――その夜、怪盗に出会った。
黒田探偵事務所の二階、葵が寝泊まりしている客室の窓辺に、怪盗・紅鴉が降り立っている。
顔の上半分を、紅い鴉の面で覆い、鳥の翼を思わせる、羽のついたこれまた紅い衣服。
それが微笑んで葵を見つめていた。
葵は驚いて声も出ない。
怪盗は義賊であり、人をむやみに傷つけるたぐいの犯罪者ではないとされる。
しかし、犯罪者は犯罪者だ。何をするかはわからない。
そんな葵に、紅鴉は笑みを浮かべたまま、「取引をしませんか?」と持ちかけた。
「と、取引……?」
怪盗の手を取るのか、払いのけるのか。
果たして、葵の選択は……?
「――あ、あなたが紅鴉? あなたが楽譜を盗んだの?」
葵の声は緊張により上ずっている。
怪盗は、恭しくお辞儀をした。
「ええ、たしかにこの紅鴉、禁曲の楽譜を頂戴いたしました」
物腰は柔らかく、礼儀正しい。
この人は下流階級ではないのでは、と葵は考える。
――義賊とされる者たちはみな下流の出身と言われている。だからこそ、上流階級をおとしめるために楽譜を盗むのだ、と。
しかし、紅鴉は思っていたほど下品な盗人には思えない。
……だからといって、怪盗のすることは許されるものではないのだけれど。
紅鴉は笑みを作ったまま、「この禁曲を使って、ある計画を立てているのです。それにあなたも協力してもらいたい」と話を持ちかけた。
「あなたを虐げた妹――始音茜への復讐と、この風雅時代の権力者たちに反旗を翻すために、あなたの力が必要なのです」
突然、茜の名前が出てきて、葵の喉がひゅっと鳴る。
妹に……復讐?
いや、彼女はそれなりに人の恨みは買っているだろうけど。
「私、葵さんのファンだったんですよ」
怪盗から繰り出される言葉の数々には驚かされっぱなしだ。
泥棒も舞姫の舞を見たりするのだな、という妙な感想が出てくる。
「ですから、あの晩、茜が差し向けた暴漢があなたを襲撃するのを止められず、いたく後悔しております」
「アレは、やはり妹が……?」
「ええ。警察調書にも『始音茜にそそのかされた』という取り調べの記録が残っていました。まあ、その発言は始音家にもみ消されたようですが」
なぜ、警察の内部事情にまで詳しいのだろう。
呆然とする葵の前に、窓辺から降りた紅鴉が近寄り、その手を取る。
「私は、あなたのために茜に復讐します。そして、茜を擁護する始音家も、貴族も権力者も、すべて地に叩き落とす。どうです、あなたも協力していただけませんか」
「私に、何をしろと……」
「舞ってください。踊るだけでいいのです」
怪盗の発言の意味がよくわからなかった。
「あなたは、自分の力で、あなたの舞で、世界を変えられるのです。どうか……」
葵の両手を握り、囁くように誘惑する鴉。
しかし、彼女はその手を払い除けた。
「禁曲を悪用する理由に、私を利用しないで!」
葵の声に怒気が含まれており、怪盗は払われた手を再び彼女に差し伸べる。
「私と一緒に世界を変える気はありませんか。きっとあなたとなら素敵な一曲を奏でられるというのに」
「どうして私なの」
「禁曲には、舞姫が必要なのです」
なるほど、舞姫を輩出する始音家に伝わる楽譜であれば、その曲の真価を発動するには、舞姫というピースが必要なのかもしれない。
「泥棒さん、あなた、自分が何をしようとしているか分かっているの?」
禁曲の演奏を少しでも間違えれば、災厄が起こる。
それで命を喪う人だっているかもしれない。
いくら葵の大ファンで、茜を憎んでいるとしても、これはやりすぎだ。
差し伸べられた手を取るか、払いのけるか?
