――――座敷牢の中に静寂が訪れる。紅は気絶し鶫は口をぽかんと開けて驚愕している。

「鶸、大丈夫か」
しかし漆鬼はそんなものはどうだっていいと言わんばかりにふわりと私を抱き締めてくれる。

「……どうして」
「屋敷のものが知らせに来た。お前が紅に拐われて行ったと」
「でもどうして私の居場所が分かったの?」

「鬼ならば分かる。自分が妻として迎えると決めた娘の居場所くらいは」
ならば妻から離縁を告げられた鬼は、それを分かりながらも一生離れ離れになる生活を送らねばならないのか……?

私は漆鬼にとんでもない要求を突き付けたのではなかろうか。何より必死そうに私を見るその眼差しが、まるで捨てないでくれと言わんばかりに降り注ぐ。

「ちょっと待ってよ!」
だがそんな2人のひと時すら許さず叫ぶのは、漆鬼の不器用さも優しさも知らず、ただ漆鬼が欲しいと叫ぶ鶫だった。

「お姉さまは漆鬼に離縁を申し入れたのよ!?なのに漆鬼が何でお姉さまを……っ!そんなの契約違反じゃない!」
鬼と人間の契約違反。確かにそうではあるが。

「離縁は期限付きよ。2週間、私は考える時間をもらったから。その期間に私は漆鬼と離縁するかしないかを決めるわ。でもそれは私と漆鬼の間の約束よ。あなたには関係ないわ」
「何よそれ!聞いてない!」
「あなたには関係ないのだから、言う必要なんてないでしょ?」

「何でよ!アンタは妾の子のくせに恥ずかしげもなく漆鬼の妻の座を陣取ったのよ!?本来漆鬼の妻に相応しいのは私よ!とっとと離縁して漆鬼を私に返してよ!」
あなたのものだったことなんてないでしょうに。

「漆鬼!漆鬼はそんな妾の子よりも鶫を選んでくれるでしょ!?私の方がお姉さまよりもかわいいし、それに本妻の子で、それからお姉さまのような醜い手でもないわ!」
本妻の子であることの何がステータスなのか。私だって、この屋敷に引き取られることなんて望んでいなかった。でも強引に連れてこられて、待っていたのは鶫と継母による理不尽な地獄の毎日だった。

「黙れ」
漆鬼の声がまた低くなった。それは地鳴りのように座敷牢と言う名の狭い空間に反響するように響く。

「俺は鶸以外を妻に選ぶことなどない。お前などを妻には選ばない。俺は……鶸だからこそ選んだ。本妻の子だの妾の子だの、そんなのはどうだっていい」
漆鬼の瞳が赤く光り、そして覇気を纏う。鬼は人間にはない力を纏うと言われるが、あれが……?

「何……っ、そんな……っ。だってそいつは妾の……」
「化けの皮が剥がれるとはこう言うことか。お前は鶸を【大切なお姉さま】と呼びながら、影では【妾の子】と蔑んでいたのだな」
「……え……あ……っ」
鶫はここに来てようやく自分の失言に気が付いたようだ。
あれだけ猫を被っていたのに、ついに本性がバレてしまったのだ。

「それに鶸の手は醜くなんてない。相変わらず小さな柔らかい手だ」
相変わらずって……まるでずっと知っていたような。あれ……手……?
ふと、自分の手を見下ろす。私は何か大切なことを忘れている……?この屋敷でと地獄のような日々を耐えるために、固く封じてしまった、幸せだった頃の記憶。お母さんとの記憶。それから……優しい……。

「いやよ!なんで……なんで妾の子を選ぶの!?えらぶなら……わたしのほうが……っ、そんな化け物みたいな手……っ」
「化け物……?お前は本物の化け物を忘れたか……?」
本物の、化け物?そして忘れたとは一体……。漆鬼はまるで、鶫が本物の化け物を見たことがあるのを知っているような言い方をする。

「……え……」
その瞬間漆鬼の顔に昔絵物語で見たような鬼の紋が現れ、漆鬼が覇気を濃くする。

「いやぁぁぁぁっ!!化け物おおぉっ!来ないで!鶫は……鶫なのよ!?お願い……そうだ……漆鬼……!お願い漆鬼、私を助けてぇっ!本物の漆鬼が私を、この化け物から助けてくれるの!」
鶫は一体どんな夢を見ているの?鶫の言う本物の漆鬼とは誰?私の知っている漆鬼は、今私の隣にいてくれる、強く優しい……けど結構不器用な鬼だけだ。

「鶫……鬼のことを、そんな風に思っていたのか」
その時、意識を取り戻したらしい紅が呆然と告げる。そしてその姿を捉えた鶫が紅に手を伸ばす。

「お願い紅いぃっ!私を本物の漆鬼ところへ連れていってええぇっ!」

「……断る」
あんなに鶫に傾倒していたと言うのに、紅は鶫の手を振りほどいた。

彼にとって漆鬼は唯一無二の種族の長である。

「な……んで……?ねぇ、紅……?」

「……俺は、漆鬼さまと同じ、化け物だから」
鬼を化け物と呼ぶ鶫に、紅もまたようやっと目が覚めたってこと。むしろ屋敷のみなももしかしたら、鶫が自分たちを【化け物】として脅える対象だと見なしていたことを本能で悟っていたのではないか。だから傾倒することなく、ただ私のために優しくしただけ。
紅はただほかのものよりも少しだけ、鶫に肩入れしてしまったのだ。本当に、あれが惚れた弱みってやつ?まぁ今ので100年の恋も覚めたようだが。

