「水に入って念じると人魚の姿になれた。でも、俺は人間だ」

 燈華は畳に下ろされる。

「妖怪の君なら分かるだろう。今のこの俺の姿が、妖怪が人間に化けたものではないと」
「えぇ。こうしてじっくり見ると、確かに貴方は人間の気配だわ。どんなに化けるのが上手で人間に気が付かれなくても、妖怪には相手の妖怪の気配が分かるから」
「君は周りの妖怪と自分が違っていても立派に生きていて偉い。俺は、逃げ出そうとした。家族は俺に酷いことをするわけではないけれど、別に優しいわけでもない。無関心でいようとしていて、怖がってもいるようだった。俺は自分がここに居る意味が分からなかった。本当は、あの日海に飛び込むつもりだった」

 燈華の隣に腰を下ろし、雪成は八百美堂の箱に目を向けた。燈華も思わずそちらを向く。シュークリームの入っていた空箱にはもう主役はいないが、箱だけでも芸術品のように綺麗だった。
 畳に置かれている雪成の右手が静かに拳を握った。意を決して、口を開く。

「俺は逃げようとした。いなくなろうとしたんだ。あの日、最後に八百美堂のシュークリームを食べて……。人間の姿のまま海に入って消えようと思った」
「え……」
「牛鬼が出たって聞いたからそいつに食われてもいいなと思った。でも……」

 雪成は拳を解いて燈華のことを撫でた。燈華の全身の毛が爆発する。
 もふもふの塊を撫でる手の動きはとても優しくて、このままでは獣の本能で甘えてひっくり返っていいようにされて絆されてしまう。戦く燈華の毛がさらに広がった。

「でも、君を見つけた。泳げるのに見て見ぬふりなんてできなかったから、助けた。君を助けて、命の恩人だと感謝されて、君は……。君は、『また会えるか』と言った。会うことを望まれるのは初めてだった。君に会って、もう少し陸に居てもいいかもしれないと思った」
「私、が……?」
「でもやっぱり俺なんかといたら良くないと思って、八百美堂のシュークリームを要求した。逃げると思って。全然来ないから諦めたんだと思った。けれど今日、君はこうしてシュークリームを持って来た。……君になら、俺の話をしてもいいと思った」

 雪成は燈華を抱き上げ、抱き締めた。彼はあくまで動物を抱いているつもりである。そう自分に言い聞かせながら、燈華は雪成の肩に前足をそっと置いた。抱き返してあげているつもりだった。
 長い長い十数秒だった。
 燈華を畳に下ろして、雪成は「今日はもう帰りな」と言う。そして一言付け加える。

「君、よかったらまた来てくれ」

 燈華は丸い目を丸くして見上げる。嬉しかったが、今度はシュークリームより強烈なものを要求されるかもしれない。ほんのちょっと警戒して、牙を見せた。

「次は何を持ってくればいいの」
「君が来てくれればいい。絵を描くのは好きだ。でも、時に退屈だ。君さえよければ、たまに話し相手になってほしい。……君も、俺に会いたいんだろう?」
「会い……たい……」
「来るときはあの塀の穴から来て。気が向けば待っているから」

 喜びでだらしなく歪んでしまいそうな顔を俯かせて、燈華は「うん」と返事をした。