その日の帰り道のことだ。いつものように手をつないで川沿いを歩いていると、やおら、乙彦が足を止めた。何気ない素振りで扇子を閉じ、それを川へ向ける。
そのとたん、電柱ほどの幅の水柱が激しく立ち上った。岸辺には子どもたちが集まっており、小姫がぽかんと口を開けている間に、水しぶきが直撃する。彼らも一瞬何が起こったのかわからない様子だったが、やがて悲鳴を上げると、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
「お、乙彦!?」
――妖怪お得意のいたずらか?
しかし、なぜ突然。
乙彦は小姫の疑問に答えるつもりはないらしい。つないでいた手を無言で離し、川原の方へ降りていく。仕方なく、小姫も慌てて彼の後を追った。
乙彦が立ち止まったのは、水柱がおさまったばかりの岸辺だった。濡れた地面に気を付けながら近づいていくと、草の影に、小さな白っぽい塊が見えた。鼠に似たそれは、子どもたちと同様、水浸しで、毛はぺったりと体に張り付いていたが、ところどころ血が滲み、頭には大きな傷があった。
「わ、ひどい……。どうしたの、これ……?」
おそらく妖怪なのだろう、つぶらな瞳からは涙がぽろぽろとこぼれている。思わず伸ばした手は乙彦にすげなく押し返され、小姫は戸惑ったまま彼の目を見つめた。
「窮鼠なのです。最近はよくあることなのです」
問いに答える乙彦の口調は平坦だった。当たり前のことのようにそう告げると、指でそっと窮鼠の身体を何度か撫ぜる。すると、触れたところから徐々に傷が癒えていった。
(え、すごい……!)
小姫は驚きで声をあげそうになったが、乙彦の繊細な手つきが声を出すのを躊躇わさせた。息を殺すようにして、治療が終わるのをじっと見守る。全ての傷が癒えると、窮鼠はしゃくりあげながら頭を下げた。
「助けていただいて、ありがとうございます。ただ水浴びをしていただけなのに、こんなことになってしまって……」
それを聞いても、乙彦は扇子で口元を隠したまま、ピクリとも表情を変えなかった。
「ただ生きているだけで迫害されるのが私達なのです。慣れるしかないのです」
むしろ厳しい口調でそう言うと、あとは振り返ることなく、土手を登っていく。
「ちょ……、ああもう、ごめんね! 今度何かあったら、私のお母さんに言って!」
思いがけない優しさに感心した直後にこれだ。
小姫は眉を吊り上げて彼を追いかけ、息を切らせながら隣に並んだ。
「乙彦! なんであんなこと言うのよ。慣れろなんてひどいじゃない」
「事実なのです。慣れなければ……、ここでは生きていけないのです」
「……っ、そんなことは――」
ない、とは言い切れず、小姫は口をつぐんで視線を落とした。
思えば先日も、道すがら知らない子どもに石を投げられた。乙彦が素早く扇子で叩き落としたからよかったものの、まともに当たっていたらどうなっていたか。
――妖怪と人間との間のいさかいが増えてきちゃって……。
いかにも日常茶飯事といった乙彦の様子に、胸の辺りがチクリと痛んだ。そんな小姫を見て、乙彦が付け加える。
「……今でも、子どもの頃は妖怪が見えることもあるのです。こうして人の姿をとっていても、どこか違和感があるのでしょう。妖怪について知る機会があれば別なのでしょうが、それについて教えられる大人はほとんどいない……、そのため、彼らは私たちを異物と判断し、排除しようとするのです。ちょっと変わった鼠。ちょっと変わった人間……。少しでも違うところのある存在を認めないのは、人間の性ですから」
(子どもの頃は、見える……)
そういえば、子どもの頃は、もっと妖怪が身近だったような。
少し引っ掛かりを覚えたが、小姫はそれ以上考えることなく、話の続きを待った。
「妖怪も、数が多い時は人間から恐れられたりもしていたのです。ですが、少数になった今、排除の対象となったのでしょう。……人間は、妖怪と共に暮らすことをやめたのです」
