雪成の腕に抱かれて燈華は運ばれる。獣の鼻に届く彼の匂いは絵の具で彩られていた。部屋も絵の具の匂いがしていたが、肝心の絵は見当たらなかった。
 門を開けて、雪成は燈華を地面に下ろす。

「それじゃあ」
「私、貴方にあの日のお礼をしたいの。ここに来れば会える?」
「妹を助けてくれたことが礼でいい。ありがとう」
「別件だもの、それじゃ私の気が収まらないわ。だって貴方は命の恩人なの。あの時貴方が来てくれなかったら、私は溺れて死んでいたのよ。ちゃんと助けてくれたお礼をしないと、私ずっと貴方のことが気になって気になって頭から離れないんだから。ここ数日貴方のことばかり考えてる」

 しばらくの間、雪成は燈華のことを黙って見下ろしていた。驚いたように、興味を持ったように、じっと見る。
 見つめられていると、燈華はなぜだか緊張して来た。思わず俯いてしまう。やがて「分かった」という声が頭上からして顔を上げる。すると、雪成の顔が想定よりも近くにあった。目線を合わせるように屈んでくれたのである。正面から真っ直ぐ顔を合わせるのは初めてだった。燈華の丸い目はさらに丸くなり、ぶわっという音が出ているのではないかという勢いで全身の毛が広がった。尻尾は二倍ほどの太さに見えるくらいで、毛先で火花が散って尻尾の先から僅かに煙まで出た。

「そんなに言うなら、お菓子を買って来てくれないか」
「お、お菓子? 分かったわ。お菓子ね」
「あの日は元々お菓子を買いに出たのだけれど、牛鬼が出たり君を拾ったりしたせいで時間をロスして店まで辿り着けなかった。体が弱いことになっている俺が長時間外出なんてできないから」
「何を買う予定だったの?」

 少し間を置いて、雪成は笑った。燈華が初めて見た彼の笑顔は、できるものならやってみろというような挑戦的な笑みだった。

八百美堂(やおびどう)のシュークリームだ」
「八百美堂!?」
「俺に用があるならこっちじゃなくて裏から入って来て。じゃあよろしくね、かわいい鼬さん」

 店の名前に仰天している燈華の頭を撫でてから、雪成は門を閉めた。

「や、八百美堂……!」

 撫でられたことが分からないくらい、燈華は店の名前に戦いていた。