「なあ、依道」
「んー?」
「てめぇ、本当にいいのか? このままで」
「…………」
神妙な顔で見つめてくるもみじに、依道は筆を走らせながら沈黙する。
草木も寝静まる丑三つ時。依道はろうそくの明かりの下で、呪符作りをしていた。神の上に書いた文字は、安倍家に伝わる破邪の文だ。おつとめに出られない依道は、せめて清吾の役に立とうと、毎晩部屋に籠もって彼の使う呪符を書きためている。
「抜け出してもいいんだぜ? あいつはああ言ってたが、監視なんてどうとでもなる」
するすると首に巻き付いてきたもみじは、ちらりと部屋の端に目を向けた。目線の先には白い人形(ひとがた)が浮かんでいる。それは清吾が依道に付けた、監視用の式神だった。
「壊してもいいし、身代わりを作ってごまかしてもいい。俺の力がありゃ簡単だ。だからおつとめに行きたいならそう言えよ」
「壊しても身代わりでも、あの清吾にはバレるわ」
得意げなもみじに、依道は呪符をまた一枚書き終えながら答えた。今夜作った呪符は、既に文机の上で小さな山を作っている。
「けど多分、バレてもあいつにはどうもできねぇぞ。おつとめの最中帰ってくる訳にもいかねえだろうし」
「本人は来なくとも、使用人に伝令を飛ばすでしょう」
「けっ、使用人なんて。それくらい簡単に撒いてやるよ」
「できるとしても。大勢に追いかけられていたら、おつとめどころじゃないわ」
「そうかぁ?」
もみじは顔をこてんと横に倒した。その頭を依道は軽く撫でてから、また一枚と呪符を完成させる。
正直、彼の言い分はもっともだ。おつとめに出たいのなら、監視の目も気にせず抜け出してしまえばいい。もみじがいれば追っ手が来ても安倍家の使用人程度ならなんとかなる。
なのにそれをしないのは、やはり清吾への気持ちなのだ。
迷惑をかけて幻滅されたくない。側に置いて貰えなくなるのは嫌だ。そんな感情がことごとく依道の邪魔をする。恋は盲目と言うが、依道にとっては足枷のようだった。
恋愛感情と自分の役目の間でせめぎ合い、苦肉の策で考えついたのが呪符の作成。それなら清吾の手を煩わせることなく彼を支えるという役目を果たせると、自分に言い聞かせながら毎夜机に向かっていた。
一枚。一枚。また一枚。
依道はただひたすらに呪符を書き続ける。呪符が積み重なるごとに、依道は迷う心を閉ざしていった。心の声も、周囲の音も、もみじの気配も、すべてが意識の外から外れていく。
それから何時間経っただろうか。ふわりと肩に温かいものが乗せられて、依道の意識が現実に戻る。
「また書いていたんだ」
呆れたような、微笑んでいるような。そんな声が依道の耳元で囁かれる。
ばっと後ろを振り返ると、いつの間にかそこには清吾が立っていた。おつとめから帰ってきて間もないのか、普段はきっちり整えている着物がわずかに乱れていた。着ていたはずの羽織は消えており、代わりに依道の肩へ着た覚えのない着物が一枚増えている。
気遣われて嬉しくなったが、普段の習慣のせいか依道の口から出てきたのは感謝ではなく憎まれ口だった。
「むっ、無断で入ってこないでよ」
「声もかけたし扉も叩いた」
「……もみじに怒られなかったの」
「あの狐なら、そこで寝てるよ」
清吾の指さす先で、もみじはすやすやと寝息を立てていた。依道が集中していて暇だったのだろう。依道は軽く頭に手を当てながら言葉を続ける。
「普通、返事がなかったら寝てるって思わない?」
「君は僕より先に寝ないでしょ。だから集中して聞こえてないんだろうって」
「そう……よくお分かりで」
「まあ、それなりに長く宿敵同士をやってるからね」
清吾は肩をすくめながらそう言うと、隣にかがみ込んだ。呪符の山から一枚を取り上げ、ろうそくの光に透かして眺めている。
「上出来だ。依道、呪符作りが上手くなってるんじゃない?」
「そうでしょう。他にやることもないんだもの」
「……そうだね。でも、お陰で助かってる」
ぽん、と清吾が、依道の頭に手を乗せる。そのまま彼は、子供のように頭をなで始めた。途端に依道の心臓が、胸の中で大きく震える。
「ち、ちょっと、子供扱いしないで」
「はは、ごめんごめん。撫でやすそうな頭だから、つい」
「…………」
キッと清吾をにらみつけても、彼はあっけらかんと笑っている。
四歳差という年のせいか、それとも最初の出会いのせいか。清吾は時折依道を子供扱いしてくる節がある。
食事の時の話を思い出し、清吾には追いつけないと言われているようで悔しさが増す。けれどもそれとは別に、思い人に甘やかされて喜ぶ心があるのだから、本当に自分はどうしようもない。
本心を悟られないように、依道は自分の身体を抱いて清吾を一層強くにらみつけた。すると彼は肩をすくめて、おもむろに立ち上がる。
「ま、キリのいいところで終わらせなよ。僕は寝所に行ってるから。羽織はそこまで持ってきて」
そう言い残し、彼は部屋から出て行った。
「はぁ……」
依道は脱力した後、肩にかけられた羽織の裾を握りしめる。羽織からは、菫の香りがした。昔から彼が使っている香の香り。今はそこへ、わずかに汗の香りが混ざっている。彼の香りに全身包まれて、まるで優しく抱きしめられているみたいだった。
その感覚を覚える度、依道の虚しさは増していく。
現実では、清吾が自分をこんな風に抱いたことはない。これからもきっと――ないのだろう。
