――――一体これはどういうことなの。破滅を回避するために離縁を告げてみれば、漆鬼は離縁を認めないと言い張り、抵抗虚しく屋敷の中へ舞い戻り、閉じ込められた。
ここは私の寝室だ。外には見張りがおり逃れられない。本当に漆鬼は何を考えているの?それとも悪役妻として徹底的に断罪せねば気が済まないのかしら。しかしどうにかして逃げなければ私は破滅一直線である。
正攻法の離縁が無理ならば……何とかして逃げよう。逃げてしまえば事実離縁。諦めてとっとと鶫と再婚すればいい。
どうにかして逃げるルートがないかしら。寝室の中をくまなく探す。けれど常々使用している寝室にそうそうそんなルートがあるはずもない。ならば外の見張りの隙を狙うべきか。だが鬼ひとりであろうと人間の小娘の抵抗など赤子の手をひねるようなものである。
――――捕まったら終わりである。
その時、襖が開いた。まさか漆鬼!?……と、思ったのだが、姿を現したのは漆鬼によく似つつも違う黒鬼だ。
「父さんを怒らせたって聞いたけど、本当?鶸さん」
そう言って入ってきたのは……漆鬼の息子の夜鬼くんだった。もちろん私と漆鬼の子ではない。そもそも彼も鬼として百以上を生きているのだ。確か最初に迎えた人間の妻との子。鬼の長と言う立場上、漆鬼は何度か人間の妻を迎えているはずだ。その誰とも契りを結んでおらず、子も跡取りとしての彼だけのはずだ。
本当に……必要な繁殖のことしかない。鬼とは何と薄情で、ヒロインにころっと騙されて絆されるの愚かな生き物か。
襖を閉じて私の隣に腰掛けた夜鬼くんは、仏頂面の漆鬼とは違い柔和な青年だ。
漆鬼もこんなだったら少しは……いや、それでも鶫に絆されるところは変わらないかも。今のところ父親と不倫する鶫との接点は分からない。漆鬼は私との夫婦の生活の場としてこの屋敷で過ごしている。けど夜鬼くんは本家で暮らしている。あちらは鬼の一族が主に詰める場所。こちらは人間の妻と暮らす場所。
まぁ鬼と人間の寿命の関係上、今までの妻との間に義理の息子がいるなんてよくあることだ。
その場合、今までの妻との子は一族の暮らす本邸に、新たな人間の妻は夫婦ようの邸にと言うスタイルは不思議でも何でもない。普通のこと。それがこの世界の常識である。
だから普段は本邸にいる夜鬼くんが私の元に来るのは稀だ。それは夜鬼くんなりの夫婦の間を邪魔しないようにとの配慮かもしれない。もう立派におとなの鬼になっており、子どものように甘える年齢でもない。
「夫婦喧嘩したんだって?」
「夫婦……ですらないわよ。夫婦だったことなんて一度もない」
「……鶸さん、どこか変わった?以前は父さんの妻であること、とても誇らしげだったのに」
夜鬼くんにはそう見えたのか、それとも彼が優しいからそう言う言い方をしてくれるのか。確かに以前の鶸は、漆鬼に固執していた。彼の妻であることを誇りに思っていた。だからこそ不倫相手の鶫に激しく嫉妬した。でもそんなの当然よ。だって鶸は妻だった。妻として当然の感情でしょう?そもそも鶸には漆鬼しかいなかったのに。その唯一を堂々と奪いに来る鶫を許せるはずもない。
「妹と不倫した夫なんて、誇りでも何でもない。ただの恥じよ」
「不倫って……父さんが?鶸さんの妹と?」
「そうよ。いつも恥じらいもせずにこの屋敷に上がり込んで、漆鬼といちゃいちゃと」
「ぼくは鶫さんが鶸さんに会いたくて頻繁にここを訪れていると聞いたけど」
本邸にはそう伝わっているの?そうでもなきゃ未婚の人間の娘が鬼の大家を頻繁に出入りなどできないわよね。
「まさか……漆鬼と不倫してるからよ」
「父さんが鶸さん以外を……?それに鶫さんとなんてあり得ないと思ってたんだけど」
「でも実際そうよ。夜鬼くんだって鶫に好感を抱いてるんじゃないの?」
そうやって鶫を鬼たちみんなでちやほやする。
「え……?そんなまさか……あり得ない」
あり得ない……だなんて、どうして?
