「あのう、ここはどこなのでしょう?」
「俺の家だ。ここならゆっくり話ができるからな」
静奈の疑問に夜影は簡潔に答えた。
わけがわからないままパーティー会場から連れ去られ、帝都の中心地にある夜影の邸宅に連れてこられていた。
そこは男爵邸の5倍はあろうかという広大な面積を誇る和風建築の邸だ。
しかし、人の気配がしない。
たしか門の前に衛兵が2人だけ立っていたが、夜影が今夜はもういいと言って帰らせてしまった。
「あの、ここには誰と住んでおられるのですか?」
「本館には俺1人で住んでいる、一族の者達はみなとうの昔に出ていったからな」
「……」
彼女は返事を聞く前にその答えがわかっていたような気がする。
「別館は兵士達の寮に使わせている」
そう言った夜影は手のひらから青い炎の鬼火を出して部屋の蝋燭に火をつけた。
静奈はその様子をさして不思議なことだと思わずに見つめていた。
なぜだろう、確かに既視感のある光景なのだ。
普通の人間ならば鬼火を見ただけできっと気味が悪いと眉を顰めるだろうに。
彼女は青い炎にぼんやりと照らされた彼の端正な顔に一瞬目を奪われた。
だが、目が合うと恥ずかしくなって逸らしてしまった。
(今このお屋敷には私と彼以外誰もいない。何も考えずについてきてしまったけれど大変なことが起きているに違いない)
年頃の娘が若い男の部屋に、しかも夜中に連れてこられ平静でいられるわけはない。
まして、彼女はお見合いの場でたくさんの令嬢達の中から選ばれ、同意した上で彼の言うままに従ってきた。
その意味に思い至ると、知らず知らずのうちに身体中が熱くなった。
「何をしている?早くこっちへこい」
鋭い視線とぶっきらぼうな言い方ではあるが声に優しい響きがある。
「は、はい」
彼女がおずおずと彼に近づくと、向こうからたまりかねたように腕をのばしてきた。
逃げるまもなく抱きすくめらて小さくあえいだ。
「あっ」
「紅葉、ここならば誰もいない。早く元の姿に戻れ」
「え?元の姿……」
「早くしろ、俺を焦らすな」
至近距離で見た彼の赤い右目は切羽詰まったような熱を帯びている。
だが静奈には彼の言っている意味がはっきりとはわからない。
無意識に首をかしげて、身じろぎして逃げようとした。
だが、ますます強い力で抱きしめられてしまう。
か弱い娘が軍人に抗おうとしても全くの無駄だった。
「お、お許しを」
「何を許せと言うのだ?俺の元から逃げ出したことをか?それとも新たな主人でも出来たというのか?
まさか、あの男爵ではあるまいな?」
「な、なんのことですか?さっきから私のことをどうして紅葉とお呼びになるのです?私の名は静奈です。
誰かと人違いをされておられるのではありませんか?」
「人違いだと?」
静奈はどこまでも噛み合わない会話に違和感を覚えて問いただした。
どうやら自分は紅葉という女性と勘違いされて連れてこられてしまったらしい。
もしそうだとしたら、双方にとって不幸な事だ。
なるべく早く、誤解を解き家に帰らせてもらうべきだろう。
好んで男爵邸に帰りたいわけではないけれど。
目の前にいる半妖の鬼は、世間からは相反する評価を受けている。
人間の味方かそれとも、敵であるのか。
そう思うと恐ろしい存在であるはずなのに不思議と身の危険は感じない。
ただ、普段このような美青年と接することがないため気後れしてしまうのは致し方ないのだが。
静奈の行動範囲と言えば女学校と自宅との往復だけでまだまだ世間が狭く経験不足だ。
だからこの時、穴のあくほどまじまじと見つめられて俯いてしまった。
彼は何も言わずに彼女の頬を両手でそっと包み込んで上を向かせる。
「俺はおまえのことを確かに紅葉だと感じる。
だが、おまえが嘘をついているようにも思えない。だからいっそうわけがわからない」
彼は眉を寄せて切なそうに瞳を細めた。
ようやく少し彼も落ちついて彼女の話を聞く気になってくれたようで静奈は安堵した。
だから、彼女もさっきから感じていたことを正直に打ち明けようと思った。
「実は私もさきほど皇様の姿を見た時、不思議な感覚がしました。うまく説明が出来ないのですが懐かしくなり涙がこぼれました。初対面だと思っていたのに以前どこかでお会いしていたというこでしょうか?」
「懐かしく思った?そうか、それならば」
彼は顎に手をあてると、しばらく考えこんでしまった。