その声がいつもより冷たく聞こえて、小姫は思わず顔を上げた。冷たい、というよりも、刃のような声音だった。
何を考えているのか気になって、彼の目を覗き込む。乙彦はすぐに笑みの形に目を細めたが、奥にくすぶる剣呑な光を隠しきれていないように見えた。
あの時――、石を振り払った時も、こんな目をしていなかったか。
登下校中は手をつなぐ約束だが、今それを蒸し返しても拒絶されそうで、小姫は行き場のない手を背中に回した。
「――乙彦も、やっぱり人間が嫌いなの?」
冷え切った空気が耐えられず、ほぼ確信していたそんな問いを、思い切って口にする。
妖怪と人間との間に横たわる大きな溝。そんなものが、目を凝らせば二人の間にも見えるのかもしれない。
「……嫌いではないのです」
「それ、嘘でしょ」
「嘘ではないのです。妖怪は、人間とは違って明らかな嘘はつけないのです」
皮肉なのか、乙彦はそんな風に言うと、小姫の手を掴んで歩き出した。
一方的で、歩みが速い。これまでとは別人のような態度に戸惑いながら、小姫は小走りでついて行った。さっきまでは並んで歩いていたのに、今は乙彦の背中しか見えない。そこに壁を感じてしまったなら、ただ黙って足を動かすことしかできなかった。
「――ヒメの体、治す方法が他にもあるかもしれないのです」
乙彦がそんなことを口にしたのは、あと数分で家に着くというときだった。唐突な言葉に、小姫は驚きの声を上げる。
「えっ、ほんと!?」
「ええ。嘘はつけないと言ったでしょう? 知りたければ、明日の午後、私についてくるのです」
――ただし、他の人には内緒で。
乙彦はそう付け足した。
明日は土曜で学校は休みだ。結婚しなくていい方法があるならば、知りたいに決まっている。
乙彦の意味深な言葉に、一瞬、あの噂が頭をよぎったが、小姫は文字通り首を振ってその考えを振り払った。
妖怪が言葉に縛られるのだとしたら、体を治す方法が他にあるというのは嘘ではない。誰が流したかもわからない噂に左右されて、チャンスを棒に振るなんてばかばかしいことだ。
小姫は大きく頷き、乙彦が目を細めてそれを見やる。
今日は玄関にも入らず、乙彦は去って行った。おそらく、青峰に会いたくないからだろう。
彼の後姿が見えなくなると、小姫はそっと左手を持ち上げた。
冷たいはずの乙彦の手が、離されるとなぜか、うす寒く感じた。
そのとたん、電柱ほどの幅の水柱が激しく立ち上った。岸辺には子どもたちが集まっており、小姫がぽかんと口を開けている間に、水しぶきが直撃する。彼らも一瞬何が起こったのかわからない様子だったが、やがて悲鳴を上げると、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
「お、乙彦!?」
――妖怪お得意のいたずらか?
しかし、なぜ突然。
乙彦は小姫の疑問に答えるつもりはないらしい。つないでいた手を無言で離し、川原の方へ降りていく。仕方なく、小姫も慌てて彼の後を追った。
乙彦が立ち止まったのは、水柱がおさまったばかりの岸辺だった。濡れた地面に気を付けながら近づいていくと、草の影に、小さな白っぽい塊が見えた。鼠に似たそれは、子どもたちと同様、水浸しで、毛はぺったりと体に張り付いていたが、ところどころ血が滲み、頭には大きな傷があった。
「わ、ひどい……。どうしたの、これ……?」
おそらく妖怪なのだろう、つぶらな瞳からは涙がぽろぽろとこぼれている。思わず伸ばした手は乙彦にすげなく押し返され、小姫は戸惑ったまま彼の目を見つめた。
「窮鼠なのです。最近はよくあることなのです」
問いに答える乙彦の口調は平坦だった。当たり前のことのようにそう告げると、指でそっと窮鼠の身体を何度か撫ぜる。すると、触れたところから徐々に傷が癒えていった。
(え、すごい……!)
