「いってらっしゃいませ」
「ああ、行ってくる」
玄関先で夜影を見送るのは静奈の毎朝の日課だ。
「ああ、そうだ。今日はなるべく早く帰るから夜は一緒に食べよう」
彼は振り返ってそう言ってまた彼女の元に戻ってきた。
微笑む彼女をじっと見つめて彼は呟く。
「忘れていた」
「え?」
彼は照れくさそうに彼女の頭を撫でる。
「いい子にしているのだぞ。外出するときは護衛を付けろ」
「は、はい」
「しかし、護衛とはあまりしゃべらなくてもいいぞ。あいつらは若い女と見れば見境がないからな」
「はあ」
それは全くの杞憂というものだろう。
静奈に手を出そうなどと考える命知らずは夜影の部下にいるはずもない。
なぜなら、上官の彼女に対する溺愛っぷりを知らない部下などいないのだから。
「早く行かないと皆さんが外でお待ちです」
まるで彼女の顔を脳裏に焼き付けんとするかのような彼の熱い視線。
静奈の頬はバラ色に染まってしまう。
「静奈、顔が赤いな、熱があるのかもしれない。今日は仕事を休んで家にいることにしようか」
これは彼が彼女をからかっているわけではなく真面目に言っているものだから始末が悪い。
「あ、えとこれは熱があるわけではなくて」
彼女はあわてて否定するが夜影は軍靴を脱ぎかけていた。
「ちが、違うんです」
しかし、あなたに見惚れてしまって熱を帯びてしまったのです、などと説明するのは恥ずかしすぎる。
「何が違う?風邪をひいたのかもしれぬ。人間にとって風邪は万病のもとだと言うぞ」
そこにたまりかねたように左門が扉を開けて入ってきた。
「隊長いい加減にしてください」
左門はやれやれと言った顔で夜影を引っ張って行く。
「ほら行きますよ。静奈様と離れたくないのはわかりますが、部下に示しがつきません」
「今日の任務は俺がいなくてもなんとかなるだろう」
「なりませんよ」
「そうか」
あきらめたように嘆息する夜影。
「では静奈様いってまいりますね」
左門は上官が彼に課せられた使命をようやく思い出してくれたことに心から安堵した。
そして静奈に向かって笑顔を見せ片目をつぶって見せる。
左門は堅物の上官とは違い女の扱いに慣れているようだ。
「は、はい、いってらっしゃいませ」
彼女は赤い頬を両手で隠しながら頭を下げた。
静奈を邸に迎えいれたあの夜から、夜影が彼女に夢中になっているのは誰の目にも明らかだ。
静奈自身、夜影のような男に過剰すぎるほどに大切にしてもらえて嬉しくないわけはない。
夜影の邸宅で暮らし始めてから半月ほどがあっという間に過ぎていた。
女手が足りていないようだったので、静奈も炊事洗濯等を手伝う。
「花嫁様がそんなことをしなくても大丈夫ですよ」
「いえ、私にもやらせてください。何かしているほうが気持ちが落ち着きますから」
兵士の家族の女性達に混じって一緒に料理を作り邸を訪れる人達をもてなすのが彼女の日課になった。
これまで藤波男爵邸でも家事仕事をさせられていたが、それとは全く違った喜びがある。
ここには彼女を虐める者は誰一人いない。
周りのみんなが優しく接してくれる。
しかし皇家の当主である夜影の花嫁として敬ってもらうのが、なんだか申し訳ないような気もするのだが。
「私は花嫁ではありません、ただの居候みたいなものですから」
ある日、左門の義理の姉、雪に向かってそう言った静奈。
遠慮がちに花嫁であることを否定するが雪は笑ってとりあわない。
「でも、皇様が帝都の名だたる令嬢達の中からお選びになったのは静奈さんですよ」
「選ばれたのとはちょっと違う気がします」
「まあそんな、でも皇様との仲は宜しいのでしょ?毎日一緒に食事をされるようになって、私どもはみんな驚いておりますのよ」
雪は20代後半だが華やかな美貌の持ち主だ。
5年前に夫を亡くした未亡人らしいが、現在では表面上は憂いの影はなく弟同様、夜影に仕えているらしい。
彼女の亡き夫であり左門の兄も軍人だった。
妖魔との戦いで戦死したのだという。
この邸にはそのような女性が他にも何人か働きに来ていて、夜影は彼女達の生活が成り立つように援助をしているらしい。
帝都においては贅沢三昧に暮らす貴族達がいる一方で下級兵士達の給料は安く生活は貧しいと聞く。
静奈は自分がこれまで狭い世界でしか生きてこなかったことを思い知らされた。
