「視察?」
この日執務室へと行くと、宰相閣下が来ていて、ハロルドと話をしていた。そしてマリアローズに気づくと、宰相閣下が珍しく口元を綻ばせて、封筒をマリアローズに手渡しながら『視察へ行ってきて下さい』と伝えたのである。
「まぁ……氷の彫像展……?」
上手くイメージ出来なくて、マリアローズは封筒の中に入っていた招待状の文面を読んでみる。聖ヴェリタ教の神々の彫像が氷で作られているとある。
「我輩も家内と個人的に出かけたことがあるが、非常に緻密で見応えがあった」
宰相閣下の声に、マリアローズは大きく頷いた。
何故なのかハロルドは、宰相閣下に対し、首を傾げて頬杖をつき、複雑そうな眼差しを向けている。
「ハロルド、どうかしたの?」
「いや……別に……」
ハロルドの声が響き終わった時、宰相閣下が扉に振り返った。
「既に馬車は手配してある」
「早いな」
乾いた笑いを載せて、ハロルドが声を放った。しかし宰相閣下はどこ吹く風だ。
ハロルドはいつものように一番上の抽斗を開けて、視線を落としてから、ポケットに何かをしまっている。あの抽斗からなにかを取り出すのを、マリアローズは初めて見た。ハロルドはいつも眺めているだけだったからだ。
こうしてマリアローズとハロルドは、執務室を出た。並んでゆったりと、王宮の回廊を歩いていく。チラリとマリアローズは、ハロルドの手を見た。
手を繋いでみたい――と、一瞬思ったが、大勢の人々が歩いている王宮でそれを求める勇気は無い。こうして進み、正門を抜けると、雪道でも走る事が可能な魔導馬車が停まっていた。
「お手をどうぞ」
「ありがとうございます」
ハロルドにエスコートされて、マリアローズは馬車に乗り込んだ。
そしてゆっくりと走り出した馬車の窓から、雪に彩られた王都の街並みを見る。雪かきをしている人々が目立つ。他には聖夜に向けて、ところどころにリースがかかった家や店が見えた。聖夜は、この国ではリースを扉に飾るという風習がある。
到着した氷の彫像展の会場は、まばらに人がいた。本日は招待客のみに開放されているらしい。受付で招待状を見せると、王族の二人の姿に深々と頭を垂れられた。王族らしい笑顔を心がけて、マリアローズはハロルドの隣にいる。ハロルドもまた、上辺の完璧な笑みだ。
「本日はお招き下さり誠にありがとうございます」
「え? いえ? 宰相閣下が二枚欲しいと仰って……?」
受付の女性の声に、ハロルドが派手に咽せた。マリアローズは、よく分からなかったので、首を傾げる。
「もしかして宰相閣下は、激務の私達に休むようにと、暗に促して下さったのかしら? 厳しいけれど、優しいところもあるものね」
「……そ、そうだな。きっとそうだろう。そういう事にしておこう」
ハロルドはそう言うと歩き出した。慌ててマリアローズが追いつく。するとチラリと見おろすようにマリアローズを見たハロルドが、長めに瞬きをしてから、そっとマリアローズの手を握った。
「!」
願いが叶ったものだから、マリアローズは驚いた。
「随分と熱心に俺の手を見ていたから、こういう事かと思ったんだが?」
「えっ……別に?」
「そうか。まぁはぐれても困るからな。仕方がないから手を引いてやる」
「あ、あら? 迷子になるのは、ハロルド陛下ではなくて? 私こそ仕方がないから手を繋いで差し上げますわ」
二人はそんなやりとりをしつつ、恋人繋ぎをして、ゆっくりと歩く。
ギュッとハロルドが手に力を込めて握るから、マリアローズは内心では心拍数が上がってドキドキしっぱなしだった。
しばらく神々を象った氷の彫像を見てまわってから、二人は、奥に小さなベンチがある事に気がついた。
「少し休むか?」
「ええ」
頷いたマリアローズは、ハロルドの手を握り返しながらそちらへと進む。
そこには二人掛けのベンチがあって、周囲には青い氷で出来た薔薇が咲き誇っていた。蔦まで精巧に作られた氷の薔薇園は、幻想的で美しい。マリアローズは思わず見惚れた。
そうしていたら、ハロルドが咳払いをしたので、マリアローズが視線を向ける。
