頬に当たる風と、耳を抜ける旋律。目を閉じて心地よい音色に耳を澄ませる。
芯がしっかりしているのに、やわらかい音だ。
ピアノは本人の持つ音がよくわかる楽器だ。ピアノの質はもちろんだが、それだけじゃない。
ピアノの芯を押し、指先のなめらかな動きと強弱でいくらでも音色は変わる。いい音、というのは聴いただけでも思わず鳥肌が立つ。
彼の──音篠の音は軽やかで、ぽろぽろと水滴がこぼれていくように丸くて、優しい音をしている。まるで宝石が目の前で光っているみたいに、とてもきれいだ。
とくに、装飾音が美しい。崩れることなく一音一音しっかり押されているのに、流れるようにつながって、ぱらぱら、ぽろぽろ。
曲はラストに差し掛かり、転調して一気に華やかさを増す。ぐっと、音篠の音が大きくなった。
目を開ける。思わず息をのんだ。
音篠は、こちらを見てとても楽しそうに笑っていた。まるで、自分が音楽の一部になったように、それはもう、気持ちよさそうに鍵盤と向き合っていた。すでに立っているのに、またも鳥肌が立つ。
波が押し寄せるように次々と装飾音がつながって、押し寄せては、消えていく。
最後の一音が跳ねるように鳴って、やがて、わずかな余韻を残して、ふっと消えた。
きらりと、宝石が光ったような。これから物語がはじまるような、主題歌にふさわしい完璧な締め。
「どーだった?」
指先から音を離した音篠は、屈託のない笑みで問いかけてくる。この人懐っこさは、普段教室で見ているものと同じだ。
「すごく綺麗だった……ほんとうに」
これ以上、何が言えるというのだろう。音色も、仕草も、姿勢も、視線も、どれもが美しかった。体で演奏する、を体現するような彼の演奏に、思わず見惚れてしまったのは事実。
「何歳からピアノやってるの?」
「俺、母さんがピアノ講師だからさ、三歳からやらされてんだよなー」
「十四年間?」
「まぁ、そーゆーこと」
日常にピアノがあった人間だ。昔からやっているなら、彼の実力にも納得できる。鍵盤を押すのに、焦りが一切ない。細かな指先の動きも、一音も外すことなく鳴る鍵盤も、正しいのに決して機械的じゃない。
「ピアノ、楽しい?」
「楽しい!」
にかっと笑う彼が眩しい。好きなものを好きだと躊躇なく言える彼が、好きだけでここまでやり続けて実力を伴わせる彼が、それなのに自分からひけらかしたりしない彼が、眩しい。
今日、ここにくるまで、音篠はただのバカで考えなしな男だと思っていた。自信だけが百点で、気合いと根性で生きているようなひとだと思っていた。
こんなにきれいな音を持っているひとだなんて、知らなかったのだ。
「榊も弾いてみる?」
音篠が椅子をポンと叩いた。おいで、と手招きされる。
「……え、いや」
「榊、弾けそうだけどね。猫ふんじゃったとか」
猫ふんじゃった、猫ふんじゃった、と歌いながら弾き出す音篠。勝手にアレンジまで加えている。
にこにこと笑みを浮かべている音篠に導かれるように、促された椅子に座る。
音篠の演奏には、魔法のような力がある。廊下から音楽室に引き寄せられたように、今度は自然とピアノに近寄っていた。
「黒鍵を……ああ、この黒いところを結構使うんだけどね、」
演奏を止めた音篠が、熱心に指導してくれる。
「できれば、人差し指で押すんじゃなくて、こうやって手全体を鍵盤に乗せるようにして」
「うん」
「左手はファの右上の黒いとこにセットして」
ゆっくりと指に力を入れると、弱い音が音楽室に響いた。不安定に揺れている。
その音のまま、猫ふんじゃった、と弾いてみると、目を丸くした音篠が私の顔をのぞきこんでくる。ピアノの前に隣り合って座っているから、当然距離は近いわけで。それはわかっていたけれど、のぞきこまれると思いのほか近くなった音篠の顔に動揺してしまう。普段、まったくと言っていいほど異性との接触がないのだから、無理もない。
