「今回の旅は、少々僕にはスリリングだったな」
数日後、激しい運動はまだ難しいと医官は話していたが、立ち上がり歩行が可能になったクラウドは、王宮の正門前に停まる馬車の扉に触れていた。苦笑しているクラウドを見て、マリアローズは心配ではあったが、頑張って笑顔を浮かべた。
「もう帰ってしまうのが、寂しいけれど、旅のご無事を祈っております」
「ありがとうございます、マリアローズ皇太后陛下。ソニャンド帝国皇太子として、貴女の介抱と優しさに感謝致します。色々あったけどな……僕は楽しかった。また、マリアローズ皇太后陛下と桔梗の花を見たいと感じております」
「……え?」
マリアローズの笑みが引きつった。
「こ、皇太子……?」
「皇帝になる前に、もう一度くらい遊びに来たいものだよ」
クスクスと笑っているクラウドの姿に、マリアローズは気が遠くなりそうになった。皇太子だなんて聞いていなかったからだ。
「次は、外遊も兼ねて来てくれ」
「そう言うなよ、ハロルド陛下」
「冗談だ。いつでも歓迎します、クラウド殿下」
そう言うと口角を持ち上げて、ハロルド陛下が笑う。
「それと、窮鳥懐に入れば猟師も殺さずとはよく言うな」
「ああ、そうだな。僕は親友のハロルド陛下の頼みは無下にはしないさ」
クラウドは微笑し、空を見上げた。マリアローズもつられて見上げれば、白い鳥が飛んでいた。
「必ずその者の妹には、適切な治療を約束する。ハロルド陛下が優しい猟師だったと、僕は記憶しておくぞ。では、また」
クラウドは最後に喉で笑うと馬車に乗り込んだ。なんの話だろうかと、マリアローズは首を傾げる。走り出した馬車の車窓から、クラウドが手を振ったので、マリアローズは振りかえした。それからハロルド陛下を思わず睨む。
「聞いていなかったのですけれど?」
「何を?」
「とぼけないでください!! どうして次期皇帝陛下だと教えてくれなかったのですか!」
「お忍びだからな」
「そういう問題ではございません!」
「さて、仕事に戻るぞ。マリアローズ様は随分と歓談に忙しかったご様子で、大量の書類が山を築いているようだからな」
「……う」
こうして二人は、門から王宮の中へと入った。並んで歩きながら、執務室へと向かう。日常が戻ってきた事に、マリアローズは安堵しつつ、チラリとハロルド陛下を見た。
あの時――真っ先に守ってくれたハロルド陛下を思い出すと、胸がドキリとした。
これまではずっとどこかで、幼少時の出会いの印象が強く、まだまだ子供だと思っていたのだが、どうやら違ったらしいと考える。格好良く育ったのは間違いない。そこには顔だけではない一面もあったようだ。そう考えたら笑みがこみ上げてきたので、マリアローズは明るい気分で執務室に入った。
そして膨大な書類を見て、目が虚ろになった。
泣きながら書類をこなし、この日もハロルド陛下と嫌味の応酬をする。騒がしい執務室には万年筆の音が響く。ただ久しぶりだからなのか、辛いだけでもなく、少しだけ、本当に少しだけ、楽しくもあった。
「――と、いうわけなの」
後宮に帰ってから、正妃の間で夜更け、マリアローズは《魔法の鏡》に、一連の顛末を説明した。すると《魔法の鏡》が笑った。
『窮鳥懐に入れば猟師も殺さず、かぁ。マリアローズは、この意味を知っている?』
「え? 全然知らないわ。どういう意味なのか、分からなかったの」
『逃げ場を失くして追い詰められた鳥が懐に飛び込んできたら、猟師であっても殺すことはできないという諺なんだよ』
「どういう事?」
マリアローズが首を傾げると、《魔法の鏡》からは楽しげな空気が流れてきた。
『ハロルド陛下は、優しい猟師だったんでしょう?』
「ええ。そう話していたわ」
『きっと誰かを救ったんだよ』
「クラウドの事を助けたの!」
『そうだね。ただ、本当にそれだけかな?』
「……私の事も助けてくれたわ。それとも別の人のことかしら? 誰?」
『さぁね。ただ、やっぱり――世界で一番綺麗なのは、ハロルド陛下でございます』
確かに、あの時の険しくも真剣な瞳は綺麗でもあったなと考えながら、マリアローズは微笑し、この日は休むことに決めた。寝台に入り瞼を伏せると、ここ数日の楽しかった出来事と、最後にハロルド陛下の顔が思い浮かんできて、次の瞬間には眠りに落ちていた。
こうして、一つの事件が幕を下ろしたのである。
それは、マリアローズが十一歳の時の事だった。
この日もマリアローズは、ハロルドと遊んでいた。
「マリアローズは、最近あまり庭園に来ないね」
「ええ。淑女らしく刺繍をしているのよ」
「それで指が包帯だらけなんだ?」
「うっ……」
「どんな模様なの? 俺も見てみたいな」
気恥ずかしくなって指を隠しながら、マリアローズはハロルドを見た。最近のハロルドは、『ぼく』ではなく、『俺』と言うようになった。最初は違和感があったけれど、今はしっくりくる。
そんな事を考えていた時、マリアローズは白い仔猫を見つけた。迷い込んだらしい仔猫はフワフワの毛をしていたのに、撫でたら思ったよりも硬くてビックリした。
