怪盗・紅鴉は、初めて黒田探偵事務所に現れた日から、毎晩のように姿を現すようになった。
 それはまるで、雄の鳥が惚れ込んだ雌の鳥に求愛に通うような光景である。
 しかし、葵はまったく嬉しくない。

「禁曲の演奏のために、あなたの舞が必要なのです」

「お帰りください」

 怪盗の誘惑をはねのけ、ときには無理に窓を閉めて追い返すときもあった。
 ある日、葵はある疑問を持つようになる。

「どうしてそこまで禁曲にこだわるのですか?」

 紅鴉はすでに禁曲の楽譜を所持しているのに、それを売却する様子も、それを盾に始音家を脅す様子もない。

 その疑問に、怪盗はあるヒントを提示した。

「まずは禁曲について調べてみるといいでしょう。あなたが思うほど、呪われた曲でもないかもしれませんよ?」

 そう言い残して、鴉は飛び去る。

 朝になって、黒田に話を報告した葵。

「ふむ、アイツがそういうのなら、なにか秘密があるんだろう。少し、調べてみるか」

 よく考えてみたら、葵も黒田も、禁曲についてほとんど知らない。
 ただ、「演奏してはいけない禁断の楽曲」という情報しかないのだ。

「うーむ、しかし……禁曲について知るには、まず始音家の歴史から知らないといけないだろう。カラスはどうやってそんなことを調べ上げたんだ?」

 探偵は顎に手をやり考え込む。
 始音家は警察にマークされるような家柄ではない。
 警察署で調べようにも手がかりなどほとんどないだろう。
 ふと、「あ」と葵が弾かれたように顔を上げた。

「なんだ、どうした」

「始音家の情報、あるかもしれません」

 葵は黒田の手を引く。

「始音家の所有する、演舞場に行ってみましょう!」

 ――そうして、二人は演舞場にやってきた。
 この舞台で、茜は見事な舞を見せていたのだ。
 かつて葵もここで踊り――そして、茜の差し向けた暴漢に襲撃され、足首を負傷したのである。
 演舞場の内部には始音家の歴史や神話などについての展示があり、入場料を払って見学することができる、いわゆる始音家専門の博物館だ。
 ここにわざわざお金を払って入ろうなどと、相当の始音家マニアくらいだが……。

 葵と黒田は、展示をひとつひとつ見ていき、やがて神話の展示に辿り着いた。
 ――始音家は代々、舞姫を輩出する家系だが、神話においては天候を操る神に、舞姫の舞が奉納されたと伝えられる。
 そして、神代の終わりに、この世界を去るとき、神は舞のお礼に禁曲の楽譜を授けたのだと……。
 その神話は、どうにも禁曲が『呪われた楽曲』という話とは程遠い、と葵は感じた。

「そういえば……そもそも、この禁曲は……」

 隣では名探偵がボソボソと何事かを呟いている。

「黒田さん?」

「葵さん、――紅鴉の誘いに乗ろう」

 葵は黒田の提案に目を大きく見開いた。

 その夜。
 再び探偵事務所に怪盗が現れた。

「怪盗さん。私、あなたのお誘いをお受けしようと思うわ」

「どうやら禁曲の秘密に気付いたようですね」

 紅鴉の言葉に、葵は頷く。

「とはいえ、黒田さんの推理なのだけれど」

「僕にもその演奏を聞かせてくれないだろうか」

 葵の部屋に、黒田が入ってくる。

「いいでしょう。ちょうど、この禁曲には演奏者が二人と、舞姫が一人必要でした」

 三人は演舞場に移動した。
 深夜の演舞場は誰もいなかったが、紅鴉が葵を横抱きして門を飛び越え、黒田もなんとか門をよじ登って侵入する。

「カラスよ、俺もそうやって連れてってくんねえかなあ」

「あいにく、男性を抱きかかえる趣味はないもので、申し訳ない」

 紅鴉の腕の中で、葵は顔を真赤にしていた。
 舞台に辿り着くと、三人は演奏の準備を始める。
 怪盗は三味線、探偵は横笛、葵は舞の担当だ。

「やっぱり、あのときの三味線使い、アンタだったか」

 黒田は紅鴉の三味線を見て、嬉しそうに笑った。
 楽器屋通りの広場で三味線を披露していた覆面演奏家、あの正体は怪盗だったのだ。

 探偵は渡された楽譜に目を通したあと、横笛に唇を押し当てた。

「いいか、少しでも演奏をしくじったら、この街は大変なことになるからな!」

「そちらこそ、どうかお気をつけて」

 怪盗が三味線を抱え、ベベン! とバチを当てる。
 それを合図に演奏が始まった。
 黒田の横笛と紅鴉の三味線の音色が絡み合い、複雑な協和音が演舞場の空間に鳴り響く。
 葵はその中で、我を忘れて踊り明かした。
 曲の間だけ、足首の痛みを忘れて踊っていられる。
 思えば、あの楽器屋通りで痛みもなく踊れたのは、怪盗が禁曲の一部だけを弾いてくれたからではなかろうか。そんな気がする。
 やがて、夜が明ける頃、演奏は終わった。
 葵は肩で大きく息をして、黒田が慌てて駆け寄ると、その胸にぽすんと収まる。

「これで楽譜は用済みです。もう必要ないのでお返しいたします」

 紅鴉は楽譜を置いて、姿を消してしまった。
 待って、と声を掛ける間もなかった。

 禁曲の真実。
 禁曲の演奏を間違えれば災いが起きる、それは真実の一面でしかない。
 そこへ、探偵は疑問を挟んだ。

「ならば、そもそも演奏を完璧に成功させたらどうなる?」

 その答えは、「舞姫を完全な状態に癒す」、いわば祝福された奇跡の曲であった。

 あの怪盗は、葵の足を治すために、その禁曲の力を使おうと思ったのだ。
 自らを「権力者を転覆させる」とのたまう悪役に仕立て上げてまで。

「でも、なぜ私のために、そんなリスクを負ってまで……?」

 葵にはどうしてもわからなかった。
 それに、黒田は肩をすくめる。

「アイツが言ってただろう? ファンってのは好きな人のためなら何でもするもんさ」

 ――さて、やるべきことはまだ残っている。
 葵は楽譜を丁寧に仕舞って、始音家に戻ることにした。
 ……彼らを断罪し、罰するために。