「えっ」
「水は危険だから気を付けた方がいい。それじゃあ」
「あっ、ま待って! 貴方、貴方は私の命の恩人だわ! ありがとう!」
「……どうも」
「お礼がしたいの。また会えるかしら」
青年は答えるか答えまいか少し悩む。茶色い瞳が燈華をちらりと見る。そして結局、何も言わずに走り去ってしまった。
「なんか……ちょっぴり変わった感じの人だったなぁ……。へんてこな人……」
けれど。
けれど、青年のことが気になった。
水から抱き上げてくれた異形の手が、自分を見下ろした人間の目が、頭にこびりついているようだった。
「なんか、変だなぁ」
燈華は濡れている風呂敷包みを咥えると、階段を昇って通りに出た。
出動した怪異課と武闘派の妖怪によって討伐された牛鬼の周りは布で覆われ、警察官が野次馬を追い払っていた。負傷者はいたが、死者はいなかったそうだ。よかったねと言葉を交わす人間と人間に化けた狸の声を聞きながら、燈華は家を目指して歩く。
清原家は街の中心部から少し離れた小さな通りに妖怪相手の店を構える呉服商である。近付くにつれて、道を行き交う人々の中から人間が減り妖怪が増えて行く。清原家が暮らしているのは、妖怪の方が少し多い地域である。
大通りで起こった騒動のことはここまでは届いていないらしく、近隣の住人は人間も妖怪もいつも通りに過ごしていた。鞠を転がして遊んでいた二股の尾の子猫が、ほんのり湿っている燈華のことを不思議そうに見つめる。
『清原呉服店』という看板が掲げられた店の前で、人間の少女が箒を手にして立っていた。帰って来た燈華を見て小走りで駆け寄る。
「お姉ちゃん、おかえり。どうしたの、びしょびしょ」
「色々あって」
「お母さん待ってるよ」
妹は箒を適当なところに立てかけて、燈華のことをひょいと持ち上げた。
鼬は変化に長けていると言われており、その能力は狐や狸すらも凌ぐとされている。燈華の家族や従業員達も仕事中は手作業が可能な人間に変化していることが多い。
「お母さん、お姉ちゃん帰って来た」
「遅かったわね。えっ、びしょびしょじゃない! どうしたの」
「色々あって。荷物は無事」
畳に下ろされた燈華は咥えていた風呂敷包みを母に差し出した。母に頼まれていたのは、金継ぎ師に依頼していた湯呑の受け取りである。
「箱は濡れちゃったんだけど、お母さんの湯呑はなんともないよ」
「ありがとう。ふふ、おかえりなさい」
母は愛おしそうに湯呑を撫でる。若い頃に父からもらったものであり、母の宝物である。大切なものを無事に届けることができて、燈華は満足げに笑みを浮かべた。
「お姉ちゃん、体拭いてあげるよ」
「大丈夫、自分でできるから」
伸ばされる妹の手からするりと抜け、自室へ向かう。半開きの箪笥から手拭いを数枚引っ張り出した燈華は、その上でごろごろと転がった。人間の腕があれば自分の体を自在に拭うことができるのに。手拭いに埋もれながら、ぼんやりと天井を見上げる。
燈華は変化が不得手であった。完全な人間の姿になることなどできるはずがなく、耳や尻尾が飛び出す中途半端な姿にすらなれない。全身は不可能でも手や足だけを人間のものに変えられる者もいるというが、それもできた試しがない。
「あの河童は、上手に人間に化けていたな……。河童ではないのかもしれないけれど……」
運河で助けてくれた青年の姿を思い浮かべる。
「へんてこだったけど、綺麗な人だったな」
そして、燈華は大きなくしゃみをした。
「水は危険だから気を付けた方がいい。それじゃあ」
「あっ、ま待って! 貴方、貴方は私の命の恩人だわ! ありがとう!」
「……どうも」
「お礼がしたいの。また会えるかしら」
青年は答えるか答えまいか少し悩む。茶色い瞳が燈華をちらりと見る。そして結局、何も言わずに走り去ってしまった。
「なんか……ちょっぴり変わった感じの人だったなぁ……。へんてこな人……」
けれど。
けれど、青年のことが気になった。
水から抱き上げてくれた異形の手が、自分を見下ろした人間の目が、頭にこびりついているようだった。
「なんか、変だなぁ」
燈華は濡れている風呂敷包みを咥えると、階段を昇って通りに出た。
出動した怪異課と武闘派の妖怪によって討伐された牛鬼の周りは布で覆われ、警察官が野次馬を追い払っていた。負傷者はいたが、死者はいなかったそうだ。よかったねと言葉を交わす人間と人間に化けた狸の声を聞きながら、燈華は家を目指して歩く。
清原家は街の中心部から少し離れた小さな通りに妖怪相手の店を構える呉服商である。近付くにつれて、道を行き交う人々の中から人間が減り妖怪が増えて行く。清原家が暮らしているのは、妖怪の方が少し多い地域である。
大通りで起こった騒動のことはここまでは届いていないらしく、近隣の住人は人間も妖怪もいつも通りに過ごしていた。鞠を転がして遊んでいた二股の尾の子猫が、ほんのり湿っている燈華のことを不思議そうに見つめる。
『清原呉服店』という看板が掲げられた店の前で、人間の少女が箒を手にして立っていた。帰って来た燈華を見て小走りで駆け寄る。
「お姉ちゃん、おかえり。どうしたの、びしょびしょ」
「色々あって」
「お母さん待ってるよ」
妹は箒を適当なところに立てかけて、燈華のことをひょいと持ち上げた。
鼬は変化に長けていると言われており、その能力は狐や狸すらも凌ぐとされている。燈華の家族や従業員達も仕事中は手作業が可能な人間に変化していることが多い。
「お母さん、お姉ちゃん帰って来た」
「遅かったわね。えっ、びしょびしょじゃない! どうしたの」
「色々あって。荷物は無事」
畳に下ろされた燈華は咥えていた風呂敷包みを母に差し出した。母に頼まれていたのは、金継ぎ師に依頼していた湯呑の受け取りである。
「箱は濡れちゃったんだけど、お母さんの湯呑はなんともないよ」
「ありがとう。ふふ、おかえりなさい」
母は愛おしそうに湯呑を撫でる。若い頃に父からもらったものであり、母の宝物である。大切なものを無事に届けることができて、燈華は満足げに笑みを浮かべた。
「お姉ちゃん、体拭いてあげるよ」
「大丈夫、自分でできるから」
伸ばされる妹の手からするりと抜け、自室へ向かう。半開きの箪笥から手拭いを数枚引っ張り出した燈華は、その上でごろごろと転がった。人間の腕があれば自分の体を自在に拭うことができるのに。手拭いに埋もれながら、ぼんやりと天井を見上げる。
燈華は変化が不得手であった。完全な人間の姿になることなどできるはずがなく、耳や尻尾が飛び出す中途半端な姿にすらなれない。全身は不可能でも手や足だけを人間のものに変えられる者もいるというが、それもできた試しがない。
「あの河童は、上手に人間に化けていたな……。河童ではないのかもしれないけれど……」
運河で助けてくれた青年の姿を思い浮かべる。
「へんてこだったけど、綺麗な人だったな」
そして、燈華は大きなくしゃみをした。