「可愛い」
「そうだね」
柔らかく笑ったハロルドは十三歳。
まだ背が伸びていない頃で、マリアローズは少し伸びたから、少しだけ低いくらいだった。マリアローズが仔猫を抱き上げようとすると、その猫は茂みの向こうに走って行ってしまった。そちらは後宮の敷地外――王宮だった。
「追いかけなきゃ!」
仔猫ともっと遊びたいという思いと、王宮への好奇心。
後宮から一度も出たことの無いマリアローズの提案に、ハロルドは目を丸くした。
「ダメだよ。出ちゃダメだって言われているよ?」
「こっそり! 秘密よ!」
「……マリアローズ、危ないから」
「どうして? ハロルド殿下は私を守ってくれるのでしょう?」
純粋な色を瞳に浮かべ、天真爛漫な笑みでマリアローズが言うと、ギュッと目を閉じたハロルドの頬に朱が差した。マリアローズはその時には既に茂みをかき分けていた。ハロルドがすぐに追いかけてきてくれたので、ちょっとした冒険に胸を躍らせつつも不安があった彼女はホッとした。
こうして二人は、後宮の外に出た。そこは王宮の裏庭に通じている場所で、切り立った崖が見えた。歩いていった二人は、仔猫がどんどん急な斜面の岩肌を登っていくのを確認する。
「危ないわ!」
「うん。帰ろう」
「違うわ! 猫が危ないのよ!」
マリアローズが走り出した。慌ててハロルドが手を伸ばす。しかしマリアローズの服を掠めただけで、手は届かなかった。マリアローズはそれには気づかず、仔猫を助けなければと走っていく。子供の足でなくても険しい坂道を登っていく。こうなってはマリアローズは止まらないだろうと判断して、ハロルドもまた走る。マリアローズは優しい。優しいあまりに、自分を省みない部分がある。
「よかった……」
マリアローズは、仔猫が戻ってきたので抱き上げる。そして両頬を持ち上げた。髪に飾ってある白いリボンが風で揺れている。その笑顔が誰よりも眩しく感じて、ハロルドが苦笑した、その時だった。
唸り声が響いてきた。焦って顔を上げ、そちらを見た二人は硬直した。
そこには魔狼がいたからだ。魔狼とは、狼の形をした魔力の塊だ。
めったに王宮に魔獣は出ない。だが時折、魔狼が現れる事があるのは、二人とも家庭教師の先生から習っていた。唾液を嚥下し、ハロルドがマリアローズの元へと向かう。マリアローズも後ずさり、それから踵を返して目を涙で潤ませながらハロルドの元へと走った。
「逃げるよ。大丈夫だから、俺がついてる」
ハロルドは、しっかりとマリアローズの片手を握り、音を立てないように気をつけながら、マリアローズを促して、すぐそばの入り口から、王宮の中へと入った。倉庫に続く裏口で、守衛もいない場所だった。ハロルドがたまたま探索して知っていた場所だ。
暗くほこりっぽい倉庫に入り、きつく戸を閉め、鍵をかける。
それから二人はホッと息をついた時、仔猫はニャァと鳴いた。気が抜けたマリアローズは座り込んで号泣する。仔猫は床におりると、影に隠れてしまった。
「マリアローズ、大丈夫。もう大丈夫だ」
安心させるようにハロルドが言った。それからポンポンと叩くようにマリアローズの頭を撫でた。涙で歪む視界で、マリアローズはハロルドを見上げる。そしてびっくりして、涙を拭いて、もう一度ハロルドを見た。ガクガクと震えている。
そこで初めてマリアローズは、ハロルドも怖かったのだと気がついた。
すると屈んだハロルドが、両腕でギュッとマリアローズを抱きしめた。
その腕もやはり震えていた。
だからマリアローズも腕をまわし返して、また涙を零しながらも言った。
「大丈夫よ! 私がついてるもの! だ、大丈夫よ!」
それを聞くとハロルドが驚いたような顔をしてから、にっこりと笑った。そしてゆっくりと瞬きをすると、頷いた。
「そうだね。ずっと俺のそばにいてくる?」
「ええ、いいわ。勿論よ!」
「約束だよ」
「そうね、約束」
マリアローズもまた泣きながら笑って頷いた。その後二人は、いつもは優しい国王陛下と正妃様に酷く怒られたものである。
――仔猫を追いかけた事もあったなと、懐かしい夢を見て目を覚ましたマリアローズは、すぐに夢の輪郭がぼやけ、消えてしまったと気づいた。夢とは不思議なもので、視ている時は現実感があるのだが、目を覚ますと忘れてしまうことが多い。
その後、マリアローズは天蓋付きの寝台から降りて、欠伸をしながら《魔法の鏡》の前に立った。
「鏡よ、鏡。この国で一番美しいのは誰?」
『それは、ハロルド陛下でございます』
今日も通常運転の鏡の言葉に、はぁと溜息をついて肩を落とす。
それから身支度をして、今日も今日とてマリアローズは、ハロルドの執務室へと向かう。昔は王宮への道は閉ざされていて遠く感じたのだが、今では慣れてしまった。
もうすぐ冬が来る。
そのため、現在は冬への備えが課題であるし、様々な検討をする事が急務だ。
改めてそう考えながら、執務室の扉をノックし、返事を待ってから中へと入る。
