――――毎日三食、食事に付き合ってくれるようになった漆鬼。それから夜は漆鬼の寝室で2人で眠る。相変わらず防波堤は朝には決壊し、漆鬼は本能的なもので私にくっついている。鬼って割りと懐っこい本能を持っているのかしら。
それとも漆鬼特有なのかしら。夜鬼くんに聞いたら分かるかな……?

それでもすれ違っていた頃に比べれば、今の夫婦の時間は見違えるものだ。毎日幸せへの一歩を踏みしめるように、2人の会話が続いていく。

漆鬼が仕事に行っている間にはお茶を習ったり、刺繍を始めたりしてみた。
昔はただ部屋で縮こまり、鶫が土足で上がり込んでくれば癇癪を起こした。でも今は違う。鶫はもう来ない。
本当にここに来ることはなくなった。漆鬼は約束を守ってくれたのだ。

このまま、この穏やかな日々が続いてくれれば。そう願わずにはいられなかった。

「……」
部屋に西陽が射す。ハッとして急いで準備をする。今日も本邸から戻ってくる漆鬼を出迎えるのだ。
毎日欠かさず食事を一緒にしてくれる漆鬼のために、出迎えるのは私の大切な習慣になっていた。

「本日は少し遅くなるそうです」
使用人がそう教えてくれる。

「そうなの……」
「中で休まれますか?」
「ううん、少しくらいなら」
「あまりお身体を冷やさないよう、少しだけですよ?後は我々が見ておりますから」
「ありがとう」
漆鬼との会話が増えていき、それから使用人の彼らとの会話も自ずと増えていく。気が付けばそんなとりとめのない会話もできるようになった。
羽織を一枚身体に掛けてもらえば、鮮烈な夕陽に目を向ける。
以前はとても虚しく映った夕陽も、漆鬼のことを考えていたら何だかとても美しいもののように思えるのよ。

しかしふと、身体に影がかかってハッとする。使用人たちや漆鬼ではない。

「奥さま!」
使用人たちの叫び声がこだまする。

「来い」
「むぐっ」
私の口を塞ぎ強い力で抵抗もできないうちに景色がぐるんと回る。鮮烈な夕陽から溶け出すように姿を表したのはあの赤鬼……紅だった。

私を一体どうする気!?しかしそれを聞くまでもなく、赤鬼は超常的な身体能力で夕陽に溶けるように跳躍する。

――――しまった。敵は鶫だけではなかった。鶫をやたら特別視するこの鬼も鶫の手先。しかし彼は長の補佐も任されている鬼だ。
彼の屋敷への介入を阻もうにも、漆鬼の仕事に差し支えるのはどうかとも思った。

――――けれど。
この鬼の鶫への異常な肩入れのことを加味し、せめてひとことみことくらいは漆鬼に話しておくべきだったのかもしれない。
今の漆鬼との和やかな時間を壊したくなくて、遠慮してしまったから。
私は臆病だ。不器用で、臆病で、漆鬼に愛されたい嫌われたくないと叫ぶこの心をまだ上手く律することができないのだ。

今さら後悔しようとも遅い。ふと目を開ければ思い出したくもない天井が映る。窓もない、鉄格子の嵌まった座敷牢。鶸はずっとここで育ってきた。
赤鬼に拐われ、いつの間にか意識を失っていたようだ。ようやっと羽ばたき始めた小鳥は、無惨にも捕まり暗く冷たい鳥籠の中に囚われた。

暗く冷たい鳥籠の中で思い出す。鶸と言う少女の過去を。鶸は妾の子であった。つまりは妻がいながらほかの女に手を出した父親が生ませた娘。
幼い頃は産みの母と暮らしたが、母は私が幼い頃に儚くなり天の星となった。

その後は父親に引き取られこの屋敷に来たが、待っていたのは妾の子である私に憎らしげな目を向ける継母……本妻。それからその娘の鶫であった。そして妾の子であるがゆえに家の使用人たちにも嫌われ、怨まれ、毎日ろくに食事も与えられず、湯浴みもさせてもらえず、ただこの暗い座敷牢に閉じ込められた。

父親は何のために私を引き取ったのだ。こんなことならば、孤児院にでも引き取られた方がましだったろうか。

だがそんな私が、ある日湯浴みに連れて行かれ、きれいな着物を着せられた。何事かと思いきや、この家に漆鬼が来た。そして私を妻に迎えるために許嫁にすると告げたのだ。

だがそれに待ったをかけたのが継母と鶫だ。何故妾の子である私が選ばれる。本妻の娘である鶫の方がふさわしい。そう継母は吠えた。鶫もひと目で漆鬼の美しさに魅了されたのか、漆鬼の妻になるのは自分だと泣きわめいた。だが漆鬼の意思は変わらず、私以外を妻に迎えることはないときっぱり告げたのだ。そして私の無事な成長を願い祝福を授けてくれた。

私はその時初めて、救われたと思ったのだ。漆鬼の妻として迎えられれば、この家から自由になれる。愛されるのだと。

その日から私にはましな食事が出た。鬼の長に嫁がせるために、殺してはならないから。たとえどんなに継母が鶫を長の妻にしようとしても、鶫が望んでも、私を餓死などさせれば家ごと没落など目に見えている。

