――――あ……私、詰んだ。

ずどんと落ちた衝撃と共に思い出した。

――――私……よくある和風ファンタジーの悪役妻に転生していた!?

「嘘でしょ……」
気が付いた時には既に遅し。明らかなツリ目の悪役顔の和風美人。
この世界はいわゆる和風ファンタジーの世界である。ただし単なる和風ではないのは、私の夫が……。

(ひわ)、何度言わせる」
目の前には美しい顔立ちの黒鬼がいた。彼は漆鬼(しっき)。鶸こと私の夫である。

この世界には人間と鬼が存在する。見目麗しく高い能力を持つ鬼の方が地位や権力を得る世界。しかし鬼には女性が少なく、人間から娘を嫁にもらうことで種を繋いでいる。人間と鬼はそう言った共存関係にあるのだ。さらに人間が鬼に嫁ぐことは鬼の家の恩恵を受けられる何よりもの誉れであった。

そうして私もこの鬼に嫁いだのだ。それも鬼の中でも長と呼ばれる最高の権力を持つ鬼に。

(つぐみ)に嫌がらせをするなと何度も……」
「お姉さまったらひどいの……っ」
そんな美しい鬼の傍らには涙ぐむ少女。かわいらしいぱっちりお目目に圧倒的なアイドル顔。つまりはヒロイン枠である。

つまり私はヒロイン枠の鶫を虐める意地悪な姉。さらに鶫は圧倒的なヒロイン特製で最高の鬼の権力者の夫の好感度を得、育て、寝取……攻略する立場にある。

昨今の流行りで言えばこの場合悪いのは既婚者に手を出すヒロイン枠。やってること不倫よね。だけどこの状況を不倫する方が悪いに持っていくにはあまりにも……私の夫への好感度が低すぎる。さらには周りの鬼たちも鶫を特別扱いし私を悪女悪嫁と非難する。

「鶫はお前のせいでどれだけ辛い思いを……っ」
そして夫の補佐であり妹を特別視する赤鬼・(くれない)。さながらヒロインを守る幼馴染み騎士。年齢は幼馴染みでも何でもないが、これはイメージの問題だ。立ち位置的には幼馴染みね。さらに騎士と言う言葉はこの世界では一般的ではない。ここは和風ファンタジーの世界だ。ゆえに呼称は武官や武人だが、前世の感覚で言えばヒロインを支えつつも決して結ばれない不遇職・ヒロインの騎士(ナイト)よ。

恐らく鶫は側近を通じて私の悪行を漆鬼に告げ口していたんだろう。そしていつしか義妹と言う立場をフル活用して漆鬼の好感度を上げていった。

私のしたことと言えば。漆鬼は私の夫なのだから近付くなと鶫に怒鳴り、漆鬼が仕事で構ってくれないとモノに当たり、鶫が家に押し掛けてくれば帰れと要求した。

――――あれ、これ私が悪いの?そりゃぁ怒鳴ったりモノに当たったりはよくないと思うが、そもそもの原因は違うわよね?
ろくに妻を構わない冷遇夫に、姉の嫁ぎ先に断りもなく押し掛け義兄と関係を持つ妹。

私は……記憶が戻る前の鶸はただ……愛されたかっただけなのに。
この世界で自分を選んでくれた唯一の鬼に、愛されたかっただけなのに。

「鶸……もう黙っていられない」
漆鬼が私に向かってくる。
「漆鬼!」
鶫が漆鬼を嬉しそうに呼ぶ。義妹であることはことさら強調し、利用してくるくせに。妹は漆鬼を義兄とは呼ばない。

人間の娘でありながら鬼たちにちやほやされる見た目であることで、あの子は鬼たちを気軽に名を呼び捨てで呼ぶ。

鬼の方が寿命が長く年上で、漆鬼とて何百と生きているが妹の前では鬼も人間同じらしい。記憶の戻る前の私には理解できなかったが、今なら分かる。典型的なお花畑である。
鬼は人間よりも優秀だから人間から敬われ、憧憬や羨望を向けられる。
そして鬼も伴侶を提供する人間にそれなりの生活を保証してくれる。
その関係性を一気に一網打尽にするそのお花畑脳は、均衡を保っているこの世界の人間と鬼のバランスさえも揺るがす。

だがそんなヒロインの斬新な考え方に騙さ……絆されるのもテンプレだ。漆鬼……あなたもきっとそう。鶫はいわゆるヒロイン。鬼の長に選ばれる典型的な姉や意地悪妻に虐められる不憫ヒロインよ。やってること、不倫だけど。略奪婚だけど。ヒロインなら許されるってのがテンプレよね。

少なくともそんなヒロインに耐性のないこの世界では、私はどこまで行っても悪役妻。鬼の長の漆鬼の怒りを買い、長の怒りを買ったことでこの世界のどこにも居場所がない。ただ落ち目となり破滅してろくな人生を送れないわ。
まぁ、即刻処刑なんて恐怖政治はないけれど、ろくな目に遭わされないであろう娼婦落ち召し使い落ちエンドはあり得るわ。

――――それならば。

「鶸、お前は外に……」
「離縁してください!!」
あれ、今漆鬼は『外に……』と言いかけなかったか?外に……何だろうか。しかしこのままここに居座っても私の破滅ルートは確実だ。私はこのままでは悪役妻として離縁されて捨てられる。破滅エンドまっさかさまだ。それならば先手を打つまでよ!

