「先週の課題テストを返却する。出席順に取りにこーい」

 担任の一声で教室中が喧騒に包まれた。うぇー、やだーと声があがる。その中でも、とくに大きな声をあげている男が一人いた。
 彼は頭を抱えながら顔をしかめて、担任からテストを受け取る。
 「どーだった?」という友人の問いに「余裕で欠っててまじ勘弁!」と言いながら大笑いしていた。

────音篠(おとしの)瞳利(とうり)

 残念な学力にもかかわらず、たいして気にもしていなさそうだ。いつもと変わらずヘラヘラしている。
 鋭利な瞳、で瞳利。とうり、という響きもなかなか洒落ている。それなのに、彼は……少々、名前が勿体無い生き方をしている、ように見える。

「欠点の奴は冬休み中に補習があるから覚悟しとけよー」

 担任の呼びかけも音篠の耳には届いていない。すると息をついた担任が「おーい音篠、ちゃんと聞け。お前補習組だろが」と流れるように言った。名指しに対して「うぃーす」と適当な返事をする彼は、とても屈強な精神力をしていると思う。

 普通、名指しで補習だと言われたらこう、少しはへこむものじゃないのか。私だったら、あんな名指しをされたら耐えられない。
 それなのに、彼は強がっているわけではなさそうで、本当に気にしていないようだった。

「今回の最高点は93点。ちゃんと頑張ってる奴もいるんだからな。欠点組も見習え」

 斜め前に座っているユノンが振り返って「エリちゃんどうだった?」と聞いてくる。なんと答えていいか分からず曖昧にはにかむと「やっぱり一位なんだ。さすがだね」とにこにこしたユノンは前を向いた。
 答案に目を落とすと、漢字で多く減点されていた。漢字よりもワークに時間を割いたので仕方がない。とは分かっているけれど、漢字が全部合っていれば100点に限りなく近かったのに。

 音篠を見やると、すでにテストをしまった彼は、学校配布のタブレットでゲームを始めていた。懲りないやつだ、と思う。

 たった漢字を数問落としたくらいで悔しがっている自分が、なんだかバカらしく思えた。




 空気が、最近とても冷たい。かじかんだ手をこすり合わせる。
 ああ、そうだ。この感覚、あの瞬間に似ている。

 ヒュ、と喉奥が締まる。白黒の上に置いた指先が震えて、細かく震えだす。
 覚えている、あの感覚。

──まずい。
 ふ、と深呼吸をひとつ落とすと、幾分心は落ち着いた。

 冬休みの補習組は、こんなに寒いなか学校に来て、あんな狭い教室で課題をやらなければならないのか。そう思うと、なんだか不憫で少しだけ彼らに同情する。
 補習授業出席者の条件として、主要五科目のうち三つ以上欠点をとった者、と配布されたプリントには記載されていた。

 ふいに、音篠の顔が浮かぶ。補習だと言われても、へらへらしていた。信じられない。
 まぶしくなるような金髪頭で、髪の先がツンツンしている。校則は緩いとはいえ、いくらなんでもやりすぎだ。

 ピアスのひとつやふたつでもあいていそうな派手な見た目をしているけれど、この前「ピアスは痛いからヤダよ」と友人に話しているのをたまたま聞いてしまった。根性論でどうにかしそうなイメージがあったから、意外だと思った記憶がある。

 部活には所属していないと聞いている。勉強する時間などいくらでもあるはずなのに、いったい家で何をしているのだろうか。

……って、音篠のことなんて今はどうでもいい。
 頭を振って、脳内から音篠を消す。

 今は、ユノンの頼みごとをまっとうするのが最優先だ。ユノンは面談と委員会活動が被ってしまったらしく、私が委員会活動を引き受けたのだ。
 とはいっても会議をするわけではなく、この時期に流行りだす感染症の予防のため、消毒やマスクなどを倉庫まで取りに行く、といった簡単な業務内容だ。

『本当にありがとう、エリちゃん。今度ブラウニー作る予定だから持ってくるね!』

 お菓子づくりという素晴らしい趣味があるユノンはそう言ってふわりと笑った。今までも何度かおすそ分けしてもらったことがあるけれど、お店で出てきてもおかしくないほど、とんでもなく美味しいのだ。もしユノンが姉妹だったとして、毎日あんなにも美味しいものを作られたら、体型管理はとても困難だっただろう、と思う。食べるのを断るのは不可能に等しいから、運動量が今よりも激増していたはずだ。

 倉庫は校舎の三階にある。この棟は日当たりが悪く陰になっているため、余計に寒さが増している。
 はやく取りにいって、帰ってしまおう。早足で廊下を歩いていると、ふと、耳が小さな音を拾った。