帝都の街や村を襲う妖魔は確かに存在していて、それと命をかけて戦う人達がいるのだ。
夜影もその一人、その頂点に立つ軍人である。
たまに3日ほど彼が軍務のため邸に帰らない日があると、静奈はいてもたってもいられない気持ちになった。
(どうかご無事でお帰りください)
静奈は神や仏にひたすら祈ることしか出来ない。
そしてそんな時に限って悪夢を見るのだ。
夢において、夜影の過去が明らかになっていく。
皇家は代々名門の退魔士一族で政府からの覚えもめでたく隆盛を誇っていたらしい。
10才にもならないうちから夜影は妖魔討伐の先頭に立って戦っていた。
式神の紅葉は彼と共に妖魔と戦うことが出来る。
何度も彼の命を救う紅葉は、式神というより夜影の守護神のようだった。
「ねえ夜様、私が言った通りでしょ?夜様は強いのよ。
その力でどんどん妖魔を倒して退魔士として、必要不可欠な存在になりなさい。そしたら、夜様を害そうなどと考えるものなどいなくなるわ」
紅葉は時に厳しく、時に優しく、彼を見守り慈しみ寄り添っていた。
ある夜、戦闘を終えた夜影はひどく落ちこんでいた。
紅葉は彼を慰めようと必死だ。
「紅葉、俺は鬼だ。
人には出来ないことが俺には出来る。
こんな異端な俺が本当に人と共に生きられるのか?」
「あたりまえじゃない。
他人と違うからって、卑屈になることなんてないの」
「俺はバケモノだ、今日もそう言われた。
妖魔から助けた子供から、鬼と妖魔とは何が違うのだと問われて俺は答えられなかった」
「夜様、夜様、泣かないで泣かないで。紅葉は夜様の味方だから。
何があっても夜様の味方だから」
彼が鬼の半妖である限り、辛いことは沢山あった。
理不尽に憎まれ、嫉まれ、傷つけられる。
彼が涙を流すことができるのは紅葉の前でだけだった。
静奈はたとえ夢の中でさえ夜影の苦しむ姿を見ると辛く悲しかった。
そしてあることに気づき始めていた。
夢の中の視点が常に紅葉から見た光景であることに。
(もしかしたら、夜影様が言うように私が紅葉様なのかしら)
たまたまにしてはその夢は頻繁であり、
現実感も伴っている。
しかし、自分と紅葉の関係に明確な解答など見出せないのだった。
「ああ、行ってくる」
玄関先で夜影を見送るのは静奈の毎朝の日課だ。
「ああ、そうだ。今日はなるべく早く帰るから夜は一緒に食べよう」
彼は振り返ってそう言ってまた彼女の元に戻ってきた。
微笑む彼女をじっと見つめて彼は呟く。
「忘れていた」
「え?」
彼は照れくさそうに彼女の頭を撫でる。
「いい子にしているのだぞ。外出するときは護衛を付けろ」
「は、はい」
「しかし、護衛とはあまりしゃべらなくてもいいぞ。あいつらは若い女と見れば見境がないからな」
「はあ」
それは全くの杞憂というものだろう。
静奈に手を出そうなどと考える命知らずは夜影の部下にいるはずもない。
なぜなら、上官の彼女に対する溺愛っぷりを知らない部下などいないのだから。
「早く行かないと皆さんが外でお待ちです」
まるで彼女の顔を脳裏に焼き付けんとするかのような彼の熱い視線。
静奈の頬はバラ色に染まってしまう。
「静奈、顔が赤いな、熱があるのかもしれない。今日は仕事を休んで家にいることにしようか」
これは彼が彼女をからかっているわけではなく真面目に言っているものだから始末が悪い。
「あ、えとこれは熱があるわけではなくて」
彼女はあわてて否定するが夜影は軍靴を脱ぎかけていた。
「ちが、違うんです」
しかし、あなたに見惚れてしまって熱を帯びてしまったのです、などと説明するのは恥ずかしすぎる。
「何が違う?風邪をひいたのかもしれぬ。人間にとって風邪は万病のもとだと言うぞ」
そこにたまりかねたように左門が扉を開けて入ってきた。
「隊長いい加減にしてください」
左門はやれやれと言った顔で夜影を引っ張って行く。
「ほら行きますよ。静奈様と離れたくないのはわかりますが、部下に示しがつきません」
「今日の任務は俺がいなくてもなんとかなるだろう」
「なりませんよ」
「そうか」
あきらめたように嘆息する夜影。
「では静奈様いってまいりますね」
左門は上官が彼に課せられた使命をようやく思い出してくれたことに心から安堵した。
そして静奈に向かって笑顔を見せ片目をつぶって見せる。
左門は堅物の上官とは違い女の扱いに慣れているようだ。