小姫は驚きで声をあげそうになったが、乙彦の繊細な手つきが声を出すのを躊躇わさせた。息を殺すようにして、治療が終わるのをじっと見守る。全ての傷が癒えると、窮鼠はしゃくりあげながら頭を下げた。
「助けていただいて、ありがとうございます。ただ水浴びをしていただけなのに、こんなことになってしまって……」
それを聞いても、乙彦は扇子で口元を隠したまま、ピクリとも表情を変えなかった。
「ただ生きているだけで迫害されるのが私達なのです。慣れるしかないのです」
むしろ厳しい口調でそう言うと、あとは振り返ることなく、土手を登っていく。
「ちょ……、ああもう、ごめんね! 今度何かあったら、私のお母さんに言って!」
思いがけない優しさに感心した直後にこれだ。
小姫は眉を吊り上げて彼を追いかけ、息を切らせながら隣に並んだ。
「乙彦! なんであんなこと言うのよ。慣れろなんてひどいじゃない」
「事実なのです。慣れなければ……、ここでは生きていけないのです」
「……っ、そんなことは――」
ない、とは言い切れず、小姫は口をつぐんで視線を落とした。
思えば先日も、道すがら知らない子どもに石を投げられた。乙彦が素早く扇子で叩き落としたからよかったものの、まともに当たっていたらどうなっていたか。
――妖怪と人間との間のいさかいが増えてきちゃって……。
いかにも日常茶飯事といった乙彦の様子に、胸の辺りがチクリと痛んだ。そんな小姫を見て、乙彦が付け加える。
「……今でも、子どもの頃は妖怪が見えることもあるのです。こうして人の姿をとっていても、どこか違和感があるのでしょう。妖怪について知る機会があれば別なのでしょうが、それについて教えられる大人はほとんどいない……、そのため、彼らは私たちを異物と判断し、排除しようとするのです。ちょっと変わった鼠。ちょっと変わった人間……。少しでも違うところのある存在を認めないのは、人間の性ですから」
(子どもの頃は、見える……)
そういえば、子どもの頃は、もっと妖怪が身近だったような。
少し引っ掛かりを覚えたが、小姫はそれ以上考えることなく、話の続きを待った。
「妖怪も、数が多い時は人間から恐れられたりもしていたのです。ですが、少数になった今、排除の対象となったのでしょう。……人間は、妖怪と共に暮らすことをやめたのです」
その声がいつもより冷たく聞こえて、小姫は思わず顔を上げた。冷たい、というよりも、刃のような声音だった。
何を考えているのか気になって、彼の目を覗き込む。乙彦はすぐに笑みの形に目を細めたが、奥にくすぶる剣呑な光を隠しきれていないように見えた。
あの時――、石を振り払った時も、こんな目をしていなかったか。
登下校中は手をつなぐ約束だが、今それを蒸し返しても拒絶されそうで、小姫は行き場のない手を背中に回した。
「――乙彦も、やっぱり人間が嫌いなの?」
冷え切った空気が耐えられず、ほぼ確信していたそんな問いを、思い切って口にする。
妖怪と人間との間に横たわる大きな溝。そんなものが、目を凝らせば二人の間にも見えるのかもしれない。
「……嫌いではないのです」
「それ、嘘でしょ」
「嘘ではないのです。妖怪は、人間とは違って明らかな嘘はつけないのです」
皮肉なのか、乙彦はそんな風に言うと、小姫の手を掴んで歩き出した。
一方的で、歩みが速い。これまでとは別人のような態度に戸惑いながら、小姫は小走りでついて行った。さっきまでは並んで歩いていたのに、今は乙彦の背中しか見えない。そこに壁を感じてしまったなら、ただ黙って足を動かすことしかできなかった。
「――ヒメの体、治す方法が他にもあるかもしれないのです」
乙彦がそんなことを口にしたのは、あと数分で家に着くというときだった。唐突な言葉に、小姫は驚きの声を上げる。
「えっ、ほんと!?」
「ええ。嘘はつけないと言ったでしょう? 知りたければ、明日の午後、私についてくるのです」
――ただし、他の人には内緒で。
乙彦はそう付け足した。
明日は土曜で学校は休みだ。結婚しなくていい方法があるならば、知りたいに決まっている。
乙彦の意味深な言葉に、一瞬、あの噂が頭をよぎったが、小姫は文字通り首を振ってその考えを振り払った。
妖怪が言葉に縛られるのだとしたら、体を治す方法が他にあるというのは嘘ではない。誰が流したかもわからない噂に左右されて、チャンスを棒に振るなんてばかばかしいことだ。
小姫は大きく頷き、乙彦が目を細めてそれを見やる。
今日は玄関にも入らず、乙彦は去って行った。おそらく、青峰に会いたくないからだろう。
彼の後姿が見えなくなると、小姫はそっと左手を持ち上げた。
冷たいはずの乙彦の手が、離されるとなぜか、うす寒く感じた。