すると難しい顔をして、ハロルド陛下が一枚の紙を見ていた。
「どうかなさったの?」
「これを見てくれ」
ハロルド陛下がその紙を差し出したので、マリアローズは受け取る。そこには縦軸に魔石の産出量を記し、各鉱山ごとに並べた手書きの棒グラフがあった。
「すごいわ! こうすると、ひと目で何処の鉱山が多く採れたのか分かるわね」
画期的な案だと思い、マリアローズは笑顔を浮かべた。
するとハロルド陛下は呆れかえった顔をした。
「そこじゃない。マリアローズ様はお馬鹿さんなのか? そうだな? ああ、知っていた」
「な、なによ!」
「グラフが出した結果を見て欲しかったんだ、俺は」
そう言われて、それもそうだと思い直し、まじまじとマリアローズはグラフを見る。
結果、一カ所だけ極端に産出量が少ない鉱山があると分かった。
「ここ……少ないわね。去年の五百分の一しか採れていないみたい」
「そうなんだ。宰相閣下が調べろと言うから調べてみたら、結果がこれだ。マリアローズ様が楽しそうにクラウド殿下と庭でお喋りをしている間、俺はきちんと仕事をしていたものでな」
「そう。仕事をするのは当然なのだから、偉くもなんともないけれど」
それを聞いたハロルドは片眉を顰めてから、吐き捨てるように息をついた。
しかし気を取り直したように続ける。
「だが理由が分からない。そこで視察を検討している」
「良い案ね」
「ただ、理由の調査だとおおっぴらに公言するのは躊躇われる。従事しているのは、他種族のドワーフだ。あまり刺激したくない。ただでさえ、嘆願書が送られてきた件もある」
マリアローズは頷いた。宰相閣下と話した際の事を回想する。
その前で、ハロルド陛下が言葉を重ねる。
「そこで、近くに聖ヴェリタ教の大聖堂があるから、そこに礼拝に行くという名目で向かい、近隣にある鉱山も視察の一環で赴くという理由付けをする。本来、大聖堂には、貴婦人が寄付に行く。慈善事業を行うのは女性だ。そこでマリアローズ様に同行してもらいたい」
納得してマリアローズは大きく頷いた。
「ええ、構わないわよ」
このようにして、二人は視察に行くことに決まったのである。
二人は馬車に乗り、五日ほどかけて、聖ヴェリタ大聖堂がある叡神都市フロノスへと到着した。鉱山があるのは、この隣にある熱石都市アロンソだが、まずは偽装のお参りがある。いいや、そんな不純な気持ちで礼拝するわけにはいかないと思い直し、マリアローズはモノトーンの装いで、普段より露出の少ないドレスを身に纏っている。
ハロルドもまた、華美ではない装いだ。持参した衣装も同様だ。こちらは鉱山へ登る事を考え、軽装を用意してきた次第だ。
叡神都市フロノスは、中央に大聖堂があり、その周囲には迷路のような路地が広がっている丸い都市だ。多神教である聖ヴェリタ教では、万物に神が宿るとしていて、時間にもその一瞬一瞬に神がいると唱えている。そのため、時計を表す丸い形に都市を築いたのだと、マリアローズは家庭教師から習った事がある。
この教えはこのパラセレネ王国だけではなく、この王国があるアストラ大陸全土に広がっている。受け入れられやすいのには理由があって、数多の種族がいる大陸には、それぞれの神がいるのだが、全ての神を認めているおおらかさにより、次々と己の神も聖ヴェリタ教の一柱だと主張した種族が多かったのである。だが過去には異教徒に攻め入られた歴史もあるため、迷路のような街並みは、砦も兼ねていた頃の名残なのだという。
だが今では綺麗な景観に統一されており、目を惹く建造物が多い。
「ここね」
馬車が停止したので、マリアローズは車窓から宿を見上げた。
旅路が漸く終わったこの日は、ゆっくりと休むと決まっていた。
「お手どうぞ」
先に降りたハロルド陛下の手に、マリアローズがほっそりした指を載せる。するときゅっと握られた。
「な、なに?」
「別に」
しかしその手はすぐに離れたので、突然のことに動揺したマリアローズだったが、首を傾げたものの忘れることにした。騎士達が先に入り、並んでいる。侍従の一人が受付の前にいる。宿の支配人が出てきて、恭しく二人に腰を折った。それを一瞥し、ハロルド陛下が柔和に微笑む。
「お世話になります」
「勿体ないお言葉です、ハロルド陛下」
上辺の笑顔にすっかり騙されている支配人に、マリアローズは続いて挨拶をした。
それから二人は、支配人の案内で中へと入った。
階段を進んでいき、三階の豪奢な扉の前で立ち止まった支配人は、右手でその扉を示す。
「こちらです」
ハロルド陛下の部屋に先に来たのだろうかと思いながら、マリアローズは中を見る。ハロルド陛下は会釈をして中へと入った。中には、左右に巨大な寝台があった。部屋の中にベッドが二つだ。
「私もこちらのお部屋ですの?」
「ええ。当宿には、王族の方をお迎えできる部屋はここのみでございまして……街全体が質素をよしとしており……宿も当館だけなのでございます」
支配人が苦笑している。