「ならここの始末はお前がつけろ、紅。始末を付けられたのなら、お前を一族から追放することだけはやめておく」
「はい」
目を覚ました紅は深々と漆鬼に頭を下げた。鶫はそれでも紅に未だ手を伸ばすが、紅はその手を取ることはなかった。
アイツには手酷い目に遭わされたが、あれも鶫による被害者のうち。目を覚ました以上、ちゃんとした働きをするのなら私も漆鬼の決定には反対しないわ。

「では、帰ろうか。俺たちの家へ」
私たちの……そうか。あそこはもう私たちの家なのね。

「うん」
頷けば、漆鬼が私を抱き上げてくれて、座敷牢から脱出する。そのまま外へ向かおうとすればそれを阻む女がいた。

「お……鬼さまぁっ!!」
私を抱き上げ覇気を収めた漆鬼のことをそう呼び、欲望の目を向けるのは鶫の母親……継母だ。

「お待ちください!あなたさまに相応しいのはわたくしの娘の鶫!どうかわたくしの娘の鶫を妻にお迎えください……!その娘は妾の子!穢らわしい娘!あなたさまには相応しくありませんわ!その証拠にその掌はまるで化け物のよう……!」
「あなたがやったことでしょう?あなたに強引に掌を火鉢に入れさせられたこと、忘れたことはないわ」
私が初めて反撃したことに、継母は目をキッと吊り上げる。

「あの穢らわしい女の娘!私に口を効くなんて生意気よ!」
お母さんは……穢らわしくなんてない。穢らわしいのはむしろ、結婚していながら私のお母さんに無理矢理手を出したあなたの夫でしょう?

そのせいでお母さんは婚約者に捨てられ、実家からも見放され、ひとりで私を生んで育てた。それがどんだけ大変だったことか。それでも私に愛情を注いでくれたお母さんのことを、穢らわしいだなんて……っ。

「穢らわしいのはお前の方だ」
だが漆鬼は冷たく言い放つ。すると次の瞬間、継母の掌が燃え上がる。

「ぎゃあぁぁぁぁっ!!?手が……私の手がぁっ!あっい……あついあついあづいいいいぃっ!!」

「鶸の掌を焼いたのはお前なのだろう?鬼にとって伴侶は特別だ。それも……妻が受け入れてくれるのなら、鬼の誓いを結びたいと考えた最愛の伴侶なら。その伴侶を傷付けたものは決して許さない」
え……漆鬼は私と鬼の誓いを……?
そんなのは、初耳だ。漆鬼はそこまで私とのことを考えてくれていたのか。

「その炎は鬼火と言ってな……人間たちではとてもじゃないが治せない。鬼も長の鬼火に焼かれた掌を治そうとはしまい。お前は人間どもに化け物の手と蔑まれながら、鬼たちに長の怒りを買った愚かな人間として生き恥をさらすがいい」
「いやぁぁぁぁっ!!私の手がぁ……っ、なおして、お願いよおおぉっ」
「知るか」
漆鬼は泣き崩れる継母に目もくれず、屋敷を出る。

「長殿」
外には、父親がいた。母に手を出し人生を台無しにした。私を道具としてしか見なさなかった。

「この家への融資は見送る。今まで与えていたものも全て返してもらう。この家を支援するものはもういない。それがお前たちへの罰だ」
つまりこの家はただ没落を待つのみ。没落したとしても今まで私が嫁ぐと言う約束で融資していた額を返さねば解放されることはない。そして鬼の長にそう宣言されたのなら、鬼たちもまた味方をすることはない。

「ですが我が家は鶸の……」
「俺の妻の名を呼ぶな。お前たちが鶸に何をしてきたか……あの座敷牢を見ればおおよそ予想はつく。それに……この屋敷で顔合わせをした時、鶸は異様に痩せていた」
「……っ」
全てを看破された様子に、父親が黙りこくる。

「お前は……育ててやった恩を返そうとは思わないのか!」
そして標的を私に変えたらしい。

「なら私のお母さんにやった贖罪を、あなたは返したの?」
「は……?」

「私はあなたを一生許さない。あなたにはお母さんを奪った怨みしかない。それを恩だなんてよくも恥ずかしげもなく言えたわね」
「な、生意気なっ」

「生意気はどちらだ」
顔を赤くする父親を、漆鬼がねめつける。

「それともお前はその喉を焼いてやった方がいいか?」
漆鬼の周りに鬼火が灯る。その鬼火に脅えたように父親は再び黙りこくる。

「人間は鬼を恐れるものだ。鬼の本当の姿も、鬼火も」
実家の敷地を抜け、屋敷への帰路を辿りつつ漆鬼が悲しげに告げる。

「だからこそ、見初めた娘が離縁を選ぶのなら受け入れる。脅えられ、嫌われるよりはましだ」
漆鬼も同じ思いを味わったのだろうか。
「私はそんなんで嫌わないわよ。……バカね」
きゅっと漆鬼の首に抱き付けば、どこか安堵したような鬼の微笑みが漏れた。