「あー……やってた?」
気まずそうに口許を歪ませた音篠の問いかけに、「ごめん」とうなずくと、「俺恥ずいやつじゃん」と彼は頭を掻いた。しばらくうなだれたように沈黙していたけれど、急に顔をあげて眉根にしわを寄せる。
「それならそうと、早く言えよなー」
「……なんでわかったの? 猫ふんじゃったって初心者でも結構弾ける人多いのに」
「そりゃ弾き方見ればわかるっつーの。ピアノ歴一四年なめんなよ?」
「なめてはないけど、」
ふはは、と笑った音篠の口から八重歯がのぞく。こんな試すような、だますようなことをしてしまったのに、さらっと流してくれた音篠の懐の広さに救われる。
「いまもやってんの?」
「ううん、中学の時にやめたの」
「結構やってた?」
「一応、小学生のときからやってた。ほら、ピアノやると頭よくなるとか言うじゃん、それで。まあ、ほんとかどうかわかんないんですけど」
「榊だけみれば立証されそうな説だけど、ここに一瞬で矛盾させる奴がいるからな。なんとも言えないな、それ」
一瞬で矛盾させる奴。まさかの自虐ネタに目を見張ると、「そんなまじに受け取んなよ、チョケだかんな?」とわけのわからないことを言われる。おそらくだけど、チョケという単語の用法は間違っている。
「榊、何でもできるのなー」
ふいにこぼされた言葉に、心臓を掴まれたような感覚になる。
違う。そんなんじゃない、私は。
何でもできるように努力していたのに、これだけは、唯一できなかった。私は、完璧でありたかったのに。
黙って首を横に振ると、「ん?」と首を傾げた音篠が顔を覗き込んでくる。バグった距離感に思わず身を引きそうになったけれど、なんとか堪えた。
「関係ない。音篠には」
音篠の眉が一瞬寄って、それから、む、と口をとがらせた彼は、「ふーん」と小さく言葉を洩らした。
「ま、言いたくないこともあるよな。言いたくなったら教えて、いつでも聞くし」
どんなに棘のある言い方をしても、まるごと包み込んでしまうような、丸い言葉を使ってくれる音篠に、胸の辺りが締め付けられたような感覚になる。
どうして、そんなふうに言うことができるんだろう。この瞬間で、音篠というひとりの人間を知りすぎて、脳が処理に落ち着いていないのかもしれない。もっと、もっと、と心が麻痺を起こしている。
「あ……あの、さ」
「ん?」
「いつもここで弾いてるんですか」
あー、と言葉を伸ばした音篠が、「てか、」と破顔する。ふにゃりと緩んだ頬。こんなふうに笑う人間に悪い人はいないんだろうな、となんの根拠もないのにそう思った。
「なんでときどき敬語?」
「だって話したことないから。友達?っていえるほどの親密度でもないし。かと言って全敬語は違和感だなと思って」
「もう友達でしょ。てか同クラってもれなくみんなお友達って認識だったけど」
「話したことなくても?」
「うん。だって同じ空気吸ってんじゃん」
とんだ暴論だ、と思うけれど、そういう考え方ができるから音篠はクラスの人気者なのであって、私みたいな人間が彼の思考も価値観も、到底理解できるわけもないか、と納得する。
「榊はここに何しにきたの?」
こてんと首を傾げて、音篠がたずねてくる。その瞬間、ようやく委員会のことを思い出して、慌てて椅子から立ち上がった。
「委員会、じゃあ、また」
そんな単語しか伝えられなかったことに後悔したのは、音楽室を飛び出して廊下を歩き出した頃だった。
──結局、質問の答え聞けなかった。
そんな小さな後悔が芽生えたけれど、それと同時に、また明日も行ってみよう、と好奇心にも似た何かが生まれる。
音篠瞳利。バカで、調子者で、ムードメーカー。
