呉服屋での用事を終わらせた頃には、空が真っ黒に染まり、ポツポツと雨が降り始めていた。呉服屋の店主に傘を借り、二人で入りながら元来た道を戻っていく。

「こんなに暗くちゃ、今何時か分からないな」
「もうすぐ夕刻よ。もみじもようやく起きてきたし」
「おいてめぇ、俺を時計代わりにすんじゃねえ」

 二人と一匹で言い合っている間にも、雨脚はどんどん強まっていった。先ほど賑わっていた通りからは人の姿が消え、商店も早々に店じまいを始めている。

 これでは茶屋に行く約束も白紙だろう。救われるような、悲しいような、ぐちゃぐちゃになった感情が、依道の中で渦巻いていた。

 そのとき激しい光と共に、轟音が轟いた。側で雷が落ちたのだ。

「ひゅ~、派手にやってるな」

 もみじが口笛を吹きながら雷鳴が轟いた方を眺めていた。

 雷は空の上にいる雷獣と呼ばれる妖怪が起こしていると言われている。それゆえ妖怪であるもみじは、何か感じるものがあるのだろう。けれど人間の依道たちにとっては、天候悪化の前触れである雷を呑気に見ていられる余裕はない。

「走ろう。これ以上雨が強くなられちゃ困る」
「そうね、珍しく同意だわ」

 清吾は傘を握りしめ、二人で賭けだそうとしたそのとき。前方から藍色の羽織を羽織った男が三人走ってきた。全員安倍家の陰陽師で、毎晩清吾とおつとめに同行している人たちだ。

「どうした」
「実は、その……」

 陰陽師の一人が清吾に何かを耳打ちする。途端に彼の顔が険しいものに変わっていった。そして依道に傘を押しつけ、自分は大雨の中に歩み出る。

「ちょ、何してるのよ」
「依道。悪いけど君は一人で帰って。僕は行かなきゃいけないみたいだから」

 清吾は表情のない冷たい顔で、依道を見つめていた。依道との間に、距離を置くように。

「……今の雷で雷獣が落ちてきたとか?」
「…………」

 無言で返されれば、こちらは肯定と取るよりほかない。依道は奥歯をかみしめながら、清吾に告げる。

「だったら私も連れて行って。地上に落ちた雷獣は危険よ。安倍の術でただ痛めつけるだけじゃ鎮まらないわ」
「駄目だ。なら尚更、君は戻って」
「どうしてよ。妖怪のことなら芦屋の方が詳しいって知ってるでしょ。安部の変な矜恃を気にしてる場合じゃないわ」
「違う……そうじゃない」
「なら、私が足手まといだから!?」

 感情のままに叫ぶと、清吾は一瞬眉間にしわを寄せて苦しげな顔になったが、すぐに依道へ背を向けた。それ以上の言葉を拒絶するかのように。

「いいから依道は早く帰って。――君たち、彼女を必ず屋敷まで連れて帰るように」
「承知しました」

 清吾の命令で、三人のうち二人が依道の両脇にやってくる。

 そして清吾は残りの一人と一緒に、雨の中を遠くに向かって駆けていく。

「清吾!」

 追いかけようとしたが、両脇の二人に腕を羽交い締めにされて動けなかった。

 傘が手から離れて地面に落ち、依道は途端に雨に濡れる。

「清吾……」

 両腕を拘束されたまま、依道は力なくうなだれる。濡れて寒いはずなのに、目元だけがじんわりと熱かった。頬を伝う滴が、雨かそれとも別のものか判別できない。

 やはり自分は清吾にとって、頼るにも値しない存在なのだ。いつものおつとめはおろか、こんな逼迫した状況の中でも協力させてくれないなんて。

 結婚したときの誓いに――清吾を支えるという思いに、ぴしりと大きな亀裂が入る。

「……諦めるのか?」

 引きずられるようにして安部の屋敷へ連れ戻される依道に、もみじが静かに問いかけてきた。答えられないでいると、彼はそのまま言葉を続ける。

「ほんっとにてめぇは、安部のクソ野郎と結婚してから急にしおらしくなっちまったよな」
「……仕方ないでしょ。もうあの人の妻なんだから」
「そうかぁ? 俺には人間のオスメスの事情は分かんねぇけどよ。てめぇは今までずっと、やりたいことをやってきただろ。んで、だからこそあいつと歴代一の犬猿の仲なんて言われるようになったんだろうが」
「そう、だったわね」

 でも結果、夫婦になった。望んだ形のものではなかったけれど。

「……本当に雷獣が落ちてきたなら、手負いの可能性が高い。傷を負ったあいつらは、容赦なく周囲を雷で飲み込む。過去に何人もの陰陽師が、それで命を失ってるんだ」

 芦屋の家に伝わる書物にも書いてあった。そして暴れる獣を鎮める一番の方法は、彼らの痛みの原因を取り除くことであるとも、依道は知っている。

「もしもあいつが雷獣にやられた時も、てめぇはそうやって仕方ないと泣くのかよ」
「それは……っ」

 それは違う。もしも清吾が雷獣の手にかかって命を落としたら、依道は自分が許せない。

 鎮める方法を知り、その手段を持っていたのに、清吾と共に戦わなかった自分を、きっと殺してしまいたくなる。自分のせいで好きな人を死なせてしまったと、ひどい後悔にさいなまれるだろう。

 そう、ならないためには。

「――っ」
「ははっ、やっとてめぇらしい顔になったじゃねぇか」

 もみじはからからと笑いながら、するりと依道の首元を抜けて宙に浮かんだ。

「てめぇの思うままにやりゃいいさ」
「そうね」

 唇に笑みを乗せると、うなだれていた身体に力が入った。清吾たちが消えていった方角を見据えながら、依道は従える者の名を呼ぶ。

「もみじ」
「あいよ!」

 途端に依道の周囲へ、青い狐火が現れた。

「うわっ!?」
「なんだっ!?」

 突然目の前に現れた炎に驚き、安倍家の陰陽師たちが依道の腕を放す。その隙を狙って、依道は勢いよく駆けだした。

「おい、待て!!」

 後ろで陰陽師たちが叫んでも、依道は当然のように止まらない。

 向かう先では巨大な閃光が、轟音と共に幾度も空と地面を繋いでいる。

 あの先で、きっと清吾が戦っている。

 行けば拒絶されるかもしれない。不要だと罵られるかもしれない。

 それでももう、依道に行かない理由はなかった。

 彼を支えるためでもなく。隣に並んで戦うでもなく。

 たとえ自分が傷つこうとも、清吾をこの手で守るために。