。
心に黒いドロドロを纏った私は、以前よりもずっと、他人の悪意に敏感になった。というよりも今までは、純粋であり続けるために、後ろ暗い感情の一切から目を背けていたのかもしれない。
「さあ、行こうか。歩ける?」
「はい……」
意識してか細い声を出し、コウ君の腕に縋るようにして歩く。同僚たちの、好奇と心配の入り混じった視線が背中に突き刺さったけれど、私はあえて見せつけるように、コウ君の方へと身体を寄せた。
道すがら、慣れた調子でエスコートするコウ君と、他愛もない話に花を咲かせる。
会話の内容は、頭に入らない。記憶する必要もない。そもそも一度聞いたことがある話だし、そうでなくとも彼と長く良好な関係を築く必要はないのだから。
やがて、駅の白い明かりが見えてきた。赤ら顔のサラリーマンや愉快に騒ぎ立てる学生たちが、終電間際の金曜の駅を賑やかな熱気で満たしている。
改札の前に立ち、電光掲示板を見上げる。終電まであと五分。
私は右足で自分の左足をわざと踏みつけて、よろめいた。すかさずコウ君が、私の腰を抱くようにして支えてくれる。間近で視線が重なり合う。じっとりと熱を帯びた空気が流れた心地がした。できるだけ初心に見えるような動作で、私は視線を逸らす。
「あの、ごめんなさい」
「気にしないで。それよりも大丈夫? 具合が悪い?」
上目遣いに見上げたコウ君の瞳が一瞬、獲物に狙いをつける蛇のように鋭く光った。それも束の間のことで、獣じみた眼光はすぐに影を潜め、体調不良の知人を心底案ずる表情が取り繕われた。
私は何も気づかない純粋な女の振りをして、小さく首を振る。
「いえ、大丈夫です。少し眩暈がしただけで」
「無理しないで。向こうのベンチで少し休もう」
「でも」
私はちらりと電光掲示板に目を遣る。それを遮るように、視界いっぱいにコウ君の身体が割り込んだ。
「心配しなくて良いよ。タクシーで送ってあげるから」
「それは申し訳ないです」
「どうってことはない。越智さんが電車の中で倒れちゃう方が心配だ」
コウ君は目尻の皺を深め、私の肩を抱き駅前の時計広場へと促した。相変らず賑やかな場所だけれど、植え込みの側の一角は比較的静かで、私たちは自然とそこへ吸い込まれて行った。
水を買って来ると言い、コウ君の後ろ姿が雑踏に消えて行く。私は儚げな笑みを薄っすらと浮かべたまま、ポケットに手を入れてスマホを操作する。
しばらくして、温かいほうじ茶と冷たいミネラルウォーターを手にしたコウ君が戻って来た。
「どっちが良い?」
「じゃあ、温かい方を」
お礼を言って受け取り、喉を鳴らして温かな液体を嚥下する。上下した喉骨の動きを、コウ君が見つめている気配がする。
「ねえ越智さん」
コウ君は、何気ない調子で言った。
「落ち着くまで、どこかで横になった方が良いんじゃない」
「どこかって?」
「駅前のビジネスホテルとか」
ほら来た。笑い声が出そうになるのを堪えるのが大変だ。
私は警戒した小動物のように視線を彷徨わせ、それから口元を押さえ、急にもよおした吐き気を堪える演技をする。
「大丈夫!?」
「は……い……」
「やっぱりゆっくり休んだ方が良い。どうせ終電もないし、タクシーを呼ぶよりも泊まった方が安いし。ああ、もちろん部屋は別にするから心配しないでよ」
けれど一時間後、結局私たちは同じベッドで横になっていた。