その間にも逃すまじとばかりに彼女を片腕だけで抱きしめ続けている。
「あ、あの、すみません。
もう少しだけ、離れても構いませんか?」
静奈はおずおずとお願いしてみる。
いくらなんでもいきなりこの距離感はまずい気がする。とにかく恥ずかしくてしかたがないのだ。
すると静奈が顔を逸らして俯いた瞬間、お腹がグューと音を立てたので慌てて背中を丸めた。
「す、すみません」
今すぐこの場から消えてしまいたいくらいの羞恥心で顔が赤くなる。
普段から満足な食事が与えられていないし、パーティー会場でも何も口にしていなかった。
「いや、いい。腹が空いているのだな。
何か探してこよう。ここで待っていろ」
先程まで物思いにふけっていた夜影はそう言って、すっと立ち上がり部屋から出て行った。
ようやく一息ついた静奈はふと薄暗い部屋の中を見回す。
ここは彼の部屋なのだろうか。
小さなタンスがひとつとちゃぶ台と、鞘に入った刀が置かれている。
噂に聞く財力にそぐわない質素さで、必要最低限のものしか無いように見えた。
男の一人暮らしとはこのようなものなのかもしれないとぼんやり思っていたら、彼が手に包みを持って戻ってきた。
「こんなものしか無いが、食え」
相変わらず愛想のない言い方で差し出されたのは葉っぱに包まれたおむすびだった。
「すみません、いただきます」
またお腹の虫が悲鳴をあげそうだったので彼女は遠慮なくいただくことにした。
鶏肉の入った炊き込みご飯を握ったそれは、薄い味付けながらほんのり甘くて冷めていても美味しい。
あんまりお腹がすいていたので、3個全てをぺろりとたいらげてしまった。
だがハッとして顔を上げると、ずっと夜影に見つめられていたらしくて、またまた恥ずかしくなる。
「あ、あのすみません。全部食べてしまいましたがよかったのでしょうか?」
今更だが、彼にも残しておくべきだったろうかと不安になる。
ふと彼も晩御飯を食べていないのかもしれないのではと気づいた。
「いや、俺はいい。
10日間くらいなら何も食べなくとも平気だから」
「は、はあ」
鬼とはそういうものなのだろうか。やはり人間とは違うのかもしれないと改めて思う。
「いつも晩飯を準備してもらっても残すばかりで心苦しかったんだ。おまえが代わりに食べてくれて助かった」
「え、そ、そうだったんですか。でも、ごめんなさい」
それでも、さっき食べたのが彼の晩御飯だったとわかって申し訳なくなる。
「気にするな、おまえが食べる姿を見ていたら自分が食べるよりも満たされたぞ」
「は、はあ」
彼は口の端を少しあげて目を細めた。
「とても幸せだという顔だった。そう言えば紅葉もうまいものには目がなかったな」
彼がほんの少し笑顔を見せたので、思わず目を見張った。
どちらかと言うと、彼の表情は怜悧で温かみに欠ける雰囲気があったので驚いた。
もしかしたら、おむすびをすべて平らげてしまった失態を気にさせまいとする心遣いかもしれない。
静奈はそう思うと、目の前の半妖の鬼に対する警戒心がほぐれていく気がした。
安心したら、ふわっとあくびをしてしまった。
「1時だな、もう寝るか」
「……」
「明日からおまえにまだいろいろ聞きたいこともあるのだ。どうだ?しばらくここで俺と暮らさぬか?」
「え、でも。家の者になんと言われるか」
そう言えば、パーティー会場から抜け出した静奈を養父たちはどう思っているのだろう。
きっと今頃、激怒しているに違いない。
養父が花嫁として嫁がせたがっていたのは自分では無く妹の蘭子なのだから。
だがこうなっては藤波男爵のもとに戻った時、どんな体罰を受けるかわからない。
静奈は身震いして自分の細い体を抱きしめる。
その時、彼女の着物の袖から白い腕があらわになる。
「その痣はどうしたのだ?」
彼女の腕にある紫色のそれに夜影はめざとく気がついた。
「いえ、これはなんでもありません」
叱責される度に鞭で叩かれた跡だったが、正直に言いたくなかった。
今日初めて会ったばかりの相手に哀れみをかけられるのは嫌だ。
「そうか、言いたくなければ今はそれでもいい。だが」
「……」
「これからは何も心配するな。どうだろう、俺に任せてくれないか。悪いようにはしないから」
夜影は柔らかな表情で言い、そっと彼女の頭を撫でた。
(任せるって、どういうこと?)