それなのに、どうやら彼は、丸い言葉と丸い音色を扱うらしい。
芯がしっかりしているのに、やわらかい音だ。
ピアノは本人の持つ音がよくわかる楽器だ。ピアノの質はもちろんだが、それだけじゃない。
ピアノの芯を押し、指先のなめらかな動きと強弱でいくらでも音色は変わる。いい音、というのは聴いただけでも思わず鳥肌が立つ。
彼の──音篠の音は軽やかで、ぽろぽろと水滴がこぼれていくように丸くて、優しい音をしている。まるで宝石が目の前で光っているみたいに、とてもきれいだ。
とくに、装飾音が美しい。崩れることなく一音一音しっかり押されているのに、流れるようにつながって、ぱらぱら、ぽろぽろ。
曲はラストに差し掛かり、転調して一気に華やかさを増す。ぐっと、音篠の音が大きくなった。
目を開ける。思わず息をのんだ。
音篠は、こちらを見てとても楽しそうに笑っていた。まるで、自分が音楽の一部になったように、それはもう、気持ちよさそうに鍵盤と向き合っていた。すでに立っているのに、またも鳥肌が立つ。
波が押し寄せるように次々と装飾音がつながって、押し寄せては、消えていく。
最後の一音が跳ねるように鳴って、やがて、わずかな余韻を残して、ふっと消えた。
きらりと、宝石が光ったような。これから物語がはじまるような、主題歌にふさわしい完璧な締め。
「どーだった?」
指先から音を離した音篠は、屈託のない笑みで問いかけてくる。この人懐っこさは、普段教室で見ているものと同じだ。
「すごく綺麗だった……ほんとうに」
これ以上、何が言えるというのだろう。音色も、仕草も、姿勢も、視線も、どれもが美しかった。体で演奏する、を体現するような彼の演奏に、思わず見惚れてしまったのは事実。
「何歳からピアノやってるの?」
「俺、母さんがピアノ講師だからさ、三歳からやらされてんだよなー」
「十四年間?」
「まぁ、そーゆーこと」
日常にピアノがあった人間だ。昔からやっているなら、彼の実力にも納得できる。鍵盤を押すのに、焦りが一切ない。細かな指先の動きも、一音も外すことなく鳴る鍵盤も、正しいのに決して機械的じゃない。
「ピアノ、楽しい?」
「楽しい!」
にかっと笑う彼が眩しい。好きなものを好きだと躊躇なく言える彼が、好きだけでここまでやり続けて実力を伴わせる彼が、それなのに自分からひけらかしたりしない彼が、眩しい。
今日、ここにくるまで、音篠はただのバカで考えなしな男だと思っていた。自信だけが百点で、気合いと根性で生きているようなひとだと思っていた。
こんなにきれいな音を持っているひとだなんて、知らなかったのだ。
「榊も弾いてみる?」
音篠が椅子をポンと叩いた。おいで、と手招きされる。
「……え、いや」
「榊、弾けそうだけどね。猫ふんじゃったとか」
猫ふんじゃった、猫ふんじゃった、と歌いながら弾き出す音篠。勝手にアレンジまで加えている。
にこにこと笑みを浮かべている音篠に導かれるように、促された椅子に座る。
音篠の演奏には、魔法のような力がある。廊下から音楽室に引き寄せられたように、今度は自然とピアノに近寄っていた。
「黒鍵を……ああ、この黒いところを結構使うんだけどね、」
演奏を止めた音篠が、熱心に指導してくれる。
「できれば、人差し指で押すんじゃなくて、こうやって手全体を鍵盤に乗せるようにして」
「うん」
「左手はファの右上の黒いとこにセットして」
ゆっくりと指に力を入れると、弱い音が音楽室に響いた。不安定に揺れている。
その音のまま、猫ふんじゃった、と弾いてみると、目を丸くした音篠が私の顔をのぞきこんでくる。ピアノの前に隣り合って座っているから、当然距離は近いわけで。それはわかっていたけれど、のぞきこまれると思いのほか近くなった音篠の顔に動揺してしまう。普段、まったくと言っていいほど異性との接触がないのだから、無理もない。