それを見て頷き、マリアローズは中へと入った。そうして、硬直しているハロルド陛下を不審に思った。
「どうかしたのですか?」
「マリアローズ様は、どうかしないのか?」
「え? なにがでございますか?」
「つまり俺の事を微塵も意識していないというわけだな?」
「はい? どういう意味です?」
「いいや、特に意味は無い」
すると首を何度も振ってから、ハロルド陛下は左の壁際のベッドを見た。
「俺が左でいいか?」
「ええ、お好きになさって。それでは私は右を使います」
こうして位置も決まったので、二人は夕食の時間を告げた支配人が下がるというので見送った。そこへ侍従と侍女が荷物を運んできてくれた。受け取り、マリアローズは荷ほどきをする。中身は主に、寄付する品だ。
当初は飲食物を考えたのだが、聖ヴェリタ教は文字を民衆に教えている事を念頭に、マリアローズは筆記用具と紙を用意した。聖ヴェリタ教のおかげで、この国の識字率は比較的高い。貴族は家庭教師に習うのだが、平民の子供達は各都市や街・村にある教会や両親、仕事の師に文字を習う場合が非常に多い。
「喜んでくれるかしら」
口の中でそう音もなく呟いてから、何気なくマリアローズはハロルド陛下の方を見た。
するとベッドに座って腕を組み、俯いていた。
なにやら深刻そうな顔をしている。やはり、鉱山の事が心配なのだろうかと、マリアローズは考えた。
それからもマリアローズは寄付する品の確認を続ける。
ハロルド陛下の事は意識に無かった。
夜の七時になり、支配人が夕食の時間だと知らせに来た時になって、やっと思い出したほどだ。
「参りましょう」
「そうだな」
こうして二人は支配人の後に従い、絨毯が敷かれた白い廊下を進んだ。
階段を降りていき、二階のダイニングへと入る。
そこには様々な皿が並んでいた。一つずつ出てくる王宮とは異なる。礼儀作法はその土地により、多少の変化がある。王族はその全てをたたき込まれるので、特に困る事は無く、マリアローズはひかれた椅子に座り、ナプキンを膝の上に置いた。
「まぁ美味しそう」
目を惹くのは牛の香草焼きだった。
一口食べればハーブの良い香りと、檸檬の風味が口腔に広がる。頬がとろけそうだと思いながら、マリアローズは、優雅に食していく。所々に穴があいたミモレットも、柔らかな感触でとても美味だ。そのチーズが、特にお気に入りになった。白い栗のスープも絶品だった。じっくりと味わったマリアローズは、時折ハロルド陛下を見たのだけれど、上辺にこそ笑みを浮かべているのだが、いつもより口数が少ない。どこか表情も強ばっている。そこまで鉱山の件は深刻なのだろうかと、マリアローズまで不安になってくる。
こうして食後、二人は再びあてがわれた部屋へと戻った。
そしてマリアローズは入浴する事に決め、外に控えていた侍女を伴い、宿の大浴場へと向かう。貸し切りのその場で、乳白色のお湯に浸かっていると、旅の疲れが溶け出すようだった。体の芯から温まり、マリアローズは入浴を終える。そして薄手の夜衣に着替えて、部屋へと戻った。すると視線を向けてきたハロルド陛下が、息を詰めて震えた。
「おい」
「なんでございますの?」
「そ、その……ガウンでも着たらどうだ?」
「何故です?」
首を傾げつつ、マリアローズは自分のベッドへと向かう。二つのベッドはとても巨大なので、距離が近い。マリアローズはそこで、まとめていた髪をほどくと、繊細な細工の施された櫛で、長い髪を梳かす。左側に流しているから、白いうなじがよく見えた。首筋も肩もよく見える作りのドレスだ。マリアローズのお気に入りの一つである。ちょっと胸元が開きすぎかもしれないと考える事もあるが、着心地は悪くない。
髪を整えたので、櫛を置き、マリアローズはベッドに座り直した。
するとハロルド陛下も座っていたため、向き合う形となる。
ハロルド陛下は、何故なのか睨むようにマリアローズを凝視している。
「あの? 私何か致しました?」
「……率直に言うべきか? 言うべきだな。あのな……なんて言えばいいんだ……?」
「どうしたのです?」
言い淀むハロルド陛下など珍しい。やはりそれだけ鉱山の件は深刻に違いないと確信したマリアローズは身を乗り出した。その時、シーツを踏んだ。ずるりと滑り、そのまま真正面に倒れる。
「ばっ、馬鹿……!」
慌てたようにハロルド陛下が手を伸ばす。結果、床への激突は避けられた。代わりにハロルド陛下を下敷きにする形になったが、ハロルド陛下の体はベッドにぶつかったので無事である。
「ありがとうございます」
お互い無事でよかったと思いながら、ギュッとハロルド陛下の胸元の服を掴み、マリアローズは微笑した。
すると目を丸くして唇を震わせた直後、ハロルド陛下の両頬が朱くなった。至近距離、唇が触れあうほど近くにいたマリアローズは、はっきりとそれを見た。直後、目と目がバチリとあう。お互いの瞳にお互いが映るほどの距離だ。マリアローズは最初、状況が分からなかった。ただただ端正な青い瞳が自分を見ている事が分かっただけだった。
