それから数日が過ぎても夜影は帰ってこず、あまり芳しくない報告だけが漏れ聞こえてきた。

「今回は流石に妖魔の勢いが強くて苦戦しているそうだ」

「俺たちも応援にいくべきじゃないのか」

「しかし花嫁様をお守りせねば」

邸宅の守護を任された衛兵達の話し声が静奈の耳にも届いてきて、不安に押しつぶされそうだ。

(夜影様に何かあったら私は)

静奈は夜影と最後に別れた日のことを思い出しては、また泣きそうになった。

(きっと彼は私に心配をかけまいとして、何も言ってはくださらなかったんだ)

しかし、今の彼女には祈ることしか出来ない。

(無事でいてください、どうかどうか)

(もしも私が紅葉様ならこんな時、一緒に戦って彼を守ってあげられたのに)

彼の無事を家で待つことが、こんなに辛いことだと静奈は知らなかった。

自分はなんと役立たずなのか。

式神の紅葉の記憶を持っているだけのただの小娘でしかない。

せめて、別れ際に気持ちよく笑顔で送り出してあげるべきだったのに。

後悔の波は激しく押し寄せてきて彼女をのみこんで離さない。

どうにもならない気持ちを抱えながら静奈は部屋で手紙を書いていた。

雪や兵士の家族達が手紙や食べ物などを連隊へ送ると聞いたからだ。

静奈は白い紙に向き合うと、素直な気持ちを綴り始めた。

自分が彼に嫌な態度をとったことを詫び、そして彼の無事を願っていると。

いや違う、本当に書きたいことは他にある。

「早く会いたい……」

ぽつりと口からこぼれた本音はついに書くことは出来なかった。

その時、コツンと背後で音がして振り返ると、畳の上に小石が転がっている。

「え?」

ふと庭に目を向けると、塀の上に見覚えのある顔があって思わず声を上げる。

「あなたたちこんなところで何をしてるの?」

「しずお姉ちゃん、こっちきてー」
「大変なんだっ、早く早く」

そこにいたのは静奈が育った孤児院の子供達2人。

2人は姉妹で姉の夏と妹の春。どちらもまだ10才にもならないはず。

2人ともひどく慌てている様子なのが気になった。

静奈は驚きつつ彼女らの方へ歩み寄る。

「大変なの、孤児院が無くなっちゃうんだって。偉い偉いおじさんが凄く怒ってて。静奈お姉ちゃんが帰って来ないと今すぐ取り壊すって」

「偉いおじさん?」

「夏は見たことあるよ。たぶん静奈姉ちゃんのお父さんになった人」

「え、藤波男爵が?」

静奈は養父のことなどすっかり忘れていた。

この邸に来てからは夢の中のことや自分自身のことで精一杯だったのだ。

「ごめんなさい、2人共」

孤児院の子供達のことを1番に気にかけてやらねばならなかったのに、薄情なことをしてしまっていた。

藤波男爵が自分への腹いせに孤児院を見捨てようとすることに警戒しなくてはいけなかったのに。

「お姉ちゃん、お願い一緒に来て」

姉妹は藁をも掴むような気持ちで静奈に助けを求めてきたのだろう。

「……わかったわ」

一瞬考えたが、静奈は子供達についていくことに決めたのだった。



衛兵たちの隙を見て皇邸を抜け出した静奈は帝都のはずれにある孤児院へ幼い姉妹と共に駆けつけたが、そこで想像を絶する光景を目の当たりにした。

「これは、なんなの、どういうこと」

もともと人の行き来が少ないさびれた田舎町ではあったが、不思議と村の人を見かけない。

孤児院と言っても20人ほどの子供たちが暮らすには狭い一軒家。

いつもなら孤児院の前の道で子供たちの元気な声があふれているはずだったが今は誰もいない。

その代わり建物の中からはすすり泣く声が聞こえてくる。

「うっ」

鼻を衝く独特な臭気、この世のものとは一線を画す禍々しい気配。

静奈は心臓が鷲摑みにされたように息苦しくなった。

(これは夢で見たあの感覚)

確かにそれはいる、静奈は本能で感じ取った。

建物の裏からゆらりと影が動きこちらへ歩み寄ってきた。

「静奈、遅かったな。この恩知らずめが。犬も3日も飼えば恩を忘れぬというがおまえは犬以下だな」

静奈は目を見張った。それは藤波男爵だった。

だが男爵の周りには妖気が漂っている。

「夏、春、こっちへおいで」

静奈が幼い姉妹を庇うように抱き寄せる。

静奈には、こういう時にどうすればいいのかわかっていた。

紅葉の記憶が警鐘を鳴らしているのだ。

(一刻も早く逃げなければいけない)