「あー……やってた?」
気まずそうに口許を歪ませた音篠の問いかけに、「ごめん」とうなずくと、「俺恥ずいやつじゃん」と彼は頭を掻いた。しばらくうなだれたように沈黙していたけれど、急に顔をあげて眉根にしわを寄せる。
「それならそうと、早く言えよなー」
「……なんでわかったの? 猫ふんじゃったって初心者でも結構弾ける人多いのに」
「そりゃ弾き方見ればわかるっつーの。ピアノ歴一四年なめんなよ?」
「なめてはないけど、」
ふはは、と笑った音篠の口から八重歯がのぞく。こんな試すような、だますようなことをしてしまったのに、さらっと流してくれた音篠の懐の広さに救われる。
「いまもやってんの?」
「ううん、中学の時にやめたの」
「結構やってた?」
「一応、小学生のときからやってた。ほら、ピアノやると頭よくなるとか言うじゃん、それで。まあ、ほんとかどうかわかんないんですけど」
「榊だけみれば立証されそうな説だけど、ここに一瞬で矛盾させる奴がいるからな。なんとも言えないな、それ」
一瞬で矛盾させる奴。まさかの自虐ネタに目を見張ると、「そんなまじに受け取んなよ、チョケだかんな?」とわけのわからないことを言われる。おそらくだけど、チョケという単語の用法は間違っている。
「榊、何でもできるのなー」
ふいにこぼされた言葉に、心臓を掴まれたような感覚になる。
違う。そんなんじゃない、私は。
何でもできるように努力していたのに、これだけは、唯一できなかった。私は、完璧でありたかったのに。
黙って首を横に振ると、「ん?」と首を傾げた音篠が顔を覗き込んでくる。バグった距離感に思わず身を引きそうになったけれど、なんとか堪えた。
「関係ない。音篠には」
音篠の眉が一瞬寄って、それから、む、と口をとがらせた彼は、「ふーん」と小さく言葉を洩らした。
「ま、言いたくないこともあるよな。言いたくなったら教えて、いつでも聞くし」
どんなに棘のある言い方をしても、まるごと包み込んでしまうような、丸い言葉を使ってくれる音篠に、胸の辺りが締め付けられたような感覚になる。
どうして、そんなふうに言うことができるんだろう。この瞬間で、音篠というひとりの人間を知りすぎて、脳が処理に落ち着いていないのかもしれない。もっと、もっと、と心が麻痺を起こしている。
「あ……あの、さ」
「ん?」
「いつもここで弾いてるんですか」
あー、と言葉を伸ばした音篠が、「てか、」と破顔する。ふにゃりと緩んだ頬。こんなふうに笑う人間に悪い人はいないんだろうな、となんの根拠もないのにそう思った。
「なんでときどき敬語?」
「だって話したことないから。友達?っていえるほどの親密度でもないし。かと言って全敬語は違和感だなと思って」
「もう友達でしょ。てか同クラってもれなくみんなお友達って認識だったけど」
「話したことなくても?」
「うん。だって同じ空気吸ってんじゃん」
とんだ暴論だ、と思うけれど、そういう考え方ができるから音篠はクラスの人気者なのであって、私みたいな人間が彼の思考も価値観も、到底理解できるわけもないか、と納得する。
「榊はここに何しにきたの?」
こてんと首を傾げて、音篠がたずねてくる。その瞬間、ようやく委員会のことを思い出して、慌てて椅子から立ち上がった。
「委員会、じゃあ、また」
そんな単語しか伝えられなかったことに後悔したのは、音楽室を飛び出して廊下を歩き出した頃だった。
──結局、質問の答え聞けなかった。
そんな小さな後悔が芽生えたけれど、それと同時に、また明日も行ってみよう、と好奇心にも似た何かが生まれる。
音篠瞳利。バカで、調子者で、ムードメーカー。
それなのに、どうやら彼は、丸い言葉と丸い音色を扱うらしい。



