カラスの鳴き声に、依道はゆっくり目を開いた。
 縁側から差し込むのは、赤く染まった夕暮れの光。いつも通り、目覚めの時刻ぴったりだった。依道は布団から上体を起こし、軽く背伸びをする。すると枕元にあった毛玉がもぞもぞ動いて、ぴょんと肩に飛び乗ってきた。

「ようやくお目覚めかよ」
「ふふ。おはよう、もみじ」

 依道が微笑むと、もみじは管のように白く細長い身体でくるりと首に巻き付いてきた。

 彼は管狐という、依道の使役する妖怪だ。普段の生活から『おつとめ』に至るまで、ありとあらゆることを手伝ってくれる。といっても幼い頃から一緒にいるため、主従関係というより友達に近い感覚だったが。

 「んで、てめぇの旦那様はまだ起きねぇのか」
 「……そうみたいね」

 依道は布団の隣に立った白い衝立を横目に見る。その向こうからは、規則正しい寝息が聞こえてきた。どうやらそこにいる人物は、まだ深い眠りの底にいるらしい。

 とはいえさすがにそろそろ起こさなければ、『おつとめ』の時間に遅れてしまう。依道は首にもみじを巻き付けたまま、衝立の向こうをそろりと覗いた。

 若い男性が、安らかな顔で眠っていた。

 白い肌にほっそりした顎。形のいい鼻はやや高めで、どこか浮世離れしている。短く切りそろえられた髪は、女の自分がうらやましくなるほど艶めいていた。

 安倍清吾。歳は四つ上の二十四歳。二年前に『安倍家』の当主となり、さらには一月前に依道の夫になった人物である。

 清吾と依道は、いわゆる政略結婚だった。清吾の『安倍家』と依道の実家『芦屋家』は、どちらも妖怪退治を執り行う陰陽師の家だ。しかし『安倍家』が名家と呼ばれるのに対して、『芦屋家』は陰陽師の中でも邪道と蔑まれている。故に両家の仲は最悪で、先祖数十代に渡って長くいがみ合って来た。

 だが江戸が終わり明治に入って、陰陽寮も廃止され、時代は大きく変わっていった。故にそれに乗じて芦屋家との因縁に終止符を打とうと安倍家は考えたらしい。そこで執り行われたのが、清吾と依道の婚姻である。

 家柄故に自由な結婚ができるとは思っていなかった依道だが、清吾への嫁入りを知らされた時はさすがに動揺した。何故なら彼とは、昔から出会い頭で喧嘩になるような宿敵同士だったのである。

 歴代一の犬猿の仲と呼ばれる中での政略結婚に、希望も未来もあったものじゃない。それでも依道は決意を固め、清吾との結婚を了承した。だが夫を支えようと考えていた依道とは違って、清吾は依道を妻として扱うつもりはないようだった。その証拠の一つが、二人の寝所を隔てる衝立である。

 仲睦まじさの演出のために同室で寝てはいるが、最後の一線を越える気はないという意思表示なのだろう。そんな関係は当然のように使用人にばれており、陰でこそこそ芦屋の娘は愛されていないのだと悪口を囁かれている。人の機微に鈍感な清吾は気づいていないだろうけれど。

 なんだか無性に腹が立ってきて、依道は清吾の頬を軽く引っ張った。彼はうめき声を上げた後、眉間にしわを寄せながらうっすら目を開く。

「……痛い」
「寝坊よ、馬鹿」
「起き抜けに罵倒なんて、僕の妻は相変わらずだね……」

 口をへの字に曲げる清吾に、もみじが依道の首元へ巻き付いたまま憎まれ口を叩く。

「てめぇが起きねぇのが悪いんだろうが」

 すると清吾は余計に顔を歪め、もみじの身体をがしっと掴んだ。ぐえっと蛙が潰れたような声を上げるもみじを依道から剥がし、床にぺいっと放り投げる。

「ちょっと、もみじに何するのよ」
「そうだそうだ、暴力反対! これだから安倍家のクソ陰陽師は!」

 非難の目で睨みつけるも、清吾は全く悪びれもしない。

「君がその狐を寝所に連れてきているのが悪い」

 しれっとそう言って身体を起こし、さっさと衣服を着替え始めた。

「いつまでも狐と戯れてないで、依道も早く準備しなよ。そろそろ食事の時間だ」

 起こしてやったのは自分の方だが。そう言い返したくなるのをぐっとこらえて、依道も着替えに取りかかる。起きてすぐ口喧嘩なんて、それこそ使用人達の格好のネタだ。これ以上夫婦の溝を深めないためにも、激しい言い合いは避けなければならない。

 長い髪を一つに結んで紫の着物に着替え終わった頃には、清吾も灰の着物を着終わって、藍色の羽織を羽織った後だった。しっかり着物を着込んだ彼は、当主らしい威厳を放っている。