この数、妖力、とてもではないが人間がかなう相手ではない。

「男爵の傍に妖魔がいる、夏、春あなたたちだけでも今来た道を逃げなさい」

「え?どこに?」

「なんにも見えないよ」

2人は小首をかしげて怪訝そうに静奈を見上げる。

実際のところ静奈にもその姿は見えてはいないのだが、確かに感じるのだ。

そしてこの後に起きる惨劇も容易に想像がつき背筋が凍りつく。

見たところ、妖魔は孤児院の中には入り込んでいないように見えた。

しかし、孤児院の子供たちを見捨てて姉妹と一緒に逃げるわけにはいかない。

きっと、こんなことになっているのは自分のせいに違いないのだから。

しかし、身体がガクガク震えて、悪寒が止まらない。

(とにかく時間を稼がなくては)

姉妹を背中に隠して逃げるように目で合図したが二人は困惑しているようだ。

「お父様、申し訳ございません。お許しください」

深々と頭を下げた静奈は内心では混乱していた。

(どうしてお父様が妖魔を連れているのだろう?操られているわけではなさそうなのにどうして?)

「おまえは身の程知らずにも鬼と結婚などしようとしているのか?あの忌々しい鬼め、私を侮辱するにもほどがある」

「申し訳ございません、お許しください」

「ふん、謝ってもすまぬわ。計画が丸つぶれだ」

男爵は忌々しそうに両手で鞭をもてあそび足を踏み鳴らした。

だが、ふいに横を向きぶつぶつと独り言を言いだす。

「なんだと?この娘を代わりに使えばよいというのか?ふむ、こいつにもまだ使い道があるか」

「…………」

「きさまは鬼の首が取れれば、それでよいというか。ふうむ、わしはあやつの地位と財産さえ手に入ればよかったが娘婿としては御しやすくはないからのう」

「…………」

「左様、殺してしまうか」

何者かと会話をして薄気味悪い笑みを浮かべる養父。

静奈には、彼の心身がおかしくなっているように見えた。

「お父様、誰と話しておられるのです?今すぐ、お逃げください。このままでは取りつかれてしまいます」

「ほう?おまえにはこやつらが見えているのか?」

ニヤリと薄笑いを浮かべる男爵に、静奈はありったけの勇気を振り絞り口を開いた。

「いいえ、見えません。ですが私は知っています。妖魔と手を組んだ人間がどんな悲惨な末路をたどるのか」

きっぱりと言った。

「ふん、おまえのような世間知らずの小娘に何が分かる。いずれは他家に高く売りつけてやるためだけに育てたというのにわしに逆らいおって」

鞭がしなり静奈の細い体を打った。

「きゃ」

彼女は痛みに悲鳴を上げて倒れた。

その時にそっと振り返り、小さくなっていく姉妹の後ろ姿を確認して胸をなでおろしていた。

実は夏と春の姉妹は男爵が妖魔と話している隙に逃がしておいたのだ。

(お願い、どうか逃げきって)

「さあ、誓うのだ。あの鬼の寝首をかいてわしに差し出すと」

「……っ」

再び彼女は鞭で打たれた。手加減などされていないのは明らかで彼女は激痛に背中を丸めた。

「誓え、誓え鬼を殺すと言え」

「嫌です、誓いません、嫌です嫌です」

彼女は喘ぎながら抗った。

もし妖魔と誓約を結べば、自分の意志などと関係なく静奈は夜影を殺そうとするだろう。

妖魔との誓約とは、そういうものだと紅葉の記憶を見ていた静奈は知っていた。

だから、絶対に拒み続けなくてはいけないのだ。

たとえこのまま殺されたとしても……。

そんな誓約は絶対にできない。

(夜影様……)

「なんだ、こいつ。強情な奴め、誓え、殺せ、鬼を殺せ」

男爵の眼光は狂気の色で血走っていた。

どんな時でも、自分の言いなりになっておびえて謝るしかなかった小娘。

虫けらのように思っていた小娘が身分の高い自分に逆らうことが許せないようだった。

「誓いません、私は夜影様の妻です。彼を殺したりしません」

静奈は最後の力を振り絞って叫んだ。

実際、まだ妻では無いが最後だと覚悟を決めていたので許されるだろう。

長い時を経て再び夜影と巡り合えたのは奇跡なのだ。

自分は本質的に紅葉とは違うかもしれない、けれど紅葉の強い思いも背負って今は静奈として生きている。

紅葉は夜影に生きて欲しかった。
そのために生み出され、力尽き消えていった。

今、静奈の願いも同じだ。

こんな人の皮をかぶったバケモノに負けるわけにはいかない。

(ああ、私、夜影様の花嫁になりたかったんだ。今頃わかっても遅いのに)