「は、はい、いってらっしゃいませ」
彼女は赤い頬を両手で隠しながら頭を下げた。
静奈を邸に迎えいれたあの夜から、夜影が彼女に夢中になっているのは誰の目にも明らかだ。
静奈自身、夜影のような男に過剰すぎるほどに大切にしてもらえて嬉しくないわけはない。
夜影の邸宅で暮らし始めてから半月ほどがあっという間に過ぎていた。
女手が足りていないようだったので、静奈も炊事洗濯等を手伝う。
「花嫁様がそんなことをしなくても大丈夫ですよ」
「いえ、私にもやらせてください。何かしているほうが気持ちが落ち着きますから」
兵士の家族の女性達に混じって一緒に料理を作り邸を訪れる人達をもてなすのが彼女の日課になった。
これまで藤波男爵邸でも家事仕事をさせられていたが、それとは全く違った喜びがある。
ここには彼女を虐める者は誰一人いない。
周りのみんなが優しく接してくれる。
しかし皇家の当主である夜影の花嫁として敬ってもらうのが、なんだか申し訳ないような気もするのだが。
「私は花嫁ではありません、ただの居候みたいなものですから」
ある日、左門の義理の姉、雪に向かってそう言った静奈。
遠慮がちに花嫁であることを否定するが雪は笑ってとりあわない。
「でも、皇様が帝都の名だたる令嬢達の中からお選びになったのは静奈さんですよ」
「選ばれたのとはちょっと違う気がします」
「まあそんな、でも皇様との仲は宜しいのでしょ?毎日一緒に食事をされるようになって、私どもはみんな驚いておりますのよ」
雪は20代後半だが華やかな美貌の持ち主だ。
5年前に夫を亡くした未亡人らしいが、現在では表面上は憂いの影はなく弟同様、夜影に仕えているらしい。
彼女の亡き夫であり左門の兄も軍人だった。
妖魔との戦いで戦死したのだという。
この邸にはそのような女性が他にも何人か働きに来ていて、夜影は彼女達の生活が成り立つように援助をしているらしい。
帝都においては贅沢三昧に暮らす貴族達がいる一方で下級兵士達の給料は安く生活は貧しいと聞く。
静奈は自分がこれまで狭い世界でしか生きてこなかったことを思い知らされた。
帝都の街や村を襲う妖魔は確かに存在していて、それと命をかけて戦う人達がいるのだ。
夜影もその一人、その頂点に立つ軍人である。
たまに3日ほど彼が軍務のため邸に帰らない日があると、静奈はいてもたってもいられない気持ちになった。
(どうかご無事でお帰りください)
静奈は神や仏にひたすら祈ることしか出来ない。
そしてそんな時に限って悪夢を見るのだ。
夢において、夜影の過去が明らかになっていく。
皇家は代々名門の退魔士一族で政府からの覚えもめでたく隆盛を誇っていたらしい。
10才にもならないうちから夜影は妖魔討伐の先頭に立って戦っていた。
式神の紅葉は彼と共に妖魔と戦うことが出来る。
何度も彼の命を救う紅葉は、式神というより夜影の守護神のようだった。
「ねえ夜様、私が言った通りでしょ?夜様は強いのよ。
その力でどんどん妖魔を倒して退魔士として、必要不可欠な存在になりなさい。そしたら、夜様を害そうなどと考えるものなどいなくなるわ」
紅葉は時に厳しく、時に優しく、彼を見守り慈しみ寄り添っていた。
ある夜、戦闘を終えた夜影はひどく落ちこんでいた。
紅葉は彼を慰めようと必死だ。
「紅葉、俺は鬼だ。
人には出来ないことが俺には出来る。
こんな異端な俺が本当に人と共に生きられるのか?」
「あたりまえじゃない。
他人と違うからって、卑屈になることなんてないの」
「俺はバケモノだ、今日もそう言われた。
妖魔から助けた子供から、鬼と妖魔とは何が違うのだと問われて俺は答えられなかった」
「夜様、夜様、泣かないで泣かないで。紅葉は夜様の味方だから。
何があっても夜様の味方だから」
彼が鬼の半妖である限り、辛いことは沢山あった。
理不尽に憎まれ、嫉まれ、傷つけられる。
彼が涙を流すことができるのは紅葉の前でだけだった。
静奈はたとえ夢の中でさえ夜影の苦しむ姿を見ると辛く悲しかった。
そしてあることに気づき始めていた。
夢の中の視点が常に紅葉から見た光景であることに。
(もしかしたら、夜影様が言うように私が紅葉様なのかしら)
たまたまにしてはその夢は頻繁であり、
現実感も伴っている。
しかし、自分と紅葉の関係に明確な解答など見出せないのだった。


