「越智、ちょっと……」
支店長室の扉が薄く開き、皺深い手のひらが私を手招きしている。
二度目ともなれば、驚きも感じない。私は、隣の席の人見さんから促されるより前に席を立ち、支店長室へと足を進める。
ぱたり、と音を立てて扉が閉まり、やがて、重厚な革製の椅子に腰掛けた支店長が、重い口を開いた。
「越智が、社内恋愛をしているという噂があるのだが」
できるだけ表情を動かさないようにしようと思っていた。けれど無理だった。私はほくそ笑みそうになるのを必死で堪え、意識して声を震わせた。
「そんなの、悪意のある嘘です」
「私もそう信じたいが、見たという人がいるのだよ」
「誰ですか、そんな出鱈目を言うのは」
支店長は答えない。私は全身を震わせて、落ち着きなく両手を揉んだ。眼鏡の奥で、支店長の目がすっと細まる。
「越智、悪いことは言わない。だから正直に認めなさい。今ならまだ何とかしてやれる」
「ただの誹謗中傷です」
「溝沼。チームマネージャーの溝沼紘一。そうなのだろう?」
呼吸が止まる。意識して息を吸い込んだ途端、喉の奥で小さな笑い声が漏れそうになり、必死に押さえ込んだ。
「実のところ、これがただの社内恋愛ならば、少しくらい目を瞑ることもできる。だが、ここまで大事になっているのは溝沼が」
支店長はそこで言葉を止める。
今ならば、その先に続く言葉を想像できる。ここまで大事になっているのは、コウ君が先日籍を入れて、既婚者になったからだ。
社内恋愛禁止は単なる暗黙の了解。就業規則に明記されてはいない。けれど不倫となれば話は別だ。
沈黙の帳が下りる。私は少し大袈裟過ぎるほどに動揺した仕草で躊躇を表し、支店長の顔色を窺った。
あまりの怯えように哀れみを覚えたのだろうか、支店長は少し表情を緩めた。
「心配しなくて良い。正直に言ってみなさい」
「はい。わかりました」
私は素直に頷いて、ポケットからスマホを取り出した。怪訝そうな視線が返って来る。私はスマホを操作した。
「何を」
「支店長にお聞きいただきたいんです。ずっと、恥ずかしくて、怖くて……誰にも言えなかったことです。私、脅されているんです。溝沼さんに」
スマホから、音割れした男女の声が発せられた。
『実は俺さ、越智さんのことすごく気に入ったんだけど』
『わ、私なんかのどこを』
『そういう、自己肯定感が低いところとか。何というか守ってあげたくなる』
『とにかく、だめ。やめてください……』
『俺のことが嫌?』
『そうじゃなくて』
『じゃあ良いでしょ……』
ばさり、とシーツが擦れる音がして、録音はそこで途切れる。
支店長は茫然と、震える私とスマホを見つめている。私は哀れな被害者の顔を装い言った。
「脅されたんです。この時のことを言いふらされたくなければ、誰にも何も言わず、ただ従えと」
私は決意を込めた表情で顔を上げる。
「だから、私は溝沼さんと恋愛なんてしていません。弱みを握られて、無理矢理……。写真だってあります」
見ますか? と訊けば、私以上に蒼白な顔をした支店長は首を横に振り、革の椅子に沈み込んで額を抱えた。
「もうわかった。結構だ。辛いことを話させてすまなかった。あとは溝沼から話を聞く」
私は拍子抜けする思いで、強面を見上げた。この人、案外騙されやすい人間だったのか。いつもは鬼の形相で支店内を闊歩しているけれど、意外と純粋で良い人で……馬鹿だ。
「仕事に戻れるか?」
「はい」
気遣わし気な声が降って来る。私は深々とお辞儀をして、俯いたまま支店長室を出る。にやけた頬を認められてしまわないように、ずっとずっと、自分の足先を見て歩いた。
支店長室の扉が薄く開き、皺深い手のひらが私を手招きしている。
二度目ともなれば、驚きも感じない。私は、隣の席の人見さんから促されるより前に席を立ち、支店長室へと足を進める。
ぱたり、と音を立てて扉が閉まり、やがて、重厚な革製の椅子に腰掛けた支店長が、重い口を開いた。
「越智が、社内恋愛をしているという噂があるのだが」
できるだけ表情を動かさないようにしようと思っていた。けれど無理だった。私はほくそ笑みそうになるのを必死で堪え、意識して声を震わせた。
「そんなの、悪意のある嘘です」
「私もそう信じたいが、見たという人がいるのだよ」
「誰ですか、そんな出鱈目を言うのは」
支店長は答えない。私は全身を震わせて、落ち着きなく両手を揉んだ。眼鏡の奥で、支店長の目がすっと細まる。
「越智、悪いことは言わない。だから正直に認めなさい。今ならまだ何とかしてやれる」
「ただの誹謗中傷です」
「溝沼。チームマネージャーの溝沼紘一。そうなのだろう?」
呼吸が止まる。意識して息を吸い込んだ途端、喉の奥で小さな笑い声が漏れそうになり、必死に押さえ込んだ。
「実のところ、これがただの社内恋愛ならば、少しくらい目を瞑ることもできる。だが、ここまで大事になっているのは溝沼が」
支店長はそこで言葉を止める。
今ならば、その先に続く言葉を想像できる。ここまで大事になっているのは、コウ君が先日籍を入れて、既婚者になったからだ。
社内恋愛禁止は単なる暗黙の了解。就業規則に明記されてはいない。けれど不倫となれば話は別だ。
沈黙の帳が下りる。私は少し大袈裟過ぎるほどに動揺した仕草で躊躇を表し、支店長の顔色を窺った。
あまりの怯えように哀れみを覚えたのだろうか、支店長は少し表情を緩めた。
「心配しなくて良い。正直に言ってみなさい」
「はい。わかりました」
私は素直に頷いて、ポケットからスマホを取り出した。怪訝そうな視線が返って来る。私はスマホを操作した。
「何を」
「支店長にお聞きいただきたいんです。ずっと、恥ずかしくて、怖くて……誰にも言えなかったことです。私、脅されているんです。溝沼さんに」
スマホから、音割れした男女の声が発せられた。
『実は俺さ、越智さんのことすごく気に入ったんだけど』
『わ、私なんかのどこを』
『そういう、自己肯定感が低いところとか。何というか守ってあげたくなる』
『とにかく、だめ。やめてください……』
『俺のことが嫌?』
『そうじゃなくて』
『じゃあ良いでしょ……』
ばさり、とシーツが擦れる音がして、録音はそこで途切れる。
支店長は茫然と、震える私とスマホを見つめている。私は哀れな被害者の顔を装い言った。
「脅されたんです。この時のことを言いふらされたくなければ、誰にも何も言わず、ただ従えと」
私は決意を込めた表情で顔を上げる。
「だから、私は溝沼さんと恋愛なんてしていません。弱みを握られて、無理矢理……。写真だってあります」
見ますか? と訊けば、私以上に蒼白な顔をした支店長は首を横に振り、革の椅子に沈み込んで額を抱えた。
「もうわかった。結構だ。辛いことを話させてすまなかった。あとは溝沼から話を聞く」
私は拍子抜けする思いで、強面を見上げた。この人、案外騙されやすい人間だったのか。いつもは鬼の形相で支店内を闊歩しているけれど、意外と純粋で良い人で……馬鹿だ。
「仕事に戻れるか?」
「はい」
気遣わし気な声が降って来る。私は深々とお辞儀をして、俯いたまま支店長室を出る。にやけた頬を認められてしまわないように、ずっとずっと、自分の足先を見て歩いた。