その日の帰り道のことだ。いつものように手をつないで川沿いを歩いていると、やおら、乙彦が足を止めた。何気ない素振りで扇子を川へ向ける。
すると、突如として水柱が激しく立ち上った。水しぶきを浴びた子どもたちが悲鳴を上げて、雲の子を散らすように逃げていく。
「お、乙彦!?」
妖怪お得意のいたずらか?
呆気に取られているうちに、乙彦はつないでいた手を離し、河原の方へ降りていく。小姫もあわてて後を追った。
先ほど水柱がたったそこには、小さな妖怪が残されていた。鼠のような外見をしており、体中傷だらけで泣いている。
「わ、ひどい……。どうしたの、これ……?」
「窮鼠なのです。最近はよくあることなのです」
乙彦は当たり前のことのようにすげなく言った。
思えば先日も、道すがら知らない子どもに石を投げられた。乙彦が素早く扇子で振り落としたのだが、いかにも日常茶飯事といった様子だった。母親もときおり愚痴る現状を、彼と過ごすこの数日間で小姫は痛切に感じていた。
乙彦が何度か撫ぜると傷が消えていき、窮鼠はしゃくりあげながら頭を下げた。
「助けていただいて、ありがとうございます。ただ、水浴びをしていただけなのに……」
「ただ生きているだけで迫害されるのが私達なのです。慣れるしかないのです」
乙彦は淡々とそれだけ言うと、あとは振り返りもせず土手を登っていく。
「ちょ……、ああもう、乙彦がごめんね! 今度何かあったら、私のお母さんに言って!」
乙彦に待ってくれる気配はない。小姫は眉を吊り上げて追いかけていき、急いで横に並んだ。
「乙彦! なんであんなこと言うのよ。慣れろなんてひどいじゃない」
「事実なのです。慣れなければ……、ここでは生きていけないのです」
その声がいつもより冷たく聞こえて、小姫は彼の顔を覗き込んだ。彼はすぐに笑みの形に目を細めたが、奥にくすぶる剣呑な光を隠しきれていないように見える。
そう言えば、石を振り払った時も、こんな目をしていなかったか。登下校中は手をつなぐ約束だが、手を伸ばしたら振り払われそうで、小姫は腕を背中に回した。
「――乙彦も、やっぱり人間が嫌いなの?」
今までになく冷え切った空気が耐えられず、小姫は思い切って口に出した。
妖怪と人間との間に横たわる大きな溝。そんなものが、目を凝らせば二人の間にもあるのかもしれない。
「……嫌いではないのです」
「それ、嘘でしょ」
「嘘ではないのです。妖怪は、人間とは違って明らかな嘘はつけないのです」
皮肉なのか、乙彦はそんな風に言うと、また小姫の手を取って歩き出した。歩みは速く、小姫は小走りでないとついていけない。乙彦の表情が見えないせいで話しかけることもできず、ただ黙って足を動かす。
「――ヒメの体、治す方法が他にもあるかもしれないのです」
乙彦がそんなことを口にしたのは、あと数分で家に着くというときだった。唐突な言葉に、小姫は驚きの声を上げる。
「え!? ほんと!?」
「本当なのです。知りたければ、明日の午後、ついてくるのです」
ただし、他の人には内緒で。
乙彦はそう付け足した。
明日は土曜で学校は休みだ。結婚しなくていい方法があるならば、知りたいに決まっている。
乙彦の意味深な言葉に、一瞬、あの噂が頭をよぎったが、小姫は文字通り首を振ってその考えを振り払った。
妖怪が言葉に縛られるのだとしたら、体を治す方法が他にあるというのは嘘ではないはず。誰が流したかもわからない噂に行動を制限されるなんて、ばかばかしい。
小姫は大きくうなずき、乙彦が目を細めてそれを見やる。
今日は家の中まで入らずに、乙彦は去って行った。おそらく、青峰に会いたくないからだろう。
冷たかったはずの乙彦の手なのに、離されるとむしろ、うす寒く感じた。
すると、突如として水柱が激しく立ち上った。水しぶきを浴びた子どもたちが悲鳴を上げて、雲の子を散らすように逃げていく。
「お、乙彦!?」
妖怪お得意のいたずらか?
