人魚の姿になっている間はどんなに水が冷たくても平気だった。しかし、陸に上がればびしょ濡れの人間だ。夏は全然平気だが、冬は体が弱くなくとも堪えた。
花火を見ることもできず、完成間近の絵も燃え尽き、そして、盛大に熱を出した。心配した妹が母屋から寄越した立派な火鉢で暖を取りながら、雪成は布団の中で丸くなっていた。いっそ庭の池に飛び込んだままでいれば楽かもしれないと考えたが、結局後が大変なのでやらないことにした。
小さな足音が外から聞こえて、障子や襖を開ける音が続く。
「雪成さん、お加減いかが」
寝室として使っている少し奥の部屋まで燈華がやって来た。風呂敷包みを咥えた燈華は心配そうに雪成のことを見下ろしている。
「見ての通りだ」
「人間の体って弱いのね……。こんなに何日も寝込むことになるなんて」
お土産があるのよ、と燈華は言う。風呂敷包みを解いて出て来たのは一本の蝋燭だった。薄っすら赤い地には色とりどりの花火の絵が描かれている。
「これに火を点けて一緒に見ましょう。ねえ、駄目かな」
「花火……」
「そう、花火の蝋燭なの。妹の学校の先生がいいお店を教えてくれたんだ。素敵でしょ。あの日見るはずだった花火の代わり……には小さいかもしれないけど。これ見て元気になって」
雪成は布団から体を起こす。燈華はその背に脱ぎ捨ててあった掻い巻きを掛けてやった。
「わざわざ蝋燭を届けに、ここまで? 雪が積もっていて大変だっただろう」
「蠟燭が手に入ったから、早く見せてあげたくて」
作業場に燭台があるはずだ、と雪成は言う。
燈華が作業場に向かうと、しばらく使われていない室内には冷たい空気が充満していた。棚の上に置いてあった燭台を風呂敷で包んで咥える。
ふと、真新しい描きかけのキャンバスがあることに気が付いた。鉛筆でデッサンをしたらしい下書きは、見間違えようのない燈華の顔だった。驚きと喜びで思わず飛び上がる。
描いてくれたのかと問うべきだろうか。本人が言うまで知らないふりでいるべきだろうか。なんだかそわそわしながら、燈華は寝室に戻った。ちょっぴり挙動不審な燈華のことを雪成は怪訝そうに見る。
「燭台、見付かった?」
「これでしょ」
「そう。火は火鉢の火があるから……」
蝋燭を燭台に立て、燈華は毛を逆立てた。ぱちぱちと火花が散り、火の粉が舞う。そして、えいと一声。燈華が蝋燭に尻尾をかざすと、火が付いた。雪成は熱でぼんやりしていた目を瞠る。
蝋燭に灯った火は数秒ほど線香花火のように火花を散らしていたが、やがて落ち着いて静かな燭光に変わる。
「火が灯ると一層綺麗ね。素敵な蝋燭が見付かってよかった!」
「あぁ、綺麗だな……。綺麗だな、君の火は」
「え」
燈華の全身の毛が爆発した。
「ろ、蝋燭の絵も楽しんでね!」
「あぁ」
昼間の室内を彩る花火は、静かに小さく燃えていた。いつの間にか二人は無言になって、なんとなく寄り添って蝋燭を見つめていた。
五分の一ほど蝋燭が燃えた頃、雪成が布団に顔を埋めた。
「寒い……。すまない、そろそろ布団に入りたい。蝋燭は、もう見られない」
「いいのよ。また今度続きを見ましょう。ゆっくり休んで」
布団に潜った雪成の耳に、燈華の声が届く。
「私、考えたの。どうして貴方のことばかり考えてしまうのかなって。それで……。それで、やっぱりね、ある答えに行きついて……。私、きっと、貴方が好きなんだ」
雪成は答えなかった。
この時、燈華は自分のことを変化できないおかしな鼬だと考えていた。変な鼬が人間相手にこんなことを言って、いい感じの答えを得られるのだろうか、と。それでもここ数ヶ月の間ずっと悩んできたことだし、茉莉にも何回か相談したし、勘違いかもしれないとも思ったけれど、やっぱり結論は変わらなかったから言おうと思った。
対して、雪成は自分のことを化け物の血をその身に流す変な人間だと考えていた。こんな人間に構わなくてもいいのに。けれど、ここ数ヶ月楽しいのは事実だった。それに、彼女は自分をここに繋ぎ止めてくれた存在だった。今頃、海の藻屑になっていた可能性だってあったのに。
燈華は布団をぺちぺちと叩く。顔を覗かせた雪成と目が合うと、愛おしそうに微笑んだ。
「雪成さん、あのね」