 ポロポロ、キラキラ、そんな音だ。
 耳を澄ませると、たしかに聞こえる。

 高くて小さな音だけれど、たしかに鳴っている。


――――これは、ピアノだ。



 心臓が跳ねる。音が聞こえてくるほうへと足を進めると、音は当然のことながらどんどん大きくなってゆく。
 たどり着いたのは、音楽室だった。

 ドアにぴったりと耳をつけると、聞こえてきたのは最近流行っているドラマの主題歌だった。若手俳優二人がW主演の、恋愛ドラマだ。コミカルな部分が多かったけれど、泣けるポイントも多く、毎週水曜日はそのドラマの話題で持ちきりになるほど。
 もちろん私もユノンもそのうちの一人なのだけれど、私はストーリーよりも主題歌のほうを気に入っていて、毎週いいタイミングで流れるその曲を楽しみにしているのだ。

 ドラマには宝石がたくさん登場するため、主題歌もそれに伴ってキラキラ音がまるで宝石のようにちりばめられている。

 耳を澄ましていると、キラキラ音の部分が美しい装飾音として流れてくる。細かなタッチが連想される。
 装飾音は曲を華やかにするけれど、音の強さや軽さの調節が難しい。メロディーを邪魔する可能性もある。

 白黒の上で踊るように動く、繊細で長い指先を自然と思い浮かべる。
 これを弾いているのは、女性だろうか、男性だろうか。合唱部の人なのだろうか、それとも音楽科の先生だったり。

 一度考え出してしまうと、膨らんだ想像は止まらなかった。
 背伸びをして小窓から中を覗こうとしたけれど、置かれているホワイトボードが邪魔をして、肝心な演奏者が見えない。

 息を殺して、静かな動作で、ドアノブに手をかけた。気づかれないように音楽室の中に入る。
 まだピアノは鳴り続けている。どうやら、まだバレていなさそうだ。

 このまま誰が弾いているのかこっそり見て、すぐにここを出よう。たとえ気づかれたとしても、間違えたことにして飛び出してしまえば後ろ姿しか分からないはず。
 戦略を練って、そっとホワイトボードのかげからピアノをのぞいた時だった。


 視界に映ったのは、窓からの光を受けて輝く金髪。

 どく、と強い鼓動が一度、耳元で響いた。
 よろけた私の体は、ホワイトボードから完全にずれてしまう。おかげで、ピアノの前に座っている人物の顔が、はっきりと捉えられた。

「……っ、は」

 思わず声を洩らしてしまい、ピタリと音が止んだ。楽譜から視線を上げた彼と、目が合う。

 奇妙なまでの静寂だった。
 心臓の音が、どくんどくんと大きく鳴っている。彼の目が、す、と細まる。

(さかき)?」

 彼の口から、はじめて自分の名が呼ばれる。
 つい驚いてまごついてしまった。
 もごもごと、機能を失いかけている口を必死に動かす。

「……あ、ご、ごめんなさい。邪魔して。すごく素敵な音がすると思って、誰が弾いてるのかなって、それで」

 ぎゅ、と制服の裾を握る。心臓がものすごい勢いで脈打ち、カラダが熱くなる。
 音篠は、依然として黙ったままこちらを見ていた。ビー玉のように透き通っている目は、鋭いようでどこか優しい目をしていて、どこを見つめているのかもよくわからなかった。

「……し、失礼します。ごめんなさい、邪魔して」

 いつも心の中で彼のことを言いたい放題なのに、こうして対面すると、途端に声が小さくなる。凛とした瞳がまっすぐにこちらを見ていて、もったいない名前だなんて最低なことを思った自分を反省した。
 音楽室の扉に手をかけた時、後ろでガタッと椅子が動く音がした。

「待って」
「……え」
「行かないで、榊」

 思わず手が止まる。
 振り返ると、ピアノの横に音篠が立っていた。カーテンが揺れて、音篠の金髪頭に重なる。一瞬隠れて、すぐに現れた彼の顔に埋め込まれた濡羽色の宝石(ひとみ)が、まっすぐにこちらを見ていた。

 音篠瞳利。
 バカで、何考えてるかわからない能天気。クラスのムードメーカで、一生関わることなんてない人種。
 そう、思っていた。


 なのに、まさか。彼が。


「ずっと一人だったから嬉しいよ、榊が来てくれて。時間大丈夫だったらもう少しだけいてくんない?」


 ずっと向けられるはずのなかった声が、今、はじめて私だけに向けられている。音階を駆けあがるようになめらかに繋がる彼の声は、まっすぐに私の耳を抜けていく。


「ピアノ……上手なんですね」


 私の言葉に、音篠はゆっくりと瞬きをした。それから、教室では一度も見せたことがないような──私が見たことないような表情で、笑う。

「バレた?」



 その瞳の艶やかさに落ちてしまったのがはじまりだとしたら。

 ゆるやかな鼓動は、止まることを知らずにいつまでもテンポを刻み続ける。