――――影法師が揺れる。私はその日もお母さんが仕事を終えるのを待っていた。お母さんが少ない貯金をはたいて買ってくれたお気に入りのぬいぐるみと一緒に。

『鶸とお揃いよ。この子と一緒なら、寂しくないわね』
お揃い……そうお母さんに言われた時は分からなかった。でも鶸は鳥である。この子も鳥の子。
小さな鳥の雛同士、支え合い、元気付け合い。子どもながらの寂しい気分をまぎらわしていた。

「そのぬいぐるみ、わたし()ほしい!」
しかし突如響いた声が、私の宝物を奪い去る。

「か、返して!」
必死に取り替えそうとぬいぐるみを掴むが……。

「これはもうつぐみのよ!あんた見るからに貧乏そうじゃない!わたしはおじょうさまなんだから、これはわたしのものよ!」
おじょうさまって何……?幼い私には分からなかった。それよりも大切な友だちを取り返そうと必死だった。

【つぐみ】は激しくぬいぐるみを引っ張り、尻餅をつく。

「いったぁい……っ!何するのよ!わたしはおじょうさまなのよ!?あんたわたしにこんなことをして、ただですむと思ってるの!?あんたのおやもいっしょにみちづれにしてやる!」
私の……お母さんに?みちづれってなに?何だか分からなかったが、しかし良くないことだとは分かった。
しかしその時、つぐみは手元を見てうえっと顔を歪める。

「何これ気持ち悪いっ!」
つぐみが思いっきり引っ張ったことで首もとが裂け、綿が剥き出しになった【ひよこ】をぺいっと放り投げたのだ。

私の……宝物。友だち。お母さんにもらった大切な……。

「あんた、ゆるさないから!」
つぐみが立ち上がりこちらに向かってくる。

どうしよう……恐い。お母さんに何かされたら……それに、私の宝物が……っ。

「やめろ」
その時、背後から大きな影がかかる。

「この子の大切なものを奪おうとしたのはお前の方だろう」
伸びた影法師の頭には、角があった。このひとは、鬼だ。

「ひ……っ、バケモノ!」
しかしつぐみは脅えたように目に涙をためる。

「バケモノよ!ねぇたすけなさいよ!あんたがいけにえになるのよ!」
つぐみは何を言っているのだ。

「黙れ。俺をバケモノと呼ぼうが関係ない。この子に近付くな。今すぐに立ち去れ」
「……ひっ」
鬼が私を背後に庇ったことで、自分の盾になるものも失ったつぐみは泣きじゃくりながら逃げていった。

そして鬼はひよこを拾い上げた。

「……縫えば何とかなるか」
「……ぬえば?」
「ひよこを治してやるんだ」
鬼はベンチに腰掛けると、どこからか針と糸を取り出す。いつも持ち歩いているんだろうか

「ほら、できた」
鬼は私に治ったひよこを預けてくれる。

「……」
そして鬼は私の頭にそっと掌を乗せた。

その時鬼は何と言っただろうか。私はその鬼に、ひよこを手渡した……気がする。

※※※

「鶸?」
「……」
すっと目を開ければ、いつの間にか漆鬼の腕の中で眠っていたことに気が付く。

「ここは……」
「少しな」
ベンチに腰掛けながら、鮮烈な夕陽の射すなかで、漆鬼は懐かしそうに微笑む。

「……ひよこ……私は昔、漆鬼にあのひよこを渡した」
「……覚えていたのか」
「少しだけ」
あの時、漆鬼は何と言ったのか。

「鶸……もう一度、チャンスをくれると言ったな」
「……うん」

「……俺の妻になってくれないか」
『大きくなったら、俺の妻になってくれないか』
そう……そうだった。それが一度目のプロポーズ。

『鬼のしきたりで人間の娘が成人するまで迎えには行けないが……だが必ず迎えに行く。その時は……どうか俺を選んでくれ』
子どもの頃にはよく分からなかった言葉が堰を切ったように蘇る。

それでも、あなたは寂しそうにしていたから。

『私を迎えにくるまで、この子がそばにいてあげる』
私は、私の友だちで宝物で、分身とも呼べるひよこを彼に預けていたのだ。ずっとずっと、待っていてくれたのか。それなのに……お互いに気付けなかった。

「そして許されるのなら……俺と鬼の契りを結び……同じ時を生きてほしい」
鬼からの、ひとりの男からの精一杯の祈り。願い。渇望。

本当に、あなたは不器用なのに。精一杯そう伝えてくれる。昔から放っておけないひとだったのね。

「分かったわ。鬼ごっこは降参よ」
鬼ごっこは終わり。私は……。

「私は離縁はしない。あなたが私を信じてくれるのなら、私もあなたと同じ時を生きる」
私にはあなたや、鬼の屋敷のみんな、夜鬼くんたちしかいない。人間側に置き去りにするひとなんて、誰もいない。鬼の寿命と共に置き去りになる世界も、ひとも、もうなにもない。私を大切にしてくれないひとたちのためにあげるものなどなにもない。未練もなにもないもの。ならせめて私を大切にしてくれる鬼たちと同じ時を生きたい。

「あぁ……鶸……ありがとう」
漆鬼が私の身体を優しく包み込む。その温もりはどこか懐かしく、とてもとても大切な宝物のよう。
このどうしようもなく不器用で優しい鬼を、ひとりぼっちにはできないもの。私はやっぱり、あなたのことが好きでしかないのよ。

――――初めて出会ったあの日からね。