それから少しして――あっ、と、思った。
自分が現在、ハロルド陛下を押し倒している状態だと気づいたのである。その瞬間、カッとマリアローズの顔も真っ赤になった。するとハロルド陛下の頬はさらに朱くなる。真っ赤なままで、二人はお互い目を離せない。
暫くの間そうしていた時、時計が十時を告げた。そろって我に返り、マリアローズは向かって右に、ハロルド陛下は向かって左に、息もぴったりに顔を背けた。心拍数が酷い状態で、マリアローズは唾液を嚥下する。
「……あ、あの、そ、その、し、失礼致しました……」
「……そ、そうだな。ど、退け……」
「え、ええ!」
慌ててマリアローズは体を起こし、右側を向いたままで自分のベッドへと戻った。
ハロルド陛下は向かって左を向いたままで、ベッドに座り直す。
「ふ、風呂に行ってくる」
「い、いってらっしゃいませ。いい温泉でした」
逃げるようにハロルド陛下が部屋から出て行った。その姿が消えた瞬間力が抜けて、マリアローズはベッドの上でへたりこんだ。それからまだ煩い鼓動の音に、再び真っ赤になりながら、やり場の無い感情がこみ上げてきたので、右手でバシバシと枕を叩く。それから緊張と気恥ずかしさに襲われて、両手で顔を覆った。そうしながら寝転んで、頭を枕に預ける。
――これでは絶対に眠れない。
マリアローズは、ドクンドクンと騒ぐ胸の音に大混乱していた。
自分は女であり、あちらは男性であると、改めて認識した。
以前告げられたその言葉の意味が、漸く分かった心境だ。
「私は、どうかするべきだったんですわ。二人で同じ部屋は駄目だとお伝えするべきでした……」
真っ赤なままでギュッと目を閉じたマリアローズは――……その後すぐに熟睡した。馬車旅で疲れていたようだ。
翌日は、大聖堂への礼拝があるので、早起きをして外へと出た。
支配人に見送られて馬車に乗ってすぐに、マリアローズはチラリとハロルド陛下を見た。非常に眠そうな顔をしている。まるで徹夜で書類を片付けた翌日のような顔だ。
「眠れなかったのですか?」
「お前こそよく眠れたな。その図太さに、俺は感服している」
「きちんと寝ないとお肌に悪いですもの。皇太后たるもの常に美には気を遣わなければなりませんので」
そうは言いつつ、マリアローズも熟睡出来た自分を褒め称えていた。眠れたおかげで、気まずい夜は回避できた。
こうして向かった聖ヴェリタ大聖堂では、聖職者のヨシュア師が出迎えてくれた。老齢の男性で、白髪を後ろになでつけている。目元に優しい皺のあるヨシュア師は、穏やかな笑みを湛えて、二人を出迎えてくれた。
紺色の絨毯が、祭壇まで届くように敷かれていて、左右に木の椅子の列がある。
祭壇の脇には台があり、銀色の燭台がそれぞれに載っていて、火が灯っていた。
壁には左右にステンドグラスがあり、その正面には、聖ヴェリタの像と、五代前の国王陛下の像が置いてある。非常に広く、祭壇の前に歩いていくだけでも、宿の入り口から昨夜の部屋に行くよりも遠い。後ろから寄付する品を持った侍従達がついてくるのを首だけで振り返って確認しつつ、マリアローズは、ハロルド陛下の隣を進んだ。
前を歩くヨシュア師が祭壇の前で立ち止まり、一礼してから、奥にまわって、祭壇を挟んで向かい合う位置に立った。立ち止まった二人は、一段高い位置にいるヨシュア師を見る。聖職者に位はないので、王族よりも高い位置に立つことも許可されているので、教会や聖堂は皆、こういった造りだ。
「それでは、祝詞を」
ヨシュア師はそう言うと、厳かな声で祝詞を唱えはじめた。
二人は耳を傾ける。
八百万の神について説く聖典を、静かにヨシュア師が読み上げた。
「――ある時、悪の神が囁きました。その木の実を食べよと。疑うことを知らない無垢な神は赤い唇を開け、木の実を食べました。その木の実に宿る神が、苦い神だとは知らずに」
マリアローズは、家庭教師から聞いた聖典の解釈を想起する。
その木の実というのは、林檎の事らしい。そして苦いというのは、毒をさすのだったか。そう考えているとヨシュア師が続けた。
「目を伏せ、意識を闇に飲まれた無垢な神は、悪夢の神に苛まれる。だが無垢な神を慈しんできた光の神が口づけをすると、無垢な神の悪夢は終焉を迎え、二人は結ばれた。ただし、真実の愛がなければ、いくら口づけをしようとも、目覚めはしない。相思相愛の場合のみ、効力を発揮する――聖ヴェリタの福音書、第二章第三節」
祝詞を唱え終わると、ヨシュア師が微笑した。
「この祝詞は、前皇太后陛下がとても気に入ってくださった一節です」
それを聞き、マリアローズとハロルド陛下は顔を見合わせた。
「母上が?」
「ええ。年に一度は、この聖ヴェリタ大聖堂にお越し下さって、施しをなさって下さいました。お若くして亡くなられたのが、残念でなりません。今もこの大聖堂には、前皇太后陛下より賜ったこの銀の二つの燭台があるのです。一度も火を消すことは致しません。前皇太后陛下が安らかにお眠りになることを祈って」
