私は、咄嗟に傘を手放す。
「ななな……何事……?!」
床に転がってもなお光り続ける傘から逃げるように、私はリビングへ退避する。
そして、ドアの陰から様子を窺うと……光はピカピカと明滅し、やがて消えた。
「…………」
警戒しながら、恐る恐る廊下を進み、傘を覗く。
が、そこにあったはずの傘はなく……
代わりに、大きな筆のようなものが転がっていた。
艶々した金色の持ち手。そこに、象形文字のような紋様が彫刻されている。先端の毛は、白馬の尾のようにふさふさとしていて太い。
傘程の長さもある巨大な筆に、私は少し前にテレビで視た書道パフォーマンスを思い出す。
大きな紙に、全身を使って書を認める、あれ。そうだ。ちょうどあれに使われるような大きさの筆だ。
……で? そんな特殊な筆が、どうしてここに?
というか、傘はどこへ?
まさか……
今の光と共に、あの傘が、この筆に変わっちゃったとか……?
私は、ぞっと身体を震わせる。
元カレがマジシャンだったなら、これも手品の道具だと納得できたのだが、残念ながらそのような事実はない。
となると……
これは、人智を超えた超常現象。
傘が筆に変わるなんて、昔ばなしにでもありそうな珍事だ。
つまり、私って今……妖怪か何に化かされている?
「…………!」
ぞわわっと鳥肌を立て、キッチンへ駆け込む。
そして鍋つかみをひったくると、軍手の上からそれを嵌め、玄関に戻り、
「……えいっ!」
軍手と鍋つかみで最大限防御した手で、謎の筆を掴んだ。
そのまま玄関を開け、外へ飛び出す。
時刻は朝九時前。ゴミ収集車が来るのにギリギリ間に合う時間だ。
一刻も早く、この不気味な筆を処分しなくては。
その一心で、私はマンションの階段を駆け下りた。
一階の正面玄関から外に出て、ゴミの集積所へ向かうと、ちょうど収集車が停車し、作業員さんがゴミを回収しているところだった。
よかった、間に合った……!
私は安堵し、作業員さんに声をかけようとする――が。
刹那、私の目の前を、黒い影が掠めた。
思わず目を瞑り、身を守るように手を掲げ……気付く。
その一瞬で、手元にあった筆が消えたことに。
周囲を見回すと、頭上を一羽のカラスが飛んでいた。
脚に、大きな筆を掴んでいるのが見える。どうやらあのカラスに奪われたらしい。
呆気に取られながらカラスを目で追うと……飛んで行った先に、自転車に乗った人物が一人、現れた。
若い男の子だった。大学生くらいだろうか。身に纏うのは水色のパーカーと藍色のジーンズ。茶色の短髪が風にサラサラと揺れている。爽やかな印象の、整った顔立ちをしていた。
そんな青年が、カラスの脚から離れた筆をパッと掴み、
「やっと見つけた……俺の『封字弥筆』……!」
声を震わせ、そう言った。
どうやらあの筆について知っているみたいだけど……それを尋ねる前に、私は言葉を失った。
何故なら、
「あの女が持ってたぜ。あいつが盗んだ犯人か?」
……と。
自転車のカゴに止まったカラスが、渋い声で喋ったから。
「えっ?!」
驚きのあまり声を上げると、青年がこちらに目を向け、自転車を押し近付いてきた。
「いや、筆に戻っているってことは、もしかして……」
何やら呟きながら、青年がまじまじと私を見つめる。近くで見るとますます美形で、私は思わず後退りした。
青年は、その綺麗な顔を真剣に引き締め、
「……この筆を元に戻してくれたのは、あなたですね?」
そう尋ねてきた。
私は混乱しつつも、なんとか言葉を探す。
「よ、よくわからないけど……捨てるために傘を分解していたら、突然筆になって……」
「やっぱり!」
青年は、ぱぁっと顔を輝かせ、
「あなたは『解』の言霊に選ばれた人! だから呪いを『解』くことができたんだ!」
という、訳のわからない言葉を口走った。
私は、自分でもわかるくらいに顔を顰める。言霊だとか呪いだとか……この子、もしかしてちょっとやばい人?
その不信感をさらに募らせるように、自転車に止まるカラスがまた喋る。
「なるほどな。この女の力があれば、本殿にかけられた『結』の呪いも解けるかもしれねぇ」
「おねえさん!」
困惑し、再び後退する私に、彼はずいっと身体を寄せて、
「俺、玉織空哉って言います。こっちはカラスのシロ。おねえさん、お名前は?」
「や、山河海花……です」
「海花さん。突然で申し訳ないのですが、一緒に来てもらえませんか? あなたの力をお借りしたいんです!」
「えぇっ?!」
一緒に行く、って……喋るカラスを連れた、怪しすぎる男の子と?
