海から吹き上げる風が心地よい。
 都心からそう離れていないのに、意外にもこの地域では猛暑日を観測したことがないという。それは付近の海の底が深く、夏でも海水温が上昇しにくいことにも関係しているようだった。

 バス停は海沿いの旧道にあるというのでそちらを歩いて行く。
 すぐに古びたトンネルが見えてきた。
 ツタが垂れ下がり、うっそうとした木々にのまれそうになっている。

 車道のすぐ脇に歩行者用の小さなトンネルが別にあった。
 近くまで来ると入り口には『海底トンネル』と書いてあるのがわかった。トンネルの壁に地元の小学生が海の生き物を描いたらしい。
 バス停はどうやらトンネルを抜けたその先にあるようだ。

 薄明るいトンネルに足を踏み入れた。洞窟のように少しひんやりとしている。道がカーブしているのか、出口の明かりが差し込んでいるのは見えなかった。
 晴れ渡ったような濃い水色が一面に塗られ、その中に思い思いに描かれた海水生物が泳いでいた。タイにヒラメ、サメやアナゴ。海藻の隙間にイルカがいて、天井にカニが這っていたりする。
 画用紙から飛び出してきたような、いかにも小学生らしい絵だった。

 けれどもしばらくトンネルの中を歩いて行くと、だんだんと絵が上達していったのか、本物と見間違うほどリアルになっていった。
 すぐ手が届くところにいるその魚――サケだかブリだか自分にはわからないが、うろこの質感も本物みたい。
 今にもヒレが動いて泳ぎ出しそう――

 え?
 動いてる?

 その魚は体をくねらせて、きびすを返すかのように、壁の奥の方に消えていった。
 まるで、こちらの様子に気がついて逃げていくみたいだった。

 いつの間にかベタ塗りのペンキが透明度を増した水色に変わっていた。
 いや、もはや水だ。
 山をくり抜いたトンネルを歩いていると思ったら、海の中にいる。
 海底にガラス張りのトンネルを作ったのだろうか。水族館のように様々な魚が泳いでいるのが見える。

 なおも進んでいくと、天井に小さくキラリと光る物体が見えた。
 真下まで行ってよく見ると、それは指輪だった。シルバーのリングに小さなグリーンの宝石がはまっている。それが天井の外側にある。

 恋人にもらった指輪を思い出していた。それとそっくりの指輪。
 誕生日プレゼントにもらったものだ。次は婚約指輪だねといえば、あと三ヶ月は時間をくれよなんて冗談をいっていたっけ。
 でも、別れてしまった。あまりにも悔しくて海に放り投げたのだった。
 やっぱり売っておけばよかったな、なんて、今では未練もない。

 進むほどにあたりは暗くなっていった。海の深いところへ潜っていくみたいだった。
 コツン、と何かが当たる音がして天井を見上げる。
 トンネルの壁に沿ってビンが転がり落ちていった。ラベルはなくて中に紙が入っている。
 ボトルメールだろうか。
 自分も小さいころ海に流したことがあった。今では環境汚染になると、そんなイベントを行う人はいないかもしれない。

 そばを通った魚にあおられて、ビンが向こう側に転がった。
 紙の裏には写真が入っていた。ポラロイドカメラで撮影した女の子の写真。

 この子は――
 知っている。だって、この写真は自分が撮った写真だもの。
 名前は――思い出せない。
 だが、勝手にこの子の写真と連絡先を封入したのは覚えていた。
 遊ぼうっていうメッセージを添えて。

 でも、ここにあるってことは、誰にも拾われなかったということだ。
 彼女にはイタズラな連絡がこなかったのだと、ホッと胸をなで下ろす。
 ここは海のゴミが集まる場所なのだろうか。自分が海に投げ入れた物が今になって見つかるなんて。

 そのときだ。ゴツンと大きな音がして身がすくんだ。
 見上げると大きな人形のようなものがあった。
 髪が海のもずくのように揺らめいている。くすんだワンピース。ずり落ちたソックスに、靴は片方だけ。

 ギロリと髪の隙間からふたつの目が見えた。
 あの子だ。唐突に名前が浮かんだ。
 なんで忘れていたんだろう。
 もう二十年も前にいなくなったあの子。

 突き飛ばすつもりはなかったのだ。
 ちょっと肩を押しのけたら、あの子はふらっとバランスを崩して落ちていった。海の底に。
 どうしてこんなところに。

 ……そぼう……

 え?

 ……あそぼう……

 声がまとわりついてくる。
 腰が抜けてうまく立ち上がれなかった。
 でも逃げなきゃ。ここから早く出ないと。

 出口に向かって駆けだした。
 あの子が追ってくる。天井を這うように、透明な壁の向こう側で。
 いつこちら側に来るともわからない。

 闇が深くなってくる。
 うごめく何かが集まってきた。
 早く。早く。出口へ。

 先の方にぼんやりと緑の明かりが見えた。
 出口だ。転びそうになりながらそちらへ向かう。
『EXIT』と書かれたプレートの下にドアがあった。
 すがるようにドアノブに飛びつき、ドアの外へ飛び出した。

 まばゆい光の中、目がくらみながら必死にもがいて先へ進もうとする。
 けれども、足は(くう)を切るだけだった。
 遙か彼方に地平線が見える。
 断崖絶壁の岩場から海に飛び出していた。

 ――ジャボン――

 深い深い海の中。
 闇にうごめく何か。
 そうして私は海底トンネルの一部になったのだった。