それを耳にすると、マリアローズの胸が締め付けられた。親代わりのようだった己の前の正妃様――前皇太后陛下の事を思い出すと、いつだって心が苦しくなる。
「では今後は、私が参ります。私もまた、前皇太后陛下が安らかであるように祈り、前皇太后陛下のお心を継いで、出来るかぎりの施しをすると約束致しますわ」
「俺もまた、それに伴いましょう。母上のために……感謝致します」
偶発的に前皇太后陛下の軌跡に触れた二人は、その後は大聖堂の中を一時間ほど案内されてから、部屋を借りて、マリアローズ達は着替えた。そしてヨシュア師に見送られて外へと出た。寄付した品は、大層喜ばれた。
その後は街の視察をすると決まっていた。ただし、都市を治める伯爵の手を煩わせることがないように、また鉱山に行く際も騒ぎにならないよう、お忍びで行動すると決まっていた。マリアローズにとっては、初めての『お忍び』だ。大聖堂で平民風の服装に着替えてきた。ハロルド陛下は騎士の服を身に纏っていて、腰には剣がある。
「ねぇ? ハロルド陛下」
「呼び名で露見する。ハロルドで構わない」
「……ハロルド?」
そう呼ぶのは、随分と久しい気がした。なんだか擽ったい気持ちになりつつ、マリアローズは気を取り直して尋ねる。
「お忍びとは、どうすればいいのかしら?」
「街をブラブラ散策するだけだ」
「まぁ……私、王都以外の街は見たことがないのです。王都ですら、ほとんど見たことがないわ。前国王陛下は、私が幼かったから、公務に伴わなかったので」
なんだか楽しみだと考え、わくわくしながらマリアローズは周囲を見渡し、それから石畳の歩道の正面をしっかりと見て歩きはじめる。まるでいつか仔猫を見つけた時のような気分だった。あの時も確か、ハロルド陛下が一緒だったなと思い出す。
「あ」
少し歩くと、宝飾店があった。硝子の向こうに、いくつもの首飾りや指輪が飾られている。その中に、最近王宮の女性の間で流行している首飾りを見つけた。
「綺麗……」
「――王宮で、この五倍はする高級品をマリアローズは購入しているだろう」
「それは、そうだけれど……このように、お花のような首飾りはないわ」
「欲しいのか?」
「……いいえ。お金を持っていないもの」
マリアローズは俯いた。後宮では、全て周囲が手配してくれるため、金銭は持たない。仕事として維持費やドレス代の管理をする事はあっても、それは書類上のものだ。生まれてこの方、マリアローズはお金を持ったことがない。そもそも買い物をしたことも、後宮にくる商人が差し出す品から選ぶ以外ではしたことがない。支払いは侍女達がしてくれる。だがただ知識として、お金が必要だというのは分かっていた。この国の通貨であるガルド紙幣が必要である。
「入るぞ」
「え?」
「俺は当然持っている。財布の用意もなく外に出ることなどしない」
呆れたように言うと、ハロルド陛下が先に店内に入ってしまった。
慌ててマリアローズは追いかける。
「ハロルドも、実は首飾りが気になっていたの?」
「まぁな」
そう言うとハロルド陛下は、先程外から見えた硝子のところに立った。そこに飾られているのは、細い鎖の先に、ごく小さい秋桜のような花弁がついていて、中央に魔石が嵌まっている品だった。
「これか?」
「え、ええ……」
ハロルド陛下が指さした先を見て、小さくマリアローズは頷く。
「これに嵌まっている魔石の意味を、知っているか?」
「え? いいえ。どういう意味なの?」
「知らないならば、それでいい」
ハロルド陛下は振り返ると店主を呼んで、その首飾りを購入した。
「さっさと身につけたらどうだ?」
「え、あっ……宜しいの?」
「俺には不用な品だ。ありがたく思え」
いつもならばハロルド陛下の言葉は不遜に感じるのだが、今は心から嬉しくて笑顔でマリアローズは頷いた。すると焦ったような顔をしてから、ハロルド陛下が視線を揺らし、そのまま顔を背けた。
マリアローズが喜びながら花がモティーフの首飾りの鎖を首の後ろで留めた時、ハロルド陛下が言った。
「そろそろ行くぞ」
「ええ」
こうして二人は外へと戻った。
そして他の店の商品にあれやこれやと言い合ったり、道行く親子連れを眺めたりしながら、角を曲がって近くの森の方を見た。
「魔狼だー!」
すると叫び声が聞こえ、一人の青年が走って逃げてくるのが見えた。
瞬時にハロルド陛下の表情が真剣なものへと変わる。追いかけてくる魔狼は巨大で、マリアローズは凍り付いた。
「ここにいろ。絶対に動くな」
ハロルド陛下は正面を睨み付けたままそう言うと、腰の剣を引き抜きかけだした。唖然としてマリアローズが凝視する前で地を蹴り跳んだハロルド陛下は、迷いなく魔狼の首を剣で落とした。すると魔力の塊であるから、魔狼の頭部だったものも、胴体だったものも、黒い靄になって、空気に溶けて消えた。着地し、剣を一振りしたハロルド陛下は、今度はゆっくりと歩いて戻ってくる。