「みんな鶫に優しいし、ちやほやするじゃない」
「それは……何故だか彼女、すぐに鬼に脅えて泣くから」
「……は?」
「鶫さんは鶸さんを好いているし、鶸さんにとっての大切な妹だから傷付けないようにって気を使っているんだよ。ぼくたちを名前で呼び捨てにしたのを咎めただけでわんわんと泣くから強く言えなくてね。父さんじゃぁさらに脅えさせるし」
あの子が数ある鬼たちを呼び捨てにしていたのは……そう言うこと!?あの子があまりにも泣き真似をするから、鬼を恐がっていると誤解しみな諦めたと言うことか。さらには漆鬼は鶫の一番のお気に入りと言えど、あの仏頂面。泣かせないようにとの惚れた弱みか。
さらには私の妹だから、私を傷付けないように。私は、鶸はひとりぼっちだと思っていた。誰にも愛されない。けれど自分を選んでくれた漆鬼だけは愛してくれると信じて。
もっと周りをよく見てみれば違ったのだろうか……?夜鬼くんもこうして優しく私の話を聞いてくれる。屋敷のみんなだって……いつも美味しい料理を出してくれて、着物も着せてくれて、湯浴みも手伝ってくれる。実家ではなかったことだ。あり得なかったことだ。
漆鬼が愛してくれないから、ひとりぼっちだと過剰に自分を責めていただけなのではないか。
「……鶫は私のことを姉だなんて思ってないわよ」
信じてもらえないのなら、そこまでだ。言っても誰も信じてくれない。実家ではそうだった。ここでも鶫を悪く言うなと叱られた。
きっとここでもと、ちゃんと話さずにただ当たり散らしてしまわなかったか。
ちゃんと話していれば、変わったかもしれない。でも何かを恐れ、恐くて口に出せないことなど普通だろう。そんなにほいほいと打ち明けられれば誰も苦労しないのよ。実家で抑圧されて、愛を渇望していたかつての鶸は……そんな主張をできるほど、強くはなかった。でも……今は違う。前世の私
今の私。今はひとりじゃない。2人分の私がいるなら少しだけ、立ち向かえる。
「鶸にとって私は……鶫が嫁ぎたくて仕方がなかった高位の見目麗しい鬼……憧れの鬼の長に選ばれた憎き相手よ。あの子は私から漆鬼を奪いその妻の座を奪うためだけにここに通っていたのよ」
「鶫さんが……?そんなこと、できるはずもないのに」
でもヒロイン枠だもの。それができてしまうのよ。だから私には勝ち目はない。
「でも漆鬼は鶫が好きなんでしょう?」
「それは……鶸さんは一度父さんとしっかりと話した方がいい」
「……話したって変わらないわ」
「いいから……ほら。鶸さんも来て」
夜鬼くんが立ち上がり、私腕を優しく引く。観念して立ち上がれば、連れていかれた先は……漆鬼の寝室だった。
「……夜鬼、何故ここに鶸を……っ」
寝室にいた漆鬼
驚いてこちらを見ている。
「もう……今夜はちゃんとふたりで話すこと」
そう言って漆鬼の寝室に押し込められれば、夜鬼くんが襖を閉じる。えと……今まで初夜にすら呼ばれたことがないのに、いきなり、こんなところに……何故。
「鶸」
漆鬼がゆっくりと口を開く。
「……その、離縁、してください」
ちゃんと話さないといけない。私の意思を、このひとに。
「だから離縁はしない。お前は俺の妻だ」
「何でよ!アンタは鶫が好きなんでしょ!?ならとっとと2人で結婚すればいいわ!何で私にそこまで構うのよ!?そんなに私を破滅させたいの!?私が苦しむのを見たいわけ!?鶫の肩ばかり持って、私の言うことなんて何一つ信じてくれないくせに……っ、アンタなんかが私の夫を名乗るんじゃないわよ!」
「……っ、鶸、落ち着いてくれ」
「落ち着けるはずないでしょ!?」
「まず……俺が妻としたいのは鶸、お前しかいない。俺は、お前のことを常に考えていたつもりだ」
「嘘!鶫の言うことばかり信じるくせに!私の言うことなんてひとつも信じてくれなかった!」
「それは何のことだ」
「しらばっくれる気!?鶫をあれだけ家に入れないでって言ったのに!」
「だが鶫は姉の鶸に会いたいからと。鶸は自分が未婚だから鬼の家に来ることを心配してそう言っているだけだから心配しないでと……」
「私は会いたくない!家にも入れて欲しくない!何で鶫の言うことを信じるのよ!選ぶのよ!」
「……鶸……」
思えばはっきりと会いたくないとは言わなかったかもしれない。けれど家に入れないで……と言うことはそう言うことではないのか。
「済まなかった……鶸」
漆鬼の腕が私の身体を抱き寄せる。
こんなこと、望んでないのに。私は離縁がしたいのに。この腕を振りほどいて逃げられなくなってしまう……。