「んー?」
「てめぇ、本当にいいのか? このままで」
「…………」
神妙な顔で見つめてくるもみじに、依道は筆を走らせながら沈黙する。
草木も寝静まる丑三つ時。依道はろうそくの明かりの下で、呪符作りをしていた。神の上に書いた文字は、安倍家に伝わる破邪の文だ。おつとめに出られない依道は、せめて清吾の役に立とうと、毎晩部屋に籠もって彼の使う呪符を書きためている。
「抜け出してもいいんだぜ? あいつはああ言ってたが、監視なんてどうとでもなる」
するすると首に巻き付いてきたもみじは、ちらりと部屋の端に目を向けた。目線の先には白い人形(ひとがた)が浮かんでいる。それは清吾が依道に付けた、監視用の式神だった。
「壊してもいいし、身代わりを作ってごまかしてもいい。俺の力がありゃ簡単だ。だからおつとめに行きたいならそう言えよ」
「壊しても身代わりでも、あの清吾にはバレるわ」
得意げなもみじに、依道は呪符をまた一枚書き終えながら答えた。今夜作った呪符は、既に文机の上で小さな山を作っている。
「けど多分、バレてもあいつにはどうもできねぇぞ。おつとめの最中帰ってくる訳にもいかねえだろうし」
「本人は来なくとも、使用人に伝令を飛ばすでしょう」
「けっ、使用人なんて。それくらい簡単に撒いてやるよ」
「できるとしても。大勢に追いかけられていたら、おつとめどころじゃないわ」
「そうかぁ?」
もみじは顔をこてんと横に倒した。その頭を依道は軽く撫でてから、また一枚と呪符を完成させる。
正直、彼の言い分はもっともだ。おつとめに出たいのなら、監視の目も気にせず抜け出してしまえばいい。もみじがいれば追っ手が来ても安倍家の使用人程度ならなんとかなる。
なのにそれをしないのは、やはり清吾への気持ちなのだ。
迷惑をかけて幻滅されたくない。側に置いて貰えなくなるのは嫌だ。そんな感情がことごとく依道の邪魔をする。恋は盲目と言うが、依道にとっては足枷のようだった。
恋愛感情と自分の役目の間でせめぎ合い、苦肉の策で考えついたのが呪符の作成。それなら清吾の手を煩わせることなく彼を支えるという役目を果たせると、自分に言い聞かせながら毎夜机に向かっていた。
一枚。一枚。また一枚。
依道はただひたすらに呪符を書き続ける。呪符が積み重なるごとに、依道は迷う心を閉ざしていった。心の声も、周囲の音も、もみじの気配も、すべてが意識の外から外れていく。
それから何時間経っただろうか。ふわりと肩に温かいものが乗せられて、依道の意識が現実に戻る。
「また書いていたんだ」
呆れたような、微笑んでいるような。そんな声が依道の耳元で囁かれる。
ばっと後ろを振り返ると、いつの間にかそこには清吾が立っていた。おつとめから帰ってきて間もないのか、普段はきっちり整えている着物がわずかに乱れていた。着ていたはずの羽織は消えており、代わりに依道の肩へ着た覚えのない着物が一枚増えている。
気遣われて嬉しくなったが、普段の習慣のせいか依道の口から出てきたのは感謝ではなく憎まれ口だった。
「むっ、無断で入ってこないでよ」
「声もかけたし扉も叩いた」
「……もみじに怒られなかったの」
「あの狐なら、そこで寝てるよ」
清吾の指さす先で、もみじはすやすやと寝息を立てていた。依道が集中していて暇だったのだろう。依道は軽く頭に手を当てながら言葉を続ける。
「普通、返事がなかったら寝てるって思わない?」
「君は僕より先に寝ないでしょ。だから集中して聞こえてないんだろうって」
「そう……よくお分かりで」
「まあ、それなりに長く宿敵同士をやってるからね」
清吾は肩をすくめながらそう言うと、隣にかがみ込んだ。呪符の山から一枚を取り上げ、ろうそくの光に透かして眺めている。
「上出来だ。依道、呪符作りが上手くなってるんじゃない?」
「そうでしょう。他にやることもないんだもの」
「……そうだね。でも、お陰で助かってる」
ぽん、と清吾が、依道の頭に手を乗せる。そのまま彼は、子供のように頭をなで始めた。途端に依道の心臓が、胸の中で大きく震える。
「ち、ちょっと、子供扱いしないで」
「はは、ごめんごめん。撫でやすそうな頭だから、つい」
「…………」
キッと清吾をにらみつけても、彼はあっけらかんと笑っている。
四歳差という年のせいか、それとも最初の出会いのせいか。清吾は時折依道を子供扱いしてくる節がある。
食事の時の話を思い出し、清吾には追いつけないと言われているようで悔しさが増す。けれどもそれとは別に、思い人に甘やかされて喜ぶ心があるのだから、本当に自分はどうしようもない。
本心を悟られないように、依道は自分の身体を抱いて清吾を一層強くにらみつけた。すると彼は肩をすくめて、おもむろに立ち上がる。
「ま、キリのいいところで終わらせなよ。僕は寝所に行ってるから。羽織はそこまで持ってきて」
そう言い残し、彼は部屋から出て行った。
「はぁ……」
依道は脱力した後、肩にかけられた羽織の裾を握りしめる。羽織からは、菫の香りがした。昔から彼が使っている香の香り。今はそこへ、わずかに汗の香りが混ざっている。彼の香りに全身包まれて、まるで優しく抱きしめられているみたいだった。
その感覚を覚える度、依道の虚しさは増していく。
現実では、清吾が自分をこんな風に抱いたことはない。これからもきっと――ないのだろう。