呆気に取られているうちに、乙彦はつないでいた手を離し、河原の方へ降りていく。小姫もあわてて後を追った。
先ほど水柱がたったそこには、小さな妖怪が残されていた。鼠のような外見をしており、体中傷だらけで泣いている。
「わ、ひどい……。どうしたの、これ……?」
「窮鼠なのです。最近はよくあることなのです」
乙彦は当たり前のことのようにすげなく言った。
思えば先日も、道すがら知らない子どもに石を投げられた。乙彦が素早く扇子で振り落としたのだが、いかにも日常茶飯事といった様子だった。母親もときおり愚痴る現状を、彼と過ごすこの数日間で小姫は痛切に感じていた。
乙彦が何度か撫ぜると傷が消えていき、窮鼠はしゃくりあげながら頭を下げた。
「助けていただいて、ありがとうございます。ただ、水浴びをしていただけなのに……」
「ただ生きているだけで迫害されるのが私達なのです。慣れるしかないのです」
乙彦は淡々とそれだけ言うと、あとは振り返りもせず土手を登っていく。
「ちょ……、ああもう、乙彦がごめんね! 今度何かあったら、私のお母さんに言って!」
乙彦に待ってくれる気配はない。小姫は眉を吊り上げて追いかけていき、急いで横に並んだ。
「乙彦! なんであんなこと言うのよ。慣れろなんてひどいじゃない」
「事実なのです。慣れなければ……、ここでは生きていけないのです」
その声がいつもより冷たく聞こえて、小姫は彼の顔を覗き込んだ。彼はすぐに笑みの形に目を細めたが、奥にくすぶる剣呑な光を隠しきれていないように見える。
そう言えば、石を振り払った時も、こんな目をしていなかったか。登下校中は手をつなぐ約束だが、手を伸ばしたら振り払われそうで、小姫は腕を背中に回した。
「――乙彦も、やっぱり人間が嫌いなの?」
今までになく冷え切った空気が耐えられず、小姫は思い切って口に出した。
妖怪と人間との間に横たわる大きな溝。そんなものが、目を凝らせば二人の間にもあるのかもしれない。
「……嫌いではないのです」
「それ、嘘でしょ」
「嘘ではないのです。妖怪は、人間とは違って明らかな嘘はつけないのです」
皮肉なのか、乙彦はそんな風に言うと、また小姫の手を取って歩き出した。歩みは速く、小姫は小走りでないとついていけない。乙彦の表情が見えないせいで話しかけることもできず、ただ黙って足を動かす。
「――ヒメの体、治す方法が他にもあるかもしれないのです」
乙彦がそんなことを口にしたのは、あと数分で家に着くというときだった。唐突な言葉に、小姫は驚きの声を上げる。
「え!? ほんと!?」
「本当なのです。知りたければ、明日の午後、ついてくるのです」
ただし、他の人には内緒で。
乙彦はそう付け足した。
明日は土曜で学校は休みだ。結婚しなくていい方法があるならば、知りたいに決まっている。
乙彦の意味深な言葉に、一瞬、あの噂が頭をよぎったが、小姫は文字通り首を振ってその考えを振り払った。
妖怪が言葉に縛られるのだとしたら、体を治す方法が他にあるというのは嘘ではないはず。誰が流したかもわからない噂に行動を制限されるなんて、ばかばかしい。
小姫は大きくうなずき、乙彦が目を細めてそれを見やる。
今日は家の中まで入らずに、乙彦は去って行った。おそらく、青峰に会いたくないからだろう。
冷たかったはずの乙彦の手なのに、離されるとむしろ、うす寒く感じた。