「は……?」
漆鬼が瞠目している。
そうよね……あなたも私ととっとと離縁してそこのヒロインちゃんとくっつきたかったわよね。でも残念……あなたの考えなんてお見通しなのよ!それなら自分から言ってやる!そして私の方からあなたの元を去ってやる!名前を変えて、家名を捨てて、違う土地で細々と働きながら生きるのよ。そんなにヒロインがよければ、あなたは好きにすればいい。そのヒロインとひたすらいちゃコラしなさいよ。

――――私があなたと結べなかった鬼の契りもヒロインとなら……結ぶんでしょう?
漆鬼の妻として迎えられながらも、鬼の契りを結んでもらうことはなかった。
鬼の契りを結べば人間でも鬼と同じ寿命で生きられる。しかしそれを選ぶ鬼は少ない。一時の繁殖のためだけの妻ならば、その必要もない。
私も漆鬼にとっては一時の繁殖のためだけの妻。いや……繁殖のためとしても必要とされなかったが。
夫婦の寝室だって別々、家庭ではすれ違い、夫婦としてらしいことのひとつもしていない。強いていえば形だけの祝言か。

「私、出ていかせてもらいます」
実家に帰らせてもらうのではない。あの妹が漆鬼を略奪しようとする時点でろくな実家ではないことは明らかでしょう?記憶を取り戻す前の鶸がひとりぼっちだったのだってそれが原因だ。頼る実家もなければ、頼る鬼もいない。
鶸にとっては自分を選んでくれた漆鬼が唯一だったのだ。そんな唯一が自ら私を捨てると言うのなら。

「さようなら。そしてお幸せに」
くるりと踵を返し歩き出す。しかし不意に私の掌を掴んだのは……漆鬼しかいない。鶫に醜いと散々バカにされた、痕の残る掌。あなたはそれを躊躇いもなく握るの……?
そして強い眼差しで見つめてくる。

「今のはどういうことだ」

「……どうもこうもっ!離縁です!離婚よ!夫婦やめるってことよ!そもそも夫婦ですらなかったと思うけど!?寝室だって別々だし、平気で不倫相手を家に上がらせるし、夫婦の時間だって取ってくれない!なら夫婦 ある必要なんてないじゃない!あなたはそこの不倫相手と仲宜しくやったらいかが!?私と離縁したのだから、とっとと結婚でも再婚でもしなさいよ。私はもう知らないわ!」
「ふ……不倫……っ!?何を……っ」
はぁ……?コイツ自分が不倫していたことも分からなかったの!?あからさまなヒロインチートね。ヒロインとの恋が燃え上がる弊害。それが浮気だとか不倫だとか言う常識的倫理観は雲に隠れたように焼失してしまう。

「不倫だなんてどうしてそんなひどいことが言えるの!?お姉さま……!私と漆鬼は本当に愛し合って……っ」
「だからそれが不倫だって言ってんでしょ!?アンタ、不倫の概念も知らないわけ!?」
「うええぇん、お姉さまがまた怒鳴るぅ……っ」
ど、怒鳴るのは悪いかもしれないけど……でもこっちにだって言いたいことがあるのよ!いつもいつも泣き落としで何とかなると思って……!?

しかしその時、鶫の隣の赤鬼が怒気をあらわにする。

「貴様……っ、また鶫に酷いことを……っ」
そんなにちちくりあいたいならあんたらもう結婚しちゃえば?いや、ダメか。鶫は鬼の長と言う最高権力としか結ばれないヒロイン体質。ヒロインの騎士(ナイト)役は除外されるんだったわ。

「紅」
しかしその時漆鬼の低い声が響き、紅がびくんと肩を震わせる。ふぅん……?鶫を虐めた意地悪な姉へのトドメは自分が刺すってか。
あからさまな王道ヒーローポジションね。おめでたいことで。

「鶸」
「……何ですの?もう離縁するのですから気軽に私の名前など呼ばないでいただけます?鬼の長殿」
私たちはもう何の関係もない他者(たにん)よ!

「……離縁など認めない」
は……?