 彼と共に夕影の差す縁側の廊下へ出て通って、食事室へと向かう。空は茜色から紫に変わり、西の空には宵の明星が輝いていた。人々が帰路につくこの時間、妖怪は静かに活動を始める。故に妖怪退治を生業とする陰陽師の家も、彼らに合わせて生活していた。夕方目覚めて夜通し街を巡回し、異常に対処できるように。

 依道も結婚前は、誇りを持ってそのおつとめに付いていた。けれども今は、考えただけで憂鬱になってしまう。暗い気持ちを抱えて依道は清吾と共に食事室へ入った。

「おはようございます、旦那様、奥様」

 食事室に控えていた使用人達は、恭しく頭を下げる。けれどもその態度はあくまで主人である清吾に対するもの。元芦屋家の依道に浴びせられるのは冷ややかな目線だけだ。

 居心地の悪さを覚えながら、依道は用意されていた膳の前につく。今日の食事は米に味噌汁、焼き鮭に白和えだった。食事に嫌がらせをされていない分だけ、ありがたいのかもしれない。

 清吾に続いて手を合わせ、茶碗と箸を持ち上げる。無言の時間が始まった。鳴り響くのは、食器と箸が擦れる音。目の前の清吾も脇に控える使用人も、一切声を上げようとしない。

 安倍家に嫁いだ日から、食事の時間は常にこうだった。けれどもおしゃべりな両親と、にぎやかな弟妹達に囲まれて食事を取っていた依道にとっては、苦痛以外の何物でもない。

「ねえ、清吾」

 それでも沈黙の中、依道は口を開いた。今日こそ清吾に、言わなければならないことがある。

「何?」

 清吾と使用人たちの視線が一斉に集まり、身体がびくりと硬直する。けれど、怖じ気づいたままではいられない。

「その、わ、私たち、結婚してからひと月経ったじゃない?」
「そうだね。それが?」
「だ、だから……そろそろ私も、おつとめに行ってもいいかなって」

 結婚してから、清吾は決して妖怪退治のおつとめに依道を連れていこうとしなかった。陰陽師としての仕事も果たせず、妻として清吾を支える誓いも守れていない。故に結婚から一月たった今、依道は内心焦っていた。

「……却下」

 清吾は味噌汁を啜りながら、さも当然のように言い放った。

「最初に言ったでしょ。君がおつとめに出ることは許さない。ひと月だろうとふた月だろうとそれは同じだ」
「……っ」

 悔しさに唇の端を噛む。箸を握る手に力が入った。
 
「どうしてよ。私が芦屋家の生まれだから?」
「…………」
「あなたも妖怪と戦う為に妖怪を従えるなんて、恥ずかしいと思ってるの……?」

 芦屋家が他の陰陽師から蔑まれているのは、主に妖怪退治の方法に起因していた。安倍家など普通の陰陽師が呪符や神器を以て妖怪と戦うことに対し、芦屋家は妖怪と契約して彼らに自分の力を与え、敵の妖怪と代わりに戦ってもらう方法をとる。毒を以て毒を制すこの方法を芦屋家は誇りを持っているが、他の陰陽師は邪道だと忌み嫌っていた。

 とはいえ清吾は、依道がもみじたちと一緒に戦っていても蔑むようなことはしなかった。けれども結局、彼も他の安倍家と同じだったのだろうか。

 だが清吾は、茶碗を持ったままため息をついた。

「そういうことじゃない」
「じゃあなんでなのよ」
「怪我するから」
「は……?」

 怒りが静かに爆発した。

 妖怪退治で怪我をして足手まといになるから付いてくるな。

 つまりはそういう意味だろう。

「私の力を、信用してないわけ?」
「……はぁ」

 清吾は質問には答えず、再びため息をついてさっさと残りの米を掻き込んだ。そして丁寧に手を合わせると、衣服を整えながら席を立つ。

「……ともかく、おつとめに出るのは禁止。僕はもう出るけど、依道にはいつも通り監視は付けておくから。逃れられるとは思わないように」

 それだけ告げると、清吾はさっさと部屋を出て行ってしまう。

 取り残された依道は、一人力なくうつむいていた。おもむろに味噌汁の器を手に取り口を付けるも、すっかり冷え切ってしまっている。

「怪我をするから、ですって」
「芦屋はか弱いものねぇ。自分の力で戦えないのだから」

 くすくす、くすくす。使用人達の笑い声が、嫌に大きく耳に響く。

 確かに清吾には、何度か助けられたこともある。しかしそれは駆け出しの頃の話。口喧嘩するようになってからは実力差もほとんどないと思っていた。けれども清吾にとって、依道は今も昔も未熟なままなのだ。

 遠くで玄関の戸が開く音と、数人の足音がばらばらと響く。きっと清吾が部下を伴って、おつとめに出て行ったのだろう。依道は静かに箸を置き、逃げるように部屋へ戻っていく。

 ただただ、苦しくて、情けなかった。

 清吾の隣に並ぶ資格を貰えないことが。側で支える誓いを守れないことが。

 そして――その程度で深く傷ついてしまうほどに彼を想っている自分のことが。