という私の動揺を察したのか、青年――空哉くんは真摯な態度でこう続ける。
「俺、隣町にある御玉神社で神主をやっています。悪霊化した言霊を封印することが、一族代々の使命です」
「あ、悪霊……」
「先代の神主だったじいちゃんが死んでから、俺がその使命を継いでいるのですが……封印を恐れた『結』の字の悪霊が、神社の境内に結界を張ってしまって」
真面目な顔で何を言うのかと思えば、随分と幻想じみた話だ。
やっぱり怪しい。けど、傘が筆になったりカラスが喋ったりと、既にファンタジーな事象が起こりまくっているため、とりあえず続きを聞くことにする。
「悪霊を封印するには、この『封字弥筆』が必要なんですが、『結』の悪霊に傘と結合されてしまい……元に戻す方法を探っていたところ、何者かにその傘を盗まれてしまったのです」
「……え?」
最後の言葉に、私は固まる。
「盗まれたって……あの黒い傘を?」
「はい。半年前、知人に助言を求めに居酒屋を訪れた時に失くしてしまって……たぶん雨が降ってきたタイミングだったので、誰かに盗まれたんだと思います」
「そのせいで結界が解けず、コイツは神社の敷地にある自分の家にも入れなくなったんだ。女、お前が盗んだんだろ? 素直に白状しろよ」
カラスに問い詰められ、私は……愕然とする。
半年前の、居酒屋。
それは、私と元カレが、初めて出会った場所。
……なんてこと。
あの黒い傘は、元々この空哉くんのもので……
元カレが、私と帰るために盗んだものだったのだ。
「…………」
私の中で、元カレへの怒りが沸々と湧いてくる。
俯く私を見て困っていると思ったのか、空哉くんがフォローするように言う。
「シロ、それはないよ。言霊は清廉な魂の持ち主しか寄り手に選ばないんだ。『解』の言霊に選ばれたこの人が盗みなんてするわけがない。ごめんなさい、海花さん。この筆を持っていたのには何か事情が……」
「……君は」
空哉くんの言葉を遮り、私は顔を上げ、
「君は、傘を盗まれたせいで……半年もお家に入れていないの?」
震えながら、尋ねる。
私の雰囲気に驚きながら、空哉くんが頷く。
「は、はい。境内に結界が張られて入れないので、神社の運営もできず……とりあえず日雇いのバイトで稼いで、野宿して生活しています」
野宿……
私は罪悪感に苛まれ、深く頭を下げる。
「ごめんなさい。傘を盗んだのは、たぶん私の元カレ。そうとは知らず、ずっとうちに置いていた」
「も、元カレ?」
「そう。盗んだ当人はもういないけど……代わりに謝罪させてください」
「詫びるってんなら一緒に神社へ来い。お前の『解』の力で結界を解いてくれ」
と、シロと呼ばれたカラスが横柄な声で言う。
「カイ?」と聞き返すと、空哉くんが代わりに答える。
「解放とか解くの『解』です。あなたは『解』の字の言霊に選ばれた"寄り手"という稀有な存在なんです」
「……へ?」
「言霊は清らかな魂を持つ者を好み、守護霊となってその人を護ります。だからこそあなたは、筆にかけられた結合の呪いを解くことができたんです」
私に、守護霊……?
思わず背後を確認するが、当然霊など見えるはずもない。
俄かには信じられないが……『解』という字を思い浮かべ、私はハッとなる。
もしかして、昔から解いたり分解したりするのが得意なのは、その守護霊のお陰だったとか……?
あぁもう。傘が筆になって、カラスが喋って、元カレが窃盗犯で、言霊が守護霊?
傘を捨てようとしただけなのに、こんな非現実的な状況に巻き込まれるだなんて……
「待って。少し話を――」
整理させて?
そう言おうとした私の言葉は、そこで止まる。
何故なら、急に視界が暗くなったから。
……否、暗くなったのではない。
景色から色が消え、モノクロに変わったのだ。
「な、なにこれ……!?」
目がおかしくなってしまったのかと狼狽えるが、どうやら空哉くんも同じらしい。焦った様子で周囲を見回している。
「これは、此岸と彼岸の境界……まさか……!」
空哉くんがバッと振り返る。
つられるように私も目を向け……すぐに、息を止めた。
黒よりも暗い、闇色の身体。
鋭い爪を持つ八本の脚。
ギラリと光る無数の目。恐ろしい牙。
……蜘蛛。
それも、見上げるほどに大きな蜘蛛が、街路樹の向こうから、音もなく現れた。