だが、まだなにもかも委ねられるほど信用できるわけはない。
容易に誰かを頼り信頼するには、彼女のこれまで歩んできた道は不幸すぎた。
信頼して心を許しても何度も騙され裏切られてきた。
その度に、もう誰にも期待してはいけないのだと骨身に染みて思い知らされるのだ。
「私のことはどうか放っておいてください。私は人違いで連れてこられました。
ですから、明日は家に帰ります」
「駄目だ」
だが、彼は一切聞く耳を持たない。
「おまえは間違いなく紅葉だ。であれば俺は二度とおまえを離したくはない」
「で、ですが、証拠はありますか?」
「証拠は何もない。だがこの俺がそう感じるのだ、だからおまえは紅葉だ」
めちゃくちゃな論法であるはずなのに、なぜか逆らえない気迫を感じる。
「少しづつでいいから思い出せ。今日はもういいから眠れ」
すると夜影は今度はなぜか優しい声色になった。
彼の長い指が静奈の頬に触れると、急激な眠気に襲われてことりと俯き全身の力が抜ける。
彼はこの時彼女を霊力によって簡単に眠らせたのだが、これはひとつの事実をあらわしていた。
「やはりただの人間の娘か」
ため息まじりにそう呟くと、半妖の鬼は彼女の羽のように軽い身体を抱き寄せ壊れ物でも扱うように優しく布団に寝かせたのだった。
「俺の家だ。ここならゆっくり話ができるからな」
静奈の疑問に夜影は簡潔に答えた。
わけがわからないままパーティー会場から連れ去られ、帝都の中心地にある夜影の邸宅に連れてこられていた。
そこは男爵邸の5倍はあろうかという広大な面積を誇る和風建築の邸だ。
しかし、人の気配がしない。
たしか門の前に衛兵が2人だけ立っていたが、夜影が今夜はもういいと言って帰らせてしまった。
「あの、ここには誰と住んでおられるのですか?」
「本館には俺1人で住んでいる、一族の者達はみなとうの昔に出ていったからな」
「……」
彼女は返事を聞く前にその答えがわかっていたような気がする。
「別館は兵士達の寮に使わせている」
そう言った夜影は手のひらから青い炎の鬼火を出して部屋の蝋燭に火をつけた。
静奈はその様子をさして不思議なことだと思わずに見つめていた。
なぜだろう、確かに既視感のある光景なのだ。
普通の人間ならば鬼火を見ただけできっと気味が悪いと眉を顰めるだろうに。
彼女は青い炎にぼんやりと照らされた彼の端正な顔に一瞬目を奪われた。
だが、目が合うと恥ずかしくなって逸らしてしまった。
(今このお屋敷には私と彼以外誰もいない。何も考えずについてきてしまったけれど大変なことが起きているに違いない)
年頃の娘が若い男の部屋に、しかも夜中に連れてこられ平静でいられるわけはない。
まして、彼女はお見合いの場でたくさんの令嬢達の中から選ばれ、同意した上で彼の言うままに従ってきた。
その意味に思い至ると、知らず知らずのうちに身体中が熱くなった。
「何をしている?早くこっちへこい」
鋭い視線とぶっきらぼうな言い方ではあるが声に優しい響きがある。
「は、はい」
彼女がおずおずと彼に近づくと、向こうからたまりかねたように腕をのばしてきた。
逃げるまもなく抱きすくめらて小さくあえいだ。
「あっ」
「紅葉、ここならば誰もいない。早く元の姿に戻れ」
「え?元の姿……」
「早くしろ、俺を焦らすな」
至近距離で見た彼の赤い右目は切羽詰まったような熱を帯びている。
だが静奈には彼の言っている意味がはっきりとはわからない。
無意識に首をかしげて、身じろぎして逃げようとした。
だが、ますます強い力で抱きしめられてしまう。
か弱い娘が軍人に抗おうとしても全くの無駄だった。
「お、お許しを」
「何を許せと言うのだ?俺の元から逃げ出したことをか?それとも新たな主人でも出来たというのか?
