「静奈、どうした?大丈夫か?」

「……」

「静奈」

「あ、はい」

何度めかの呼びかけの末に、静奈はハッと我に返った。

目の前で夜影が心配そうに眉尻を下げて見つめている。

彼と夕ご飯を一緒に食べている最中だったのに箸を止めてぼんやりとしていたらしい。

「申し訳ございません」

「最近、物思いに耽っていることが多いな、キツネにでも取り憑かれたかな?」

あまり上手い冗談では無いが、夜影は時々このような軽口を言う。

自分の前では緊張してしまう目下のものに接する時、主に女子供に対しては彼なりに気をつかうのだ。

とはいえ、最近これほど彼が気にかける相手はこの可憐な少女だけなのだが。

「い、いえ」

静奈は愛想笑いを浮かべてごまかす。

「心配事があるならなんでも俺に言ってくれ」

「そういうわけでは」

彼は彼女に出会った時から優しかった。

それには特別な事情があるからだ。

でなければ帝都最強と呼ばれる半妖の鬼は見合い会場でどんな女性にも興味を示しはしなかっただろうと静奈は考える。

(私のことを紅葉様だと思っておられるからだわ)

だが、静奈は夢のことをまだ彼に話してはいなかった。

どうすればよいのかわからなくて、一人で思い悩んでいる。

(もしも、今夢のことを言えば彼は私を花嫁として迎えるのだろうか)

そう考える時、彼女の心は落ち着かず魂がふわりと空に舞い上がりそうになる。

まだしかと言葉にならない甘い気持ちが芽生えかけていた。

しかしもう一方で胸が締め付けられそうなくらいに切なさを覚えるのだ。

(私は、紅葉様ではないのに)

夢の件については合理的な説明が出来ないが静奈は複雑な気持ちに戸惑っていた。

「もし藤波男爵の件で思い悩んでいるなら、心配はいらない。
左門が上手く処理してくれている。ああ見えてあいつは世情に明るい男だから、もうしばらくしたら全て決着がつくだろう」

いつのまにか、夜影は傍らに座して静奈の手をとっていた。

彼女の着物の袖をまくりあげて、鞭で叩かれた腕の傷跡にそっと触れる。

「酷い目にあったな。さぞ辛かったろう。俺がもう少し早くおまえを見つけられていたらよかったのだが」

まるで己がことのように辛そうな表情を浮かべる夜影。

「そんな、もったいないことです」

「許せ」

どう返事をしていいのかわからず静奈は小さくコクリと頷いたが我知らず頬が熱くなる。

許すも許さぬもなかった。これまでの彼女の不運は夜影のせいではないのだから。

だが、優しいぬくもりに飢えていた彼女の心に彼の想いは深く染みいった。

(こんなに甘やかされてしまったらもう元の自分には戻れなくなるかもしれない。ここを去った後、生きていけないかもしれない)

悪い方に後ろ向きに考えてしまうのは彼女の長年培ってきた癖だった。

「他に何か俺に言うことは無いか?」

「い、いえ」

「何か欲しいものは?なにか困っていないか?」

「それは大丈夫です。雪様が身の回りの物を取り揃えてくださいますから」

静奈は着の身着のままで連れてこられたので、着替えも何も持ってきてはいなかった。

いまだに結婚に反対しているらしい男爵が彼女の持ち物を送ってきてくれるわけもない。

年頃の娘の嗜好は夜影や左門にはわからなかったので、雪がみつくろってきてくれた。

そのどれもこれも一目見て高級品だとわかるので、静奈は恐縮しきってしまうのだが。

「まだ、もうしばらくは1人で外出しないほうがいいだろう。男爵と話がつくまでは用心したほうがいいからな」

「はい」

ふと夜影は静奈をじっと見つめて困ったように眉を下げて嘆息する。

「静奈は本当に欲がないのだな。若い娘ならあれも欲しいこれも欲しいと親にねだるものだと聞いたぞ」

「は、はあ」

そもそも、静奈は物欲があまりなかったしここはほんのしばらくの仮り住まいのような気がしているのだ。

こんなに穏やかで幸せな生活はきっと長く続くわけがない、初めから期待しないでおこうと自身に言い聞かせていた。

「文句ひとつ言わず家事も率先して手伝ってくれて助かると雪が褒めていた」

「そんな、おいてもらっているのですからそのくらい当然のことです」

(ああ、いっそ花嫁ではなくこの家の使用人にしていただけばよいのかもしれない)

そうすれば、ずっとここにいられるのかもしれない。彼のそばに。だけど……。

彼は欲がないなどと言ってくれるけれど、本当は何かを欲するのが怖いだけなのかもしれない。

彼女は目線を下げて箸をおいた。

最近食欲が無く身体がだるい。

夜眠ると、紅葉視点の夢を見るのだがよい夢ばかりというわけではないので朝起きた時に徒労感で押しつぶされそうになるのだ。

「静奈、こっちへ」

「あ」

またぼんやりしてしまった静奈は気が付けば彼に抱き寄せられて軽々と膝の上に座らされていた。

「静奈、少しだけこのままじっとしてろ」

「え。あ、あの……」

静奈は真っ赤になって顔を上げると、夜影の端正な顔が近すぎて呼吸が止まった。

「静奈、俺が怖いか?」

「い、いえそんなことは」

「俺は女の扱いはよくわからないし気が利かないかもしれない」

「……」

「だが、おまえの意志を大切にしたいと思っている」

もしもこれが愛の告白だとすれば、二人の行く末は簡単に進むのかもしれない。

しかし静奈の心は一筋縄ではいかない。

今の静奈には彼の真意がわからず混乱してしまう。

ただでさえ、夢と現実の区別がつかず紅葉の感情にひきずられそうになっているのだ。

「あ、ありがとうございます。でも私は紅葉様ではありません。だから優しくされる資格がないのです」

この時、静奈は夢のことを一切彼には告げるつもりがなかった。

「ああ、違うんだ。そんなことを言いたいわけじゃないのだが」

「夜影様にとって紅葉様はどういう存在なのですか?」

本当は知りたくなかったはずなのに、思わず彼女は聞いてしまった。

嫉妬にも似た感情に囚われていることに彼女自身、気がついていない。

彼は初めて会ったあの夜から、紅葉の話は一切しなくなった。

だからこそ、よけいに気になってしまう。

「紅葉は……」

彼の身体から霊力が柔らかくほとばしるのを感じた。

「俺の命であり俺の半身、心の一部だった」

彼の赤と黒の瞳に苦痛の光が浮かぶ。

「あいつはいつも俺を支えて守ってくれたのに、俺はついに何もしてやれなかった」

「だから……ですか?」

彼女は泣きだしてしまった。

そんなことは聞かなくてもわかっていた。

夜影がどんなに紅葉を必要とし大切にしたいと願っていたことか。

比翼の鳥、連理の枝のごとく二人が過ごしていた日々を。

静奈は夢で見て知ってしまったのだから。

今の彼があるのも全て紅葉のおかげだと言っても過言ではないことを。

大事なものをもう取り返せないと思うが故に彼は、自分を必要としてくれるのだろう。

(私は違うんだ。
私はにせものだから。
彼が本当に求めるのは紅葉様だけ)

「静奈?」

夜影は目を見開き、一瞬彫像のように動け無くなった。

「許せ、俺が性急すぎた」

力無く彼は詫び、そっと少女の頭を撫でる。

静奈はますます涙がこぼれ落ちたが、落ち着くまで夜影はずっとそばにいたのだった。