蝋燭に灯った火が燈華のことを柔らかく照らす。
「私と、恋人を前提に友達になってくれませんか」
花火を見ることもできず、完成間近の絵も燃え尽き、そして、盛大に熱を出した。心配した妹が母屋から寄越した立派な火鉢で暖を取りながら、雪成は布団の中で丸くなっていた。いっそ庭の池に飛び込んだままでいれば楽かもしれないと考えたが、結局後が大変なのでやらないことにした。
小さな足音が外から聞こえて、障子や襖を開ける音が続く。
「雪成さん、お加減いかが」
寝室として使っている少し奥の部屋まで燈華がやって来た。風呂敷包みを咥えた燈華は心配そうに雪成のことを見下ろしている。
「見ての通りだ」
「人間の体って弱いのね……。こんなに何日も寝込むことになるなんて」
お土産があるのよ、と燈華は言う。風呂敷包みを解いて出て来たのは一本の蝋燭だった。薄っすら赤い地には色とりどりの花火の絵が描かれている。
「これに火を点けて一緒に見ましょう。ねえ、駄目かな」
「花火……」
「そう、花火の蝋燭なの。妹の学校の先生がいいお店を教えてくれたんだ。素敵でしょ。あの日見るはずだった花火の代わり……には小さいかもしれないけど。これ見て元気になって」
雪成は布団から体を起こす。燈華はその背に脱ぎ捨ててあった掻い巻きを掛けてやった。
「わざわざ蝋燭を届けに、ここまで? 雪が積もっていて大変だっただろう」
「蠟燭が手に入ったから、早く見せてあげたくて」
作業場に燭台があるはずだ、と雪成は言う。
燈華が作業場に向かうと、しばらく使われていない室内には冷たい空気が充満していた。棚の上に置いてあった燭台を風呂敷で包んで咥える。
ふと、真新しい描きかけのキャンバスがあることに気が付いた。鉛筆でデッサンをしたらしい下書きは、見間違えようのない燈華の顔だった。驚きと喜びで思わず飛び上がる。
描いてくれたのかと問うべきだろうか。本人が言うまで知らないふりでいるべきだろうか。なんだかそわそわしながら、燈華は寝室に戻った。ちょっぴり挙動不審な燈華のことを雪成は怪訝そうに見る。
「燭台、見付かった?」
「これでしょ」
「そう。火は火鉢の火があるから……」
蝋燭を燭台に立て、燈華は毛を逆立てた。ぱちぱちと火花が散り、火の粉が舞う。そして、えいと一声。燈華が蝋燭に尻尾をかざすと、火が付いた。雪成は熱でぼんやりしていた目を瞠る。
蝋燭に灯った火は数秒ほど線香花火のように火花を散らしていたが、やがて落ち着いて静かな燭光に変わる。
「火が灯ると一層綺麗ね。素敵な蝋燭が見付かってよかった!」
「あぁ、綺麗だな……。綺麗だな、君の火は」
「え」
燈華の全身の毛が爆発した。
「ろ、蝋燭の絵も楽しんでね!」
「あぁ」
昼間の室内を彩る花火は、静かに小さく燃えていた。いつの間にか二人は無言になって、なんとなく寄り添って蝋燭を見つめていた。
五分の一ほど蝋燭が燃えた頃、雪成が布団に顔を埋めた。
「寒い……。すまない、そろそろ布団に入りたい。蝋燭は、もう見られない」
「いいのよ。また今度続きを見ましょう。ゆっくり休んで」
布団に潜った雪成の耳に、燈華の声が届く。
「私、考えたの。どうして貴方のことばかり考えてしまうのかなって。それで……。それで、やっぱりね、ある答えに行きついて……。私、きっと、貴方が好きなんだ」
雪成は答えなかった。
この時、燈華は自分のことを変化できないおかしな鼬だと考えていた。変な鼬が人間相手にこんなことを言って、いい感じの答えを得られるのだろうか、と。それでもここ数ヶ月の間ずっと悩んできたことだし、茉莉にも何回か相談したし、勘違いかもしれないとも思ったけれど、やっぱり結論は変わらなかったから言おうと思った。
対して、雪成は自分のことを化け物の血をその身に流す変な人間だと考えていた。こんな人間に構わなくてもいいのに。けれど、ここ数ヶ月楽しいのは事実だった。それに、彼女は自分をここに繋ぎ止めてくれた存在だった。今頃、海の藻屑になっていた可能性だってあったのに。
燈華は布団をぺちぺちと叩く。顔を覗かせた雪成と目が合うと、愛おしそうに微笑んだ。
「雪成さん、あのね」
蝋燭に灯った火が燈華のことを柔らかく照らす。
「私と、恋人を前提に友達になってくれませんか」