まさか、あの男爵ではあるまいな?」
「な、なんのことですか?さっきから私のことをどうして紅葉とお呼びになるのです?私の名は静奈です。
誰かと人違いをされておられるのではありませんか?」
「人違いだと?」
静奈はどこまでも噛み合わない会話に違和感を覚えて問いただした。
どうやら自分は紅葉という女性と勘違いされて連れてこられてしまったらしい。
もしそうだとしたら、双方にとって不幸な事だ。
なるべく早く、誤解を解き家に帰らせてもらうべきだろう。
好んで男爵邸に帰りたいわけではないけれど。
目の前にいる半妖の鬼は、世間からは相反する評価を受けている。
人間の味方かそれとも、敵であるのか。
そう思うと恐ろしい存在であるはずなのに不思議と身の危険は感じない。
ただ、普段このような美青年と接することがないため気後れしてしまうのは致し方ないのだが。
静奈の行動範囲と言えば女学校と自宅との往復だけでまだまだ世間が狭く経験不足だ。
だからこの時、穴のあくほどまじまじと見つめられて俯いてしまった。
彼は何も言わずに彼女の頬を両手でそっと包み込んで上を向かせる。
「俺はおまえのことを確かに紅葉だと感じる。
だが、おまえが嘘をついているようにも思えない。だからいっそうわけがわからない」
彼は眉を寄せて切なそうに瞳を細めた。
ようやく少し彼も落ちついて彼女の話を聞く気になってくれたようで静奈は安堵した。
だから、彼女もさっきから感じていたことを正直に打ち明けようと思った。
「実は私もさきほど皇様の姿を見た時、不思議な感覚がしました。うまく説明が出来ないのですが懐かしくなり涙がこぼれました。初対面だと思っていたのに以前どこかでお会いしていたというこでしょうか?」
「懐かしく思った?そうか、それならば」
彼は顎に手をあてると、しばらく考えこんでしまった。
その間にも逃すまじとばかりに彼女を片腕だけで抱きしめ続けている。
「あ、あの、すみません。
もう少しだけ、離れても構いませんか?」
静奈はおずおずとお願いしてみる。
いくらなんでもいきなりこの距離感はまずい気がする。とにかく恥ずかしくてしかたがないのだ。
すると静奈が顔を逸らして俯いた瞬間、お腹がグューと音を立てたので慌てて背中を丸めた。
「す、すみません」
今すぐこの場から消えてしまいたいくらいの羞恥心で顔が赤くなる。
普段から満足な食事が与えられていないし、パーティー会場でも何も口にしていなかった。
「いや、いい。腹が空いているのだな。
何か探してこよう。ここで待っていろ」
先程まで物思いにふけっていた夜影はそう言って、すっと立ち上がり部屋から出て行った。
ようやく一息ついた静奈はふと薄暗い部屋の中を見回す。
ここは彼の部屋なのだろうか。
小さなタンスがひとつとちゃぶ台と、鞘に入った刀が置かれている。
噂に聞く財力にそぐわない質素さで、必要最低限のものしか無いように見えた。
男の一人暮らしとはこのようなものなのかもしれないとぼんやり思っていたら、彼が手に包みを持って戻ってきた。
「こんなものしか無いが、食え」
相変わらず愛想のない言い方で差し出されたのは葉っぱに包まれたおむすびだった。
「すみません、いただきます」
またお腹の虫が悲鳴をあげそうだったので彼女は遠慮なくいただくことにした。
鶏肉の入った炊き込みご飯を握ったそれは、薄い味付けながらほんのり甘くて冷めていても美味しい。
あんまりお腹がすいていたので、3個全てをぺろりとたいらげてしまった。
だがハッとして顔を上げると、ずっと夜影に見つめられていたらしくて、またまた恥ずかしくなる。
「あ、あのすみません。全部食べてしまいましたがよかったのでしょうか?」
