──ぼくは茉莉花さんの事も母として愛していた。母さんの匂いだと、本能的にわかったんだ。本当にそういうつもりじゃなかった。そういうつもりじゃなかったんだ。男と女にしかなれなかったから、そうするしかなかっただけで。
でも違ったんだ。
先生はさぞ悲しんだだろう。
さぞ憎かっただろう。
でも、ぼくたちも苦しかったんだ。
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足萎えの狂女は能面を被っていた。
劣等とも言える施設環境の割に美しくつるんとした肌と見えたのは白く塗られた面であり、腕と足は骨や静脈が浮く程に細い。
腹だけが異様に膨れている。女の命を保つための臓器は、別の命に圧迫されている。卵を抱えた雌蜘蛛のようにアンバランスな姿態であった。
──彼女は何度も、何度も、何度も、愛するモノを産んだ。
そんな言葉が柳生ナミの頭に、泡のように浮かぶ。
ナミはいたたまれなくなって狂女から目を逸らした。しかしこの病室にほかに見るべきものはないのだ。だから恐る恐る、もう一度女を見た。
そこにいたのはもう妊婦ではなかった。
みごもって見えた胎はすらりとしている。
異常な空気がナミにおぞましい幻覚を見せていたのか。──それとも、この女はもう現の人の目に映るとおりの人間ではないのか。
女の名を根平ミナヱという。
「ナミちゃん」
女はナミの方を見ぬまま、正確に名を呼んだ。
上半身を起こして鉄格子を眺める狂女の髪は傷んで赤みがかっている。ナミが夢に見続ける女と似た色である。
「あなたも、私達と同じになったのでしょう。
──それなのにどうして堕ろしてしまったの?
女の子にとって、赤ちゃんって大切な授かり物よ。それに、堕胎って危ないわ。下手したら二度と子供が産めなくなってしまうと言うでしょう」
眠たげな甘い声はキヤカよりも一層若く聴こえる。童女のように弱々しい女だった。
面は別の患者が付けさせたものだという。
その患者は、
この女の顔が歪んで怖い──。
そう騒いだらしい。
骨の形が変わり、別の女のように見えると言った。
狂人の怯えようを医師は呆れて受け流したが、女はこの面をつけ続けた。
ゆうがおの宿の破れ車、やる方なきこそかなしけれ、と謡い、能の真似事をした。
これも田舎娘にはあり得ない教養だった。
ナミは怯えを隠して狂女を睨む。
「産める訳がないでしょう、私自身も何かもわからないモノなんて。……キヤカさんだって間に合っていればそうしていたはず。──ミナヱ、あなた、潤土の人間がそんなに憎いの? 憎いから呪うの?」
言いながらも、ナミはもう理解していた。
生きた人間ひとりの憎しみがあれだけの怪異に至るはずもない。単なる恨みつらみに絶大な力があるのなら、亜米利加は東京や広島のひとびとの祟りで滅んでいる。
だからナミの言葉は的外れなのだ。
女は微笑んで見える面越しに、冷たい怒りを滲ませた。
「的外れな事を言わないで。むしろ、あなたにした事は善意でしょう。……堕したりするべきではなかったわ。生まれる事のできなかったあなたの弟が、あと少しであなたのおなかに戻ってこれたのに」
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ぼくは憑依型の作家だった。
実を言えば、ぼくの書いた話にぼくの考えた内容は1つもない。頭の中に響く声に従ってものを書いているだけだ。
どれも、きっと本当ではない。本当にしか思えないけれど、僕が書いた時点で、きっと嘘になる。
ぼくは男の眼差しで女になりきった文を書く。女の言葉を奪い、男の筆で書く。それは概念的な女装でなくて何なのか。
神の子だから、とぼくの狂った来歴を知る人間はからかうけれど、どうだろう。
神の声は、男の声であるはずだ。
キリストもアッラーも仏陀も男だ。
けれど頭の中ではよく、女の集合体が喋り始める。ぼくはそれを「母さんの声だ」と思う。実際の母とは声も態度も全く違うのだが、とにかく母だと思う。
母の語るいろいろな話を書いた。
いつか生まれる弟たちが読むと思って書いた。
廃屋に忍び入ってから黒い柱を見始めた母。