しかし身体中が痛くて、だんだん意識が薄らいでいく。

「この役立たずが、わしの言うことが聞けないのであれば死んでしまえ」

激情のままに振り上げられた鞭が大きくしなる音がした。

静奈は遠くで自分を呼ぶ懐かしい声が聞こえた気がした。

いや違う、きっと幻聴に違いない。

そう思った瞬間、鞭が刀によって薙ぎ払われた。

そして、あたりが青い炎に包まれていることに気が付いて下がりそうになる瞼を必死に開く。

「静奈、大丈夫か?静奈っ」

沈痛な叫び声が彼女の意識をかろうじてつなぎとめた。

「よ……かげ……さ」

「静奈、しっかりしろ」

夜影は静奈を抱きながら、手のひらから無数の青い炎を発して妖魔を消し去っていく。

青い炎に包まれた妖魔は一瞬その異形をあらわして、断末魔の叫びと共に地べたでのたうち回った。

圧倒的な霊力の差に逃げ出す妖魔が後をたたないが、青い光の玉が執拗にその後ろ姿を追いかけていく。

「ば、ばかな。そんな」

形勢不利と察した男爵はその場にへたり込み腰を抜かしてしまった。

「こんなことが、ひいっ」

夜影は静奈を背に庇い、男爵に相対すと全身に殺気をみなぎらせる。

「きさま、よくも俺の花嫁を鞭で打ってくれたな。万死に値する罪だ」

彼の赤い右目がギラギラと光り、悪鬼のごとき形相に変わる。

「ば、バケモノめ、わしは男爵であるぞ。頭が高い」

震えながらもまだ毒を吐く男爵。

「わしを殺せば、きさまは極刑に処せられる。妖魔を殺すのとはわけがちがうのだからな」

「俺には妖魔の方がきさまよりもまだ哀れに見えるのだが。
それに、その汚い体を骨も残らず消してしまえば俺の罪など誰にもわからぬだろう」

血も凍るような冷たい口調に男爵は、情けなく命乞いをした。

「ひいっ、た、助けてくれ」

「死ね」

「夜影様」

「おまちを夜影様っ、おやめください。そんな奴でも殺せば問題になります」

背後で左門の声がして夜影はちらとそちらを見たが不満そうに鼻を鳴らした。

「断る」

低い声で言うと、手のひらに先ほどよりも大きな青い炎をだす。

「夜影様、もういいのです。私は無事ですから」

夜影の背中にすがりついた静奈は必死で彼を止めようとした。

(もしここで、男爵を殺してしまったら大変なことになる)

これまで彼が築いてきたものが崩れ去ってしまいかねないと思ったのだ。

悪鬼と見做されて、またあの座敷牢に閉じ込められていた頃のような境遇に堕とされてしまうかもしれない。

その時、再び情けなく懇願する声が弱々しく響いた。

「ひー、助けてく……」

しかし男爵は最後まで言い終わらないうちに気絶してしまった。

すかさず、走り寄ってきた左門が男爵に縄をかけ配下の部下達に運ばせた。

一刻も早く夜影の視界から標的を消さなければならなかった。

そして左門は夜影に向き直ってこう言った。

「夜影様、こやつは妖魔と通じておりました故、大罪に処せられます。裁きは政府に任せましょう」

一礼する有能な副官。

「それよりも静奈様の手当を急ぎましょう」

「わかった」

夜影は静奈に向き直り、辛そうに目を細めた。

「遅くなりすまなかった」

夜影に軽々と抱きあげられた静奈はようやく息をつくと全身から力が抜けていく。

一度は死を覚悟していただけに、放心状態だ。

「いいえ、きてくださっただけで充分です。ありがとうございます。でも、どうして戻ってこられたのですか?」

夜影は西方の都市に遠征していたはずだ。

「昨夜、孤児院の結界が反応したのでもしやと思い駆けつけてきたんだ」

夜影が彼女を抱えて歩き出すと左門も後に続く。

「間に合ってよかったです、本当に。
昨夜から馬を走らせ途中、何回か乗り換えて必死で駆け戻ってきたのです」

「あの、西方の妖魔はどうなりました?」

戦を放り出してきたのかと心配になって尋ねると左門は苦笑した。

「大丈夫です。夜影様があらかた討伐されました。夜影様がちと無理はしましたが」

「そうだったのですか。大変だったでしょ、私のせいで、すみません」

「静奈が謝ることではない、少し眠れ」

心配そうに彼女を覗きこむ夜影の顔は、よく見るとやつれていて軍服もあちこちボロボロになっている。

よほど無理をして戻ってきてくれたに違いないと静奈は思い、また泣きそうになる。

「あ、子供達は?」

「みな無事だ」

それを聞いた静奈は微笑し、気絶するように眠った。

後から聞いた話では、あらかじめ静奈とゆかりのある孤児院が狙われることを懸念して夜影みずから結界を張ってくれたらしかった。

結界のおかげで妖魔は建物の中にまでは侵入出来なかったらしい。

藤波男爵には以前から黒い噂があったが、静奈の実家であるため以前から慎重に探っていたらしい。

しかし、ことここに至っては断罪もやむなしとなった。

やがて、男爵は相応の罪に処せられるだろうとのことだった。