次の日、約束通り昼すぎに乙彦が迎えに来た。ちょうど母親と青峰は不在だったが、乙彦はやはり中に入ろうとしない。
動きやすい服で来るように言われたので理由を尋ねると、これから山に登るらしい。
「山? 山って……、もしかして、この間、土砂崩れのあった?」
「今はもう安定しているから平気なのです」
そうはいっても危険なのではないかと思ったが、乙彦は構わず歩き出す。おいて行かれそうになり、小姫は仕方なくあとを追った。
川の上流に位置するその山には、ハイキングコースが設えられている。が、乙彦は早々にその道を外れた。けもの道だが、枯れ木や小さな岩がやたら落ちているくらいで、思ったほど荒れてはいない。崩れた場所も、記憶ではもっと奥の方だった。
「私の家も、この山にあるのです。今回は無事だったのですが、そろそろ潮時かもしれない。今後はおそらく、自然災害が頻繁に起きるようになる……。この山を守っていた岩の神も、とうとういなくなったから」
「え? それって――」
「この地を捨てたということなのです」
「え……」
それだけ言うと、乙彦は背中を向け、問いかけを拒否するように足を速めた。
うっそうと樹木の茂る山道を歩いていると、小姫の息が次第に上がってくる。急こう配の斜面では、見かねた乙彦が手を伸ばして引っ張り上げてくれた。しかし、そこをすぎると即座に、その手を離してしまう。
気のせいだろうか。昨日の午後から、乙彦に避けられているように感じる。
「……乙彦、私のこと嫌いでしょう?」
離された手を見つめながら問うと、乙彦は振り返らずに答えた。
「命の恩人を嫌うはずがないのです」
「それ、本当に私なの? 全然覚えてないんだけど」
「あの時は私だけでなく、ヒメも危ない目に遭ったのです。記憶がなくても仕方がないのです」
「危ない目って? 車に轢かれたこと?」
「――」
乙彦は探るように小姫の目を見つめたが、何も言わずにまた歩き出した。小姫はもやもやとした気分のままついていくしかない。
乙彦は確かな足取りで山道を進んでいく。草履なのに危なげなく歩けるのは、慣れているからか、はたまた妖怪だからなのか。
おかげで、時折、見失いそうになる。わざとおいて行こうとしているのではないかと何度も疑った。しかし、諦めて帰ろうとするたびに、木々の間や岩の影に乙彦の一部を見つけてしまうのだ。結局、小姫は足早に駆けよって、不安を募らせながらも彼の歩に合わせる努力をするより他はなかった。
やがて、周囲が明るくなってきた。
(……そろそろ、頂上かな……?)
小姫の足はもう、限界だった。運動不足がたたって膝が震えている。
少し先で待っていた乙彦が手を伸ばし、小姫の腕をつかんだ。力を入れて、一息に自分の隣に引き寄せる。
足下から突風が吹きつけてきた。小姫はとっさに髪の毛を抑える。
おそるおそる風の吹いてきた方角に目を向ければ、思わずのどから歓声がもれた。
「うわあ……!」
眼下には幾重にも連なる山肌が一望できた。それほど高くはない山だが、だからこそ、眼前に迫る木々や斜面の一つ一つが、手触りをもってそこに在ると感じる。
迫力に圧倒されてふらつくと、乙彦が背中に腕を回して支えてくれた。
「あ、ありがと……」
「……こっちなのです」
親切なのかと思いきや、またもすぐに手を離して踵を返した。小姫が横に並ぶのを待って、崖の下を扇子で指し示す。
「あそこに、白い花が見えるのです」
立ったまま真下に視線を向けるのはさすがに怖かった。小姫はしゃがんで、そっと前に体を傾ける。
一メートルほど下だろうか。白く透き通る蓮に似た花が、そよ風に揺れていた。
「あれは、岩の神の置き土産なのです。十年蓄えた妖力で咲く、一輪しか存在しない花……。あの花を使えば、私の力を頼ることなく、ヒメは体を維持できるのです」
乙彦はそう告げて、小姫をじっと見降ろした。扇子の影に口元を隠し、彼女の様子を観察している。
「あれが……」
小姫は吸い寄せられるように、這いつくばって右手を伸ばした。しかし、どんなに腕を伸ばしても、花のあるところまでは全然足りない。仕方なく、もう少し、もう少し、と徐々に身を乗り出していく。
ようやく、花弁に指先が触れた。岩を握る左手に力を込め、小姫はまた少し腕を伸ばす。そうやって、がく伝いになんとか茎をつかもうとしたその時――。
小姫を眺めていた乙彦の目に、酷薄な色が宿った。
「――きゃっ!?」
次の瞬間、支えにしていた左腕が消え失せた。バランスを崩した小姫の体は、空中に投げ出されてしまう。
崖から落下しながら、小姫は一縷の望みをかけて、乙彦の方へ右手を伸ばした。しかし、彼は助けるそぶりを見せるどころか、身動き一つしない。
(乙彦――……?)