愛人に堕胎させた屑のような父親を憎む母。
兄と交わり子を成すという願望を抱いた母。
息子を甦らせるため、この母を母にした母。
切支丹の娘であり、遭難した先で犯されぼくを産み落とす事なく死んだ母。
母にはありとあらゆる女としての生涯があり、ぼくはそれを神の託宣のように記す。
ぼくは女の虚構を書き続ける。
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「昔のやり方ではメ日无璽の神体を一家の家長が拾ってきていたの。盛遠という者などは死にかけの女を拾い、──女が切支丹の罪人だったものだから届け出もせず、逃げないよう足を切り落として使った。嬲って遊んだ」
あっさりと、女は説明する。
「バカな」
「そう、それが350年前の罪。皆、皆、馬鹿な事をした。男は皆同罪。女だって盛遠が何をしていたのかわかっていたでしょうに、ぜんぶ見ぬふりだもの……」
うっすらと歯を覗かせた笑みを浮かべた面。白目は金色に輝いている。泥眼だ。女は声を変える。夢と同じ女の声だった。髪はいっそう赤い。
「……子を孕んだ切支丹が、異教の神さまになった。それが私。そう。盛遠さまがいけなかったのだわ。私はまともな供養もされず、パライソにもゆけず」
「あなたは、根平《ねべら》ミナヱでしょう! 兄の死体を抱いて寝ていた頭のおかしい女……。あなたなんて!」
「いいえ、私はメ日无璽」
今のミナヱは歩けない。細い足は理由のわからないままに麻痺したそうだ。
──夢の女はどんな足だった?
「……昔の人は外の女と内の男が交わった事を何十人も死んだ災禍の原因だと思って、女が神を拾う仕組みを作った。けれど、違う。だって内の女にも子を孕むための袋はあるでしょう。内の女には神を選ぶ特権まで与えられた。私たちは、兄さんを神様にすることにしたの。惡日无璽とメ日无璽が交われば、新たな柱が生まれる。だから私、そうやって今までも何度もあの子を産んだわ。母さんと同じように産んだわ。黒い柱と交わり、黒い柱を産んだ。産んで。産んで。産んで。産んで。失敗する事のほうが、多かったけれど。けれど、柱は兄さんだから。柱を選ぶのは女だから……兄さんはいつも帰ってきてくれる」
──ミミの子も、キヤカの子も、夢の女が産めなかった息子だった。惡日无璽であった。ミナヱの兄もそうだったのかもしれない。
夢の女は何を望んでいるのだろう。弄ばれてできた子供でも、産みたいと願うものだろうか。他人の胎を借りてまで産みたがるものだろうか。
ナミにはわからない。
「何故、そこまでしたの?」
女は答えた。
「主も産めよ、殖せよと仰っているから。如何なる理由があっても罪なき生命の中絶は許されない」
「……」
「私はその生命を祝福する。私は繰り返しあの子と交わり、繰り返しあの子を産む。生まれなかったあの子と私は、何年かかっても潤土を滅ぼす。そして貶められた私は外の世界へ旅立って……マリア様になれるのね……」
女は、ミミの声を真似て言った。
子が流れて絶望に叩き落とされたナミの姉を、愚弄するように、そう言った。
「もういい。あなたとは何を話しても無駄。何言ってるのか訳がわっかんないのよ。キヤカさんと潤土を出るわ。こんな、けがらわしい──」
ナミは背を向ける。
女は、今度はキヤカの声で言った。
「安心して。さっきはあんな事を言っておどかしたけれどね、私達はマリア様なんですからね。あなただって子宮を摘出でもしなければ、父親を憎む限り永久に弟を産み直す事ができるでしょう」
その言葉に、ナミは──。
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この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。
(柳生柱弥『そして全ての終わりは海』)
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※20■■年現在、父子の生物学上の関係がDNA鑑定により否定される確率は64.3%にのぼり、日本人男性の平均寿命は34歳。街中には黒い柱が跋扈する。