だからこそ父親は、鬼の長から得る恩恵と繁栄のために私を生かすよう命じた。
一方で嫉妬に狂った継母は私を殺さなければそれでいいと、死なない程度に毎日のように暴力を振るった。殺さなければいいのだと、熱い火鉢に手を突っ込まされたこともある。その火傷の後遺症で、私の掌はとてもじゃないが女性として美しいものではない。
だがそれはさすがに父親の逆鱗に触れた。嫁がせる時にこんな火傷の痕を見せたら何と言われるかと怒ったのだ。あの父親も私のことを単なる政略の道具としか見ていない。
それでも継母は私の手が醜ければ漆鬼が愛想を尽かすだろうと熱弁したが、それなら実家が恩恵を受けられなくなる。その場合鶫を選ぶ確証などどこにもない。
継母はそれでも鶫を選ぶはずだとごねたが、私との顔合わせの際に同席させても、鶫には目もくれなかった。
鶫の方がよければ鶫を選んだはずだと言う父親の言葉に、継母は烈火のごとく私を睨み付けた。

その後私は政略の道具となるために、掌の治療を受けた。ようやっと火傷の痕は薄らいだが、それでも鶫のようなか細く滑らかな手ではない。
継母は鶫の手の美しさを褒め私の手を醜いと罵るが、けれどそんな手を漆鬼は何も躊躇わずに握ってくれる。

漆鬼は継母が思うような薄っぺらい鬼ではない。それは漆鬼と向き合って分かったことだ。

「抜け出さなきゃ」
漆鬼の優しさを知った今、もうここにいる必要なんてない。私がここにいる理由なんてないのよ。どうにかして出口を探そうとした時、座敷牢に誰かが入ってきた。

「お帰りなさい、お姉さま」
そんな呼び方、この家ではしたことがないのに。それとも鶫は隣の赤鬼の前では意地悪な姉に虐められる【かわいそうな妹】でいたいのだろうか。

「相変わらず醜い手」
鉄格子を掴んだ私の手を、鶫が笑う。この痕をつけたのは、あなたの母親よ……?

「まるで化け物みたいね」
なら私を化け物にしたあなたの母親は……何?その女の娘のあなたは何……?
贔屓の鬼を使い、こんなところに私を閉じ込めて醜い手だと罵るあなたは何なの?

「そんな醜い手を持つ化け物、漆鬼さまの妻には相応しくないわ。ねぇ、紅」
「本当だな。何故漆鬼さまはお前のような女を妻に選んだのか」
「きっと化け物の怪しい力で騙したのよ」
そんな力、知るわけもない。私にとっては人間をこんなところに閉じ込めて、掌を焼き暴力を振るい、暴言を吐く。あなたたちの方がよほど化け物よ。

「漆鬼さまを!?鬼をナメているのか!許さんぞ!」
紅が怒りをあらわにし、鶫がニヤリと笑む。

「それに貴様……漆鬼さまを誑かしたそうじゃないか!」
誑かしたって何……?誑かしたのは鶫の方ではなくて?

「お陰で鶫は長の屋敷の敷地にも入れない」
この鬼は、鶫に傾倒しすぎて鶫が何故【長の屋敷の敷地に入るのか】を考えられなくなったのだろうか?ただの未婚の人間の娘が、鬼の長の屋敷に堂々と足を踏み入れることの異常さを理解していないのか。それともこの鬼も鶫が私の妹だから特別に入ることを許されたと思っているのか。

屋敷の使用人たちや夜鬼くんと違うのは、鶫に傾倒しすぎて冷静な判断もつかないこと。
まさしく鶫に誑かされている証拠よ。

「でも助かったわ。お姉さま。お姉さま自ら漆鬼さまに離縁を決意してくれて」
「……は?」

「言ったでしょ?漆鬼さまに……離縁するって。それって鬼の妻に選ばれた娘が選べるたった一度の権利よね?ならお姉さまは漆鬼さまと離縁する。でもそれでは漆鬼さまのメンツを潰すことになる。こんな醜い手を持つお姉さまが!あまつさえ鬼の長に向かって、離縁だなどと……!」
鶫が私の手首を掴み、強引に引っ張り上げる。

「い……痛……っ」
「だから私が漆鬼さまにお詫びに嫁いで妻になるの!お姉さまのような悪女に苛まれた漆鬼さまを慰めるために!」
以前ならば、鶫と継母の凶行に泣いて脅えることしかできなかった。逆らうことができなかった。この屋敷を出て嫌だと暴れられたのは、鶸が見ようとしなかっただけで周りが鶫の味方ではなく私の味方だったからだ。
傷付いても何でも、恐らく鶸は本能で感じ取っていたのかもしれない。

「悪女はどっちよ!!」
もう、ただあんたたちに脅える私ではない。
反対の手を鉄格子の外に繰り出し、鶫の手の皮膚を思いっきりつねれば、鶫が悲鳴を上げて私の手を放す。
その隙に座敷牢の奥に距離を取る。

「貴様、鶫に何をする!」
「先にやったのは鶫の方でしょ!?一方的に暴力を振るって来たのは鶫よ!アンタ、目が2つもあるのに節穴なわけ!?」
「何……だと!?」
怒りに身を任せた紅が、鉄格子をぐにゃりとへしまげる。は……?鉄格子ごとへしまげられるの!?鬼は身体能力も桁違いと聞いているが、まさかの鉄格子まで……!?
ある意味鉄壁の防波堤と思われた鉄格子がいとも簡単に取っ払われてしまうだなんて……!

「この女……!鶫を散々傷付けておいて……!殺してやる!」
まずい……このままじゃ……本当に殺される……!

「言いたいことは、それだけか」
「……え……?」
いつもより低くドスの利いた声が響けば。

「げふっ」
私に迫っていた紅が一瞬でぶっ飛ばされ、ドゴンとものすごい音を立てながら壁に激突し崩れ落ちた。