するとハロルドはちらっとマリアローズを見ては正面に向き直り、それからまたちらっとマリアローズを見て正面を向くという仕草を繰り返した。非常に何か言いたそうなのが伝わってくる。首を捻って、マリアローズは尋ねた。
「なにか?」
「ッ……――マリアローズ」
「なにかしら?」
「そ、の……そ、そろそろ、俺の告白への返事をくれないか? いい加減待ちくたびれたぞ」
僅かに頬を染めたハロルドの切実さが滲むような声音に、マリアローズはハッとした。そうだ、言おうと思っていたではないか、己の気持ちを――と、思い出した。いろいろな事件が重なりすぎて、若干忘れていた彼女は、唇を引き結ぶ。そして自身の頬も朱くなってきたのを自覚した。
「あ、の……そ、その……」
「ああ」
「……す」
「うん」
「好き……私も好き……です……」
あれほど愛情を伝えようと意気込んでいたはずなのに、いざ口にするとなったら、非常に小さな声になってしまい、マリアローズは悔しくなった。だからまだ繋いだままの手を引いて、その腕を引き寄せて、両腕で抱きしめる。するとビクリとしたハロルドは、マリアローズの方へと向き直り、空いている方の手で、マリアローズの頬に触れる。
「腕を放してくれ」
「嫌よ!」
「――角度的に、キスが出来ない」
ハロルドの声に、思いっきり動揺しながら、意図に気づいてマリアローズは手を離した。
そして震えながら目を丸くし、そうして瞬きをした。ド緊張状態で、マリアローズはじっと麗しい白雪王の顔を凝視する。ハロルドは、そんなマリアローズの頬に両手で触れた。そして顔を近づけると……パンと軽くマリアローズの頬を叩いた。そして呆れたように顔を離す。
「お前な、緊張しすぎだろ」
「だっ、だって」
「もういい。別に今唇を奪う必要も無いしな」
そう口にしたハロルドの耳と頬は、真っ赤だった。色が白いから、朱くなるとよく分かる。ハロルドはそれからまたちらっとマリアローズを見ると、片手で顔を覆った。嬉しさと驚きが綯い交ぜのような瞳が、指の合間から僅かに見える。
「マリアローズ」
「な、なにかしら?」
「言質は取ったからな。俺を好、好きだと、確かに聞いた」
「え、ええ」
「撤回はさせない」
「撤回なんかしないわ!」
マリアローズが元気で明るい声で告げると、驚いた顔をした後、再びハロルドが真っ赤になった。僅かに肩が震えている。寒いのだろうかと、マリアローズは考えた。ハロルドは手をポケットに入れている。
ハロルドがマリアローズの左手を持ち上げたのは、その時だった。
「俺と結婚して欲しい」
そう言うと、ハロルドは、なんと銀色の指輪を、マリアローズの左手の薬指にそっと嵌めた。左手の薬指は、婚約者あるいは夫婦が指輪をつける場所だ。恋人同士でも嵌めてはならないと聖ヴェリタ教で説かれている。破っている者も多いが。
その銀の感触が、奇妙なほど重く感じると同時に、どうしようもなく嬉しく愛おしいものに思えて、思わずマリアローズは右手で拳を握り、いい笑顔を浮かべた。
「喜んで!」
勢いのいい返事に、目に見えてハロルドが脱力したのが分かる。安堵した様子で首を左右に動かし、ハロルドは空を見上げている。
「いつでも渡せるように、一番上の抽斗に入れていたかいがあった」
その言葉を耳にしたマリアローズは嬉しさが極まっていて、そんなハロルドの肩に頭を預け、終始頬を緩ませていた。しばらくの間にこにこしていたマリアローズだったが、それからふと、思い出したように呟いた。
「だけど、どうしたらいいのかしら。私は貴方の継母なのよ? 母子婚は禁止されているわ? 勿論歴代の皇太后が、後宮に生まれた実の息子や義理の息子の正妃になった例はないし……」
根は真面目なマリアローズの声が、どんどん沈んでいく。
すると首を起こしたハロルドが、マリアローズの肩を抱き寄せた。
「血の繋がらない場合にかぎり、婚姻可能とするように王国法を変える。宰相閣下に相談する事とする」
「宰相閣下はなんて仰るかしら……厳格なお方だから、絶対反対なさると思うの。まさか私達がこういう仲だなんて想像もしておられないわ、きっと」
「……そうか? そ、そうだな、お前がそう言うなら、その可能性もゼロではないな」
このようにして、二人きりの氷の薔薇園でのひと時は流れていった。