――――漆鬼の寝室の中では、夫婦が無言で向かい合っていた。

「……鶸」
「……」

「お前の言い分を聞いてこなかったのは……謝罪する。俺の何がいけなかったか、知りたい」
「……」
少なくとも今この鬼は、私の話を聞こうとしてくれている。

「私たちは……夫婦なんでしょう?なのに寝室も別々、夫婦としての時間も取ってくれない。なら私は何のためにあなたに嫁いだの?」
鬼の長がフリーでは世間体が気になる?でも鶫と関係を持つなら、そもそも私はいらなくない?なら離縁となるわけだ。でももしかしたらそこに……いや確実にすれ違いの原因がある気がする。

「……寝室が別々なのは、代々そうだったからだ。人間の娘は鬼を恐いと思うだろう?」
「……よく分からないけど」
少なくとも鶸にそんな感情はない。むしろ鶸は人間の方を恐れていた。

「鶸もそうだと聞いた。俺が妻に望んだことを……嫌がっていると。だがこれは家同士の契約でもあるから簡単には放棄できないし、俺は……お前と離縁はしたくない」
「……」
この鬼、本当に私と結婚していたいの……?ならこの冷遇妻生活は何なのよ。それに……。

「私があなたの妻になることを嫌がっていると誰に聞いたの?」
「その……鶫だ」
また……鶫。鶫は漆鬼に妻に望まれた私をそんなに怨んでいたのか。
そして自分が少しでも漆鬼の心を掴むためにそんな嘘を吐き、漆鬼はそれを信じた。

「だがこれからは……鶸の話を信じる」
その言葉に嘘はない……と思うけど。

「私は……あなたに妻に望まれて嬉しかった。私は妻に望まれて、喜んで嫁いだわよ。私はあなたのことを好きで嫁いだの。愛していたのよ」
鶸にとっては漆鬼が唯一だったから。唯一私を望んでくれたから。だから漆鬼に愛されると信じて、私も漆鬼を愛していた。

「鶸……」
漆鬼が驚いた表情を浮かべる。普段は仏頂面なくせに、こんな表情があるなんてまるで知らなかった。

「でも……」
このひとはもしかしたら不器用なだけなのかもしれない。私もこのひとに、本当の気持ちを話すことができなかったのと同じく。
でも今は本当の気持ちを伝えることができる。漆鬼も鶫の言葉ではなく私の言葉を聞こうとしてくれている。
だから……言うのよ。

「あなたが鶫の言うことを鵜呑みにして、私の気持ちなんてまるっきり確かめてくれなかった。妻として愛されているとはとても思えなかった。だから今は心底……あなたのことが嫌いよ。離縁したいと思ってる」
鬼に嫁いだ娘には一度だけチャンスがある。本当に嫌だと思ったのなら、娘自ら鬼の長に離縁を申し入れるチャンスが。それは妻自らの申し入れでなくてはならない。家や他者が代理で申し入れることはできない。

妻がそう望むのなら、鬼は長の命で離縁しなくてはならない。鬼に望まれた妻は、普通は鬼のお金でいい生活ができる。鬼と暮らすのが嫌なら、別宅で何不自由ない生活が送れる。だから積極的な離縁を申し入れる前に、みなそこに落ち着くのだ。この屋敷の妻と夫の寝室が離れているのもかつての妻が望んだからか。漆鬼の言葉を借りるなら、人間の娘は鬼を恐れるから。

それでもいい暮らしが送れるのならと寝室を離し、いずれは別居。それでも縁を結んだ以上は人間と鬼との関係性は維持される。

「私は……あなたと夫婦になりたかった。愛されるものだと思っていた。でもそうじゃないのなら離縁がしたい。いい暮らしだのお金だの、別居でも何不自由ない生活だの、そんなのどうだっていいわ。ここに私の居場所がないのなら、私を自由にしてください。私は本気よ。鬼の長に、夫との離縁を申し入れます」
漆鬼はそれを、呑むしかないはずだ。

「……鶸……俺にもう一度だけチャンスをくれないか」
しかし漆鬼は離縁はしないと言うのでもなく、怒るわけでもなく、ただ私の前で頭を下げたのだ。

「もう一度鶸を愛するチャンスが欲しい。鶸が望むのなら、その通りにしよう。だから……っ」
あぁ……その言葉だけで離縁の決心が歪むのなら、確実にこのひとに未練があるのね。

「2週間」
「……っ」

「2週間待ちます。それでも私の気持ちが変わらなければ、離縁してください」
「……分かった」
漆鬼は頭を上げ、苦渋を呑むように頷いた。

「鶸」
「……」

「俺は……何をすればいい。何をすれば、お前は俺の前から去らない。夫婦として、何をすればいい」
「……ご飯は、朝と夜、一緒に食べてくれますか」
「……分かった」

「それじゃぁ」
立ち上がり、寝室に戻ろうとすれば手首をぱしっと掴まれる。そして手首を伝い、私の掌をとる。女性らしくもない、醜い後遺症が今も残る手を。

「夫婦は……共に、寝るのだろう……?」
「……」
離縁したい男と……か?しかし何故だかこのひとを放ってはおけなくて。
「分かったわ」

「……あぁ」
何でそんなホッとしたような顔を浮かべるのよ。

「でも……こっちから先は入ってこないで」
布団の上に腰掛け、そこら辺にあったひよこのぬいぐるみを掴む。しかし……何故漆鬼の部屋にこんなかわいいぬいぐるみが……?まぁいいや。

「おやすみ」
漆鬼に背を向けて横になれば、隣で寝転ぶ音がする。そうして自分の身体に掛け布団がかけられる感覚に、何故かドキッとしてしまう。本当は……優しいんじゃない。

本当に、彼は不器用な夫だ。そして私も……不器用な妻である。