今更だが、彼にも残しておくべきだったろうかと不安になる。
ふと彼も晩御飯を食べていないのかもしれないのではと気づいた。
「いや、俺はいい。
10日間くらいなら何も食べなくとも平気だから」
「は、はあ」
鬼とはそういうものなのだろうか。やはり人間とは違うのかもしれないと改めて思う。
「いつも晩飯を準備してもらっても残すばかりで心苦しかったんだ。おまえが代わりに食べてくれて助かった」
「え、そ、そうだったんですか。でも、ごめんなさい」
それでも、さっき食べたのが彼の晩御飯だったとわかって申し訳なくなる。
「気にするな、おまえが食べる姿を見ていたら自分が食べるよりも満たされたぞ」
「は、はあ」
彼は口の端を少しあげて目を細めた。
「とても幸せだという顔だった。そう言えば紅葉もうまいものには目がなかったな」
彼がほんの少し笑顔を見せたので、思わず目を見張った。
どちらかと言うと、彼の表情は怜悧で温かみに欠ける雰囲気があったので驚いた。
もしかしたら、おむすびをすべて平らげてしまった失態を気にさせまいとする心遣いかもしれない。
静奈はそう思うと、目の前の半妖の鬼に対する警戒心がほぐれていく気がした。
安心したら、ふわっとあくびをしてしまった。
「1時だな、もう寝るか」
「……」
「明日からおまえにまだいろいろ聞きたいこともあるのだ。どうだ?しばらくここで俺と暮らさぬか?」
「え、でも。家の者になんと言われるか」
そう言えば、パーティー会場から抜け出した静奈を養父たちはどう思っているのだろう。
きっと今頃、激怒しているに違いない。
養父が花嫁として嫁がせたがっていたのは自分では無く妹の蘭子なのだから。
だがこうなっては藤波男爵のもとに戻った時、どんな体罰を受けるかわからない。
静奈は身震いして自分の細い体を抱きしめる。
その時、彼女の着物の袖から白い腕があらわになる。
「その痣はどうしたのだ?」
彼女の腕にある紫色のそれに夜影はめざとく気がついた。
「いえ、これはなんでもありません」
叱責される度に鞭で叩かれた跡だったが、正直に言いたくなかった。
今日初めて会ったばかりの相手に哀れみをかけられるのは嫌だ。
「そうか、言いたくなければ今はそれでもいい。だが」
「……」
「これからは何も心配するな。どうだろう、俺に任せてくれないか。悪いようにはしないから」
夜影は柔らかな表情で言い、そっと彼女の頭を撫でた。
(任せるって、どういうこと?)
だが、まだなにもかも委ねられるほど信用できるわけはない。
容易に誰かを頼り信頼するには、彼女のこれまで歩んできた道は不幸すぎた。
信頼して心を許しても何度も騙され裏切られてきた。
その度に、もう誰にも期待してはいけないのだと骨身に染みて思い知らされるのだ。
「私のことはどうか放っておいてください。私は人違いで連れてこられました。
ですから、明日は家に帰ります」
「駄目だ」
だが、彼は一切聞く耳を持たない。
「おまえは間違いなく紅葉だ。であれば俺は二度とおまえを離したくはない」
「で、ですが、証拠はありますか?」
「証拠は何もない。だがこの俺がそう感じるのだ、だからおまえは紅葉だ」
めちゃくちゃな論法であるはずなのに、なぜか逆らえない気迫を感じる。
「少しづつでいいから思い出せ。今日はもういいから眠れ」
すると夜影は今度はなぜか優しい声色になった。
彼の長い指が静奈の頬に触れると、急激な眠気に襲われてことりと俯き全身の力が抜ける。
彼はこの時彼女を霊力によって簡単に眠らせたのだが、これはひとつの事実をあらわしていた。
「やはりただの人間の娘か」
ため息まじりにそう呟くと、半妖の鬼は彼女の羽のように軽い身体を抱き寄せ壊れ物でも扱うように優しく布団に寝かせたのだった。