その姿に、マリアローズは肩から力が抜けた。怖かった。魔狼も怖かったが、ハロルド陛下にもしものことがあったらと、そちらの方が怖かった。だが悠然と歩いてきて己の前に立ったハロルド陛下に怯えは見えない。
――震えていない。
過去の記憶が甦り、マリアローズはぽつりと呟く。
「もう、震えないのね」
すると虚を突かれた顔をしてから、不意にハロルド陛下が柔らかな微笑を向けた。
「覚えていたのか」
「ええ」
「そうだな。もう俺は、震えることはない。強くなる努力をした」
ハロルド陛下に笑顔を向けられた瞬間、マリアローズの胸がドクンとした。
惹き付けられて、ハロルド陛下から目が離せなくなる。
「さて、そろそろ戻ろう。近衛達も心配していることだろうしな」
大切に、首飾りを握ったマリアローズは、購入した翌日――即ち本日、魔石の産出量が激減しているノック鉱山がある熱石都市アロンソに、ハロルド陛下と共に馬車で入った。
王国の西にあるこの都市は、魔石の産地として有名で、国内の魔石の八割が採掘されている。鉱山があるのは小高い山の上のため、二人とも身軽な格好だ。マリアローズは、スカート以外を穿くのが久しぶりだった。小さい頃に、一応乗馬の体験をした、その時以来の服装だ。ハロルド陛下と共に坂道を登っていくと、次第に息切れがし、汗で綺麗な髪が張り付きはじめた。それをハロルド陛下が一瞥する。
「少し休むぞ」
「え? え……ええ」
ありがたい申し出に、安堵の息を吐いてマリアローズは立ち止まる。
するとハロルド陛下が、ポケットから小瓶を取り出した。
「それは?」
「ラムネだ」
「ラムネ? 休憩のお菓子かしら?」
「違う。疲労を回復する効果がある。水を飲む前に食べておけ」
「わ、分かったわ」
受け取りマリアローズは素直に口に含む。すると塩味が少しと甘さがあって、奇妙なほど美味に感じた。それから渡された水で喉を癒やす。十分ほどそうして休んでから、二人は再び歩きはじめた。そして三十分ほどして、目的の鉱山の入り口へと到着した。
視察の件は事前に伝えてあったので、二人が出入り口の洞窟の前に立つと、一人の小さな老人が出てきた。ドワーフとは、人間よりも小型の種族だ。主に炭鉱や洞窟で魔石の採掘をして生計を立てている。この国は徒弟制度なので、ドワーフは全員が採掘に従事している。
「ようこそお越し下さいました」
額の汗を布で拭きながら、ドワーフの老人が言った。
「急な訪問にもかかわらず、受け入れて下さりありがとうございます」
にこやかな上辺の笑みは健在で、ハロルド陛下は余裕ある表情を浮かべている。
一方のマリアローズは疲れきっていたが、必死に姿勢を正して挨拶をした。
「では、中へご案内致します」
こうして連れられて進むと、採掘の現場にたどり着いた。洞窟の岩肌の至るところに、色とりどりの魔石が見え、暗がりの洞窟の中なのに光り輝いて見える。そのせいで、照明は不要な様子だ。その魔石を、鉱物ハンマーで叩いているドワーフが二人いた。どちらも目が死んでいるように思える。マリアローズはその虚ろな眼差しに覚えがあった。自分達が書類を倒す時にそっくりだ。
「計画書によると、従事者は七名のはずですが」
不思議そうにハロルド陛下が問いかけると、再び額の汗を拭き、ドワーフの老人が困った顔をした。丸い鼻の穴がピクピクと動いている。
「それが、その……」
「全員に話を伺いたいとお伝えしたはずですが」
ハロルド陛下の目が鋭くなった。口元だけに弧を貼り付けている。
「いやはや……ええと、ですな……」
しどろもどろになってしまったドワーフの老人に対し、マリアローズはハロルド陛下を一瞥してから問いかけることに決める。ハロルド陛下の言い方だと、責めているように聞こえたので、フォローするつもりだった。
「あの、何故この鉱山の魔石の産出量は減少したのでしょうか?」
マリアローズが努めて穏やかな声で尋ねると、僅かにホッとした顔をしてから、また鼻の穴をピクピクと動かしてから、ドワーフの老人が口を開いた。
「元々は、ええ、七人だったのですよ。だけどですな、そのですな……四人が辞めてしまったのです。ええ、はい」
それを聞いて、マリアローズとハロルド陛下は顔を見合わせた。
「どうして辞めたんだ? 一気に四人も辞めるなんて、異常では?」
ハロルド陛下の声に、困ったようにドワーフの老人がため息を零した。
「この鉱山の仕事が、激務だからでございます」
マリアローズは息を呑んだ。激務の辛さときつさは誰よりも知っているつもりだ。肉体労働は経験が無いが、仕事にはいつも苦労している。
「それだけではございません。また、ドワーフに産まれなかったら、他の仕事をしたかったそうで……」
切実さが滲む声音に、マリアローズとハロルド陛下は再び顔を見合わせる。
「今、ドワーフはこの件で真っ二つに割れております。ドワーフだからといって、厳しい採掘をしなければならないのはおかしいと述べ、この国を出奔すべきだと唱える者達と、ドワーフの人生をかけた生業は採掘だと主張する者達で……このようなことは前代未聞です。ドワーフは仲間との絆を大切にするというのに……いやはや、困りました」