絶望が、見つめる先の景色を白黒に塗り替えた。モノクロ写真のように静止した世界の中で、乙彦の口だけが動いて見えた。
――さ、よ、な、ら、と。
その映像を最後に、小姫は意識を手放した。
動きやすい服で来るように言われたので理由を尋ねると、これから山に登るらしい。
「山? 山って……、もしかして、この間、土砂崩れのあった?」
「今はもう安定しているから平気なのです」
そうはいっても危険なのではないかと思ったが、乙彦は構わず歩き出す。おいて行かれそうになり、小姫は仕方なくあとを追った。
川の上流に位置するその山には、ハイキングコースが設えられている。が、乙彦は早々にその道を外れた。けもの道だが、枯れ木や小さな岩がやたら落ちているくらいで、思ったほど荒れてはいない。崩れた場所も、記憶ではもっと奥の方だった。
「私の家も、この山にあるのです。今回は無事だったのですが、そろそろ潮時かもしれない。今後はおそらく、自然災害が頻繁に起きるようになる……。この山を守っていた岩の神も、とうとういなくなったから」
「え? それって――」
「この地を捨てたということなのです」
「え……」
それだけ言うと、乙彦は背中を向け、問いかけを拒否するように足を速めた。
うっそうと樹木の茂る山道を歩いていると、小姫の息が次第に上がってくる。急こう配の斜面では、見かねた乙彦が手を伸ばして引っ張り上げてくれた。しかし、そこをすぎると即座に、その手を離してしまう。
気のせいだろうか。昨日の午後から、乙彦に避けられているように感じる。
「……乙彦、私のこと嫌いでしょう?」
離された手を見つめながら問うと、乙彦は振り返らずに答えた。
「命の恩人を嫌うはずがないのです」
「それ、本当に私なの? 全然覚えてないんだけど」
「あの時は私だけでなく、ヒメも危ない目に遭ったのです。記憶がなくても仕方がないのです」
「危ない目って? 車に轢かれたこと?」
「――」
乙彦は探るように小姫の目を見つめたが、何も言わずにまた歩き出した。小姫はもやもやとした気分のままついていくしかない。
乙彦は確かな足取りで山道を進んでいく。草履なのに危なげなく歩けるのは、慣れているからか、はたまた妖怪だからなのか。
おかげで、時折、見失いそうになる。わざとおいて行こうとしているのではないかと何度も疑った。しかし、諦めて帰ろうとするたびに、木々の間や岩の影に乙彦の一部を見つけてしまうのだ。結局、小姫は足早に駆けよって、不安を募らせながらも彼の歩に合わせる努力をするより他はなかった。
やがて、周囲が明るくなってきた。
(……そろそろ、頂上かな……?)
小姫の足はもう、限界だった。運動不足がたたって膝が震えている。
少し先で待っていた乙彦が手を伸ばし、小姫の腕をつかんだ。力を入れて、一息に自分の隣に引き寄せる。
足下から突風が吹きつけてきた。小姫はとっさに髪の毛を抑える。
おそるおそる風の吹いてきた方角に目を向ければ、思わずのどから歓声がもれた。
「うわあ……!」
眼下には幾重にも連なる山肌が一望できた。それほど高くはない山だが、だからこそ、眼前に迫る木々や斜面の一つ一つが、手触りをもってそこに在ると感じる。
迫力に圧倒されてふらつくと、乙彦が背中に腕を回して支えてくれた。
「あ、ありがと……」
「……こっちなのです」
親切なのかと思いきや、またもすぐに手を離して踵を返した。小姫が横に並ぶのを待って、崖の下を扇子で指し示す。
「あそこに、白い花が見えるのです」
立ったまま真下に視線を向けるのはさすがに怖かった。小姫はしゃがんで、そっと前に体を傾ける。
一メートルほど下だろうか。白く透き通る蓮に似た花が、そよ風に揺れていた。
「あれは、岩の神の置き土産なのです。十年蓄えた妖力で咲く、一輪しか存在しない花……。あの花を使えば、私の力を頼ることなく、ヒメは体を維持できるのです」
乙彦はそう告げて、小姫をじっと見降ろした。扇子の影に口元を隠し、彼女の様子を観察している。
「あれが……」
小姫は吸い寄せられるように、這いつくばって右手を伸ばした。しかし、どんなに腕を伸ばしても、花のあるところまでは全然足りない。仕方なく、もう少し、もう少し、と徐々に身を乗り出していく。
ようやく、花弁に指先が触れた。岩を握る左手に力を込め、小姫はまた少し腕を伸ばす。そうやって、がく伝いになんとか茎をつかもうとしたその時――。
小姫を眺めていた乙彦の目に、酷薄な色が宿った。
「――きゃっ!?」
次の瞬間、支えにしていた左腕が消え失せた。バランスを崩した小姫の体は、空中に投げ出されてしまう。
崖から落下しながら、小姫は一縷の望みをかけて、乙彦の方へ右手を伸ばした。しかし、彼は助けるそぶりを見せるどころか、身動き一つしない。
(乙彦――……?)
絶望が、見つめる先の景色を白黒に塗り替えた。モノクロ写真のように静止した世界の中で、乙彦の口だけが動いて見えた。
――さ、よ、な、ら、と。
その映像を最後に、小姫は意識を手放した。