「君! 君も逃げるぞ、こっちへ」

 輪入道と対峙する燈華の耳は草が燃える音ばかりを拾っていた。草が焦げる匂いばかりが鼻に付いて、雪成の匂いも分からない。無秩序に生えて伸びた草のせいで雪成の姿も見えなかった。
 私が、彼を守らないと。彼は人間だから、私が守ってあげないと。大切な彼を。全身の毛を逆立たせて、燈華は輪入道に負けじと無数の火の粉を飛ばした。
 しかし、勢いがまるで違う。火の粉ごと炎に飲まれそうだ。

「あ……」

 駄目かも。

「おい! 人間はこっちだぞ!」

 輪入道が燈華の目の前に迫って来たところで急に方向転換をした。焼けて草がなくなった向こうに雪成の姿が見える。

「雪成さん! 危ないわ!」
「俺は人間だ。人間だが、他の人とは違うことができる」

 声が震えていた。とんびの裾をぎゅっと握って気合を入れてから、雪成は屋敷の外へ向かって走り出した。輪入道が燃えながら追い駆ける。燈華も後を追った。
 そして、壊れた塀を過ぎて外に出る。後ろは小さな川であり、人間に逃げ場はないように見えた。輪入道が車輪の回転数を増やして加速する。

「冬にはやりたくないんだけど。……おいで、俺のところまで」

 挑戦的な笑みを浮かべ、雪成が後方へ飛んだ。小さく細い川に入った足先から、ぶわりと鱗が広がった。尾ひれが現れ、魚の体が現れ、水かきのある手が現れ、人間離れした赤い瞳が現れ、たゆたう波のような青みがかった長い髪が現れる。まさに、変化だった。妖怪の燈華にできない変化を、人間の雪成が見事にやってのける。人魚の姿に変わるところを見るのは初めてだった。
 先程までそこにいた人間の姿が変わってしまったのだから、輪入道が驚かないはずがなかった。混乱したまま、勢い余って川に飛び込む。そうして消火されて横転した車輪の上に、長い魚の体が叩き込まれた。上半身も乗り上げて、輪入道を水中に抑え込む。

「ゆ、雪成さん、その人死んじゃうわ。やりすぎたら貴方の立場が危うくなる」
「殺さないよ。人魚が相手を殺すつもりならもっと本気でやる。軽く気絶させて転がしておけば、川の流れに乗って誰かが見つけるだろう」

 目を回している輪入道の上からよけて、雪成は川から這い上がった。瞬きの内に鱗が消えて人間の姿に戻る。

「雪成さん、怪我は」
「大丈夫。君は」
「私も大丈夫よ」
「君、結局来たんだな。でも、君が来てくれたから助かった」

 びしょ濡れの手が差し出された。燈華は両前足でそれを握る。

「ありがとう、燈華」

 そして、雪成は大きなくしゃみをした。