清原燈華は人にあらず。丸い耳に、小さくも鋭い牙と爪に、長い尾。褐色の毛に覆われた体は細長く、俊敏に走り回る足を持つ。彼女は、群れると火を呼ぶとされる鼬の妖怪である。
助けて、助けてともがきながら一匹の鼬が運河を流れて行く。お遣いの荷物もどんどん流れて行く。
今日はなんて運が悪い日なのだろう。牛鬼に遭遇して、人間に蹴飛ばされて、運河に落ちて、お遣いもこなせず、このまま溺れてしまうのだ。そう思うと、燈華はなんだか泣けてきてしまった。えーん、と子供のような泣き声まで上げてしまう。
通りでは相変わらず牛鬼が暴れており、今度こそ誰かが食われたとか、まだ食われていないとか、怪異課の警察官が辿り着いたとか、まだ着いていないとか情報が錯綜していた。居合わせた善良なる腕自慢の妖怪が勝負を挑んでいるらしいという声も聞こえた。
「誰かぁ、誰かぁ」
燈華の声は誰にも届かない。もっと大きな声で叫ぼうとして、思い切り水を飲んだ。意識が遠退きかけて体が沈む。
本当に運が悪い日だったわ。そう諦めかけた燈華の耳に、大きな水音が聞こえた。何かが飛び込んだ音だ。そして、自分の体が抱き上げられる。
「君、大丈夫か」
若い男の声だ。声の主は咳込む燈華の背をさすりながら、近くの桟橋まで運んでくれる。
「泳げないのに飛び込むなんて無謀な女」
呆れた様子で水から顔を出しているのは青みがかった長髪を持つ青年だった。濡れた髪の間から赤い瞳が覗いている。ぼんやりとしている燈華の目に、彼の姿ははっきりとは映っていない。
「荷物……。荷物が、あるの……」
泳ぎ去ろうとしていた青年が燈華の消えてしまいそうな声に振り返る。周囲を見回して、どんどん流れて行く風呂敷包みを見付けるとそちらへ泳ぎ出す。
徐々に意識がはっきりとしてきた燈華は、ぷるぷると体を震わせて水滴を飛ばした。泳いでいる青年の後ろ姿を眺めながら、戻って来るのを待つ。大騒ぎの中で、自分の声を聞いて助けてくれた。一体どこの誰なのだろう。
やがて、青年が戻って来た。桟橋に上がり、風呂敷包みを燈華の横に下ろす。その手には鱗が光り、指の間に水かきが広げられていた。この青年は人間ではないようだった。
丸い目をさらに丸くして、燈華は青年を見上げる。水に濡れる長い髪が美しいな、と思った。
「貴方は……河童……?」
泳ぎが得意で、水辺に住んでいるという河童。燈華は実物を見たことはないが、もしかしたら彼がそうなのかもしれないと思って訊ねてみた。青年は答えない。
牛鬼を退治したぞ! という声が聞こえて二人は揃って通りの方を見た。帰り道は大丈夫そうだと安心した燈華が青年に視線を戻すと、そこに立っていたのは先程よりも短い黒髪を持つ青年だった。びしょ濡れの着物の袖から見えているのはつるりとした人間の手である。
助けて、助けてともがきながら一匹の鼬が運河を流れて行く。お遣いの荷物もどんどん流れて行く。
今日はなんて運が悪い日なのだろう。牛鬼に遭遇して、人間に蹴飛ばされて、運河に落ちて、お遣いもこなせず、このまま溺れてしまうのだ。そう思うと、燈華はなんだか泣けてきてしまった。えーん、と子供のような泣き声まで上げてしまう。
通りでは相変わらず牛鬼が暴れており、今度こそ誰かが食われたとか、まだ食われていないとか、怪異課の警察官が辿り着いたとか、まだ着いていないとか情報が錯綜していた。居合わせた善良なる腕自慢の妖怪が勝負を挑んでいるらしいという声も聞こえた。
「誰かぁ、誰かぁ」
燈華の声は誰にも届かない。もっと大きな声で叫ぼうとして、思い切り水を飲んだ。意識が遠退きかけて体が沈む。
本当に運が悪い日だったわ。そう諦めかけた燈華の耳に、大きな水音が聞こえた。何かが飛び込んだ音だ。そして、自分の体が抱き上げられる。
「君、大丈夫か」
若い男の声だ。声の主は咳込む燈華の背をさすりながら、近くの桟橋まで運んでくれる。
「泳げないのに飛び込むなんて無謀な女」
呆れた様子で水から顔を出しているのは青みがかった長髪を持つ青年だった。濡れた髪の間から赤い瞳が覗いている。ぼんやりとしている燈華の目に、彼の姿ははっきりとは映っていない。
「荷物……。荷物が、あるの……」
泳ぎ去ろうとしていた青年が燈華の消えてしまいそうな声に振り返る。周囲を見回して、どんどん流れて行く風呂敷包みを見付けるとそちらへ泳ぎ出す。
徐々に意識がはっきりとしてきた燈華は、ぷるぷると体を震わせて水滴を飛ばした。泳いでいる青年の後ろ姿を眺めながら、戻って来るのを待つ。大騒ぎの中で、自分の声を聞いて助けてくれた。一体どこの誰なのだろう。
やがて、青年が戻って来た。桟橋に上がり、風呂敷包みを燈華の横に下ろす。その手には鱗が光り、指の間に水かきが広げられていた。この青年は人間ではないようだった。
丸い目をさらに丸くして、燈華は青年を見上げる。水に濡れる長い髪が美しいな、と思った。
「貴方は……河童……?」
泳ぎが得意で、水辺に住んでいるという河童。燈華は実物を見たことはないが、もしかしたら彼がそうなのかもしれないと思って訊ねてみた。青年は答えない。
牛鬼を退治したぞ! という声が聞こえて二人は揃って通りの方を見た。帰り道は大丈夫そうだと安心した燈華が青年に視線を戻すと、そこに立っていたのは先程よりも短い黒髪を持つ青年だった。びしょ濡れの着物の袖から見えているのはつるりとした人間の手である。