辿り着いたのは、随分と前に家主がいなくなったと思しきくたびれた屋敷の庭だった。こんなに荒れた家に、わざわざ高級住宅街に住むような人間達は訪れない。屋敷の真横に細い川が流れていた。かつては庭に水を引き入れていたのだろう。
 塀が壊れて向こう側が見えるところに、雪成がイーゼルを立てて準備をしていた。

「雪な……」

 声をかけようとして、やめた。なぜ来たのかと叱責されるかもしれない。燈華は手入れを忘れられた草の中に身を屈めて見守ることにした。
 花火大会が始まるまで、あと少し。
 ひゅうという音が聞こえて来るのはいつだろうかと燈華は耳を澄ます。しかし、聞こえて来た音は大きく草を揺らす音だった。ぴくりと耳が動き、顔を上げる。雪成に気が付かれたのかと思ったが、彼はキャンバスを前にして座っている。
 周囲を確認しようと後ろ足で立ち上がった燈華の目に映ったのは、真っ赤な炎だった。炎を纏った車輪が荒れ放題の庭を走っている。そして車輪の中央には男の顔がくっ付いていた。勢いよく車輪を回しながら、妖怪は雪成へ一直線。

「雪成さんっ、危ない!」
「えっ」

 振り向いた雪成は、まず燈華の声に驚く。そして、迫りくる車輪の妖怪に驚いた。
 輪入道(わにゅうどう)、と呼ばれる妖怪である。車輪の炎が周囲の草を燃やしており、中央にある髭面の男の顔は下卑た笑いを浮かべていた。燃え広がりつつある草の中から汚い笑い声が聞こえている。
 雪成は突進して来た輪入道を寸でのところで回避するが、その後ろで画材達が蹴散らされてしまった。キャンバスごとイーゼルが押し倒され、絵の具のチューブから中身が飛び出す。

「嘘、だろ……」
「雪成さんっ、逃げて」

 笑い声ばかり上げていた輪入道が「ニンゲン」と小さく呟いた。形は人間と同じなのに、何倍も頑丈そうで人間なんて嚙み砕いてしまいそうな歯が覗く。
 炎に飲まれる画材達を前にして、雪成の足が竦む。イーゼルや絵の具の予備はいくらでもあったが、街の絵はあともう少しで完成だったのに。悔しさと恐怖が体を支配していた。燈華の声は届いているはずだが、動けない。牛鬼に食われてしまおうかなどと考えていた青年は、輪入道を前にして死にたくないと思った。
 方向転換した輪入道が再び雪成目がけて動き出した。街中ならばすぐに誰かが怪異課を呼んでくれるだろうが、こんな荒れた屋敷跡では誰も気が付いてくれない。通りすがりの人の目も、警備の目も上手い具合に届かない場所だった。

「輪入道! こっちよ!」

 燈華が火花を散らして輪入道の意識を逸らす。その声と光に、雪成はハッとした。怖い怖いと訴える足を強引に動かし、状況を確認する。絵も画材ももう助かりそうにない。荒れた庭の草は燃え、炎が徐々に大きく激しくなっていた。輪入道は居合わせた人間の雪成を襲うつもりだ。