ハロルド陛下は難しい顔で、顎に手を添えそれを聞いていた。マリアローズは、彼の逆の腕に触れる。するとハロルド陛下がマリアローズを横から見おろす。
「改善しましょう!」
「簡単に言うが、どうやって? 俺も今、宰相閣下が現在調査中の、嘆願書の理由も分かったことだから、解決できるならばしたい」
「それはこれから一緒に考えましょう、ハロルド陛下」
「――そうだな、持ち帰るか」
ハロルド陛下は頷いてから、じっとドワーフの老人を見据えた。
「国王として、必ず労働環境を改善する事を約束する。その方策が決定したら、連絡する」
「ありがたや、ありがたや……お願い致しますぞ」
するとドワーフの老人が深々と頭を下げた。
こうして視察は終了したのである。
「なるほど」
話を聞いたシュテルネン宰相が頷いたのを見て、ハロルドは対面する椅子の上で、長い脚を組んだ。気心が知れた相手であるから、姿勢を崩すことが多い。無表情のハロルドは、左手で右腕の肘を持ち、右手で頬杖をついている。
「国外にドワーフの半数が逸出する事は避けなければならんな。採掘をする者が減るからだけではない。国の有事だと余計な勘ぐりを生みかねない」
宰相の声に、顎を縦に動かしてから、思案するようにハロルドは天井を見上げる。
二人が話しているのは、宰相府にある宰相執務室の隣の簡単な応接間だ。壁には美しいフレスコ画が描かれている。満天の星空の下に立つ、聖ヴェリタとその妻の絵だ。
「宰相閣下。持ち帰りはしたが、どう思う?」
「マリアローズ様と共に考えるのだろう? それは陛下の仕事だと認識しているが? 我輩の仕事は、その決定を元に、物事を整えることだ。他には、抜け出す者がいないよう、国境沿いに監視網を引くという重要な仕事が増えたところだ」
冷淡な宰相閣下の声に、ハロルドは頷く。それからマリアローズの事を思い浮かべた。いつも奇抜な発想をする彼女ならば、なにか打開策をひらめき提案してくれる可能性は確かにある。だが――。
「あまり彼女を政務に関わらせたくないというのが本音だ」
「何故だ? ハロルド陛下は、望んで手伝わせているのだとばかり思っていたが」
「国の中核にいる要人になればなるほど、危険が伴う」
「それはそうだな。我輩も陛下も、常に暗殺の危機に晒されているのが実情だ」
宰相が右手の五本の指で口元から鼻にかけてを覆う。
「ああ。同感だ。そのような危機にマリアローズを巻き込みたくない」
「分からなくはない。彼女はか弱い麗人だ。あれでは手折るのは易いだろう。我々のようにありとあらゆる対策を講じているわけでもないのだから。そういえば昨日暗部から新しい防毒マスクを受け取ったが、陛下も受け取ったか?」
「ああ。魔法がかかった剣帯のポケットに収納している」
ハロルドはそう言うと腰元に視線を落とす。それを見て、宰相閣下は頷いた。
「だが、マリアローズ様の暗殺か。それに関しては、我輩に、一つ解決策があるが」
「なんだと? それはなんだ?」
「陛下が早くご成婚なされば解決だ。マリアローズ様は降嫁するにしろ、皇太后として残るにしろ、陛下と結婚しないかぎりは安全に過ごす事ができるだろう。正妃様がいるとなれば、マリアローズ様を害するメリットは激減するからな」
つらつらと当然のことのように宰相が語る。その言葉が事実だと、ハロルドは理解していた。だから耳が痛い。
「――俺と結婚するとしたならば?」
「ああ、その場合は、正妃として、今後はより深くまで関わって頂けるだろう。幼いお飾りの正妃としてではなく、今度は本物の、国王の隣に並び立つ正妃として、な。当然、危険に身を晒して頂くことにはなるが」
「それはありえない。俺は自分の妃は守り抜く。俺は自分の愛する者を、危機に晒す事は絶対にしない」
「心強い言葉だな。ならば早いご成婚を期待する。その相手が誰であっても、準備をするのは宰相府、即ち我輩だ」
そう答えた宰相は、ふと何かを思いついたように、斜め下を見た。
それからすぐに顔を上げる。
「話を戻すが、徒弟制度の廃止自体は、我輩はそう難しい事ではないと考えている」
「理由は?」
「学習は、師による必要が無いという前例がある。文字だ。この国の識字率は、大陸一だ。理由は聖ヴェリタ教の教会の存在だ。あれは、ひとところに平民の子を集め、一斉に学習させている。同様の事を、職業訓練でも可能なのではないか?」
「名案だな。マリアローズに提案しておく」
そう述べると、ハロルドは正面にあるカップを見た。とうに浸る紅茶は冷めている。話に夢中で、飲むのを忘れていた。だがそれをそのままに、ハロルドは立ち上がる。
「有益な時間だった。感謝するぞ、宰相閣下」
そうしてハロルドが出て行く背中を、宰相は一瞥する。
「前例は無いが、いつでも可能なように整備だけはしておくか」
その呟きを聞く者は誰もおらず、宙へと溶けて消えた。