葵は迷うことはない。
払いのけるに決まっている。
彼女にとって、世界とはあの踊るための舞台だ。
それをぶち壊されてはたまらない。
「葵さん、誰と話しているかと思えば……」
葵がバッと振り返ると、部屋の入口にもたれかかるようにして、黒田が立っていた。
「やあ、名探偵。いい月夜ですね」
「まさか、探偵事務所に泥棒が来るとは思わなんだ。自首するなら警察署に行く方をオススメするぜ。僕の手間が省けるからな」
「おっと、もう葵さんと話している余裕はなさそうだ」
怪盗は葵の手を握る。
今度は何を、と身を固くすると、手の甲に接吻された。
ぎょっとする葵に、「それでは、またお逢いしましょう」と微笑んで、紅鴉は窓辺から飛び立っていった。
「あの野郎、葵さんになんてことを」
唖然としている葵の手の甲を、探偵は苦々しい顔をしながら消毒液で拭った。
しばらくして、ホットココアを飲んで落ち着いた葵が怪盗との会話をかいつまんで伝える。
「ふうん、あのカラス、禁曲を演奏する気か」
「警察内部に詳しかったのですが、関係者でしょうか……」
「いいや、どうせ僕に変装して潜り込んだんだ。アレは猿真似だけは上手いからな」
黒田は苦いブラックコーヒーを飲んで顔をしかめていた。
――紅鴉は舞姫を必要としている。そして、始音家には舞姫は二人しかいない。
すなわち、葵と茜の姉妹だ。
あの怪盗は茜に復讐すると言ってのけた。ならば、必然的に彼に必要とされるのは葵だ。
「こりゃ、また勧誘に来るかもしれないな」
探偵はやれやれと肩をすくめた。
黒田探偵事務所の二階、葵が寝泊まりしている客室の窓辺に、怪盗・紅鴉が降り立っている。
顔の上半分を、紅い鴉の面で覆い、鳥の翼を思わせる、羽のついたこれまた紅い衣服。
それが微笑んで葵を見つめていた。
葵は驚いて声も出ない。
怪盗は義賊であり、人をむやみに傷つけるたぐいの犯罪者ではないとされる。
しかし、犯罪者は犯罪者だ。何をするかはわからない。
そんな葵に、紅鴉は笑みを浮かべたまま、「取引をしませんか?」と持ちかけた。
「と、取引……?」
怪盗の手を取るのか、払いのけるのか。
果たして、葵の選択は……?
「――あ、あなたが紅鴉? あなたが楽譜を盗んだの?」
葵の声は緊張により上ずっている。
怪盗は、恭しくお辞儀をした。
「ええ、たしかにこの紅鴉、禁曲の楽譜を頂戴いたしました」
物腰は柔らかく、礼儀正しい。
この人は下流階級ではないのでは、と葵は考える。
――義賊とされる者たちはみな下流の出身と言われている。だからこそ、上流階級をおとしめるために楽譜を盗むのだ、と。
しかし、紅鴉は思っていたほど下品な盗人には思えない。
……だからといって、怪盗のすることは許されるものではないのだけれど。
紅鴉は笑みを作ったまま、「この禁曲を使って、ある計画を立てているのです。それにあなたも協力してもらいたい」と話を持ちかけた。
「あなたを虐げた妹――始音茜への復讐と、この風雅時代の権力者たちに反旗を翻すために、あなたの力が必要なのです」
突然、茜の名前が出てきて、葵の喉がひゅっと鳴る。
妹に……復讐?
いや、彼女はそれなりに人の恨みは買っているだろうけど。
「私、葵さんのファンだったんですよ」
怪盗から繰り出される言葉の数々には驚かされっぱなしだ。
泥棒も舞姫の舞を見たりするのだな、という妙な感想が出てくる。
「ですから、あの晩、茜が差し向けた暴漢があなたを襲撃するのを止められず、いたく後悔しております」
「アレは、やはり妹が……?」
「ええ。警察調書にも『始音茜にそそのかされた』という取り調べの記録が残っていました。まあ、その発言は始音家にもみ消されたようですが」
なぜ、警察の内部事情にまで詳しいのだろう。
呆然とする葵の前に、窓辺から降りた紅鴉が近寄り、その手を取る。
「私は、あなたのために茜に復讐します。そして、茜を擁護する始音家も、貴族も権力者も、すべて地に叩き落とす。どうです、あなたも協力していただけませんか」
「私に、何をしろと……」
「舞ってください。踊るだけでいいのです」
怪盗の発言の意味がよくわからなかった。
「あなたは、自分の力で、あなたの舞で、世界を変えられるのです。どうか……」
葵の両手を握り、囁くように誘惑する鴉。
しかし、彼女はその手を払い除けた。
「禁曲を悪用する理由に、私を利用しないで!」
葵の声に怒気が含まれており、怪盗は払われた手を再び彼女に差し伸べる。
「私と一緒に世界を変える気はありませんか。きっとあなたとなら素敵な一曲を奏でられるというのに」
「どうして私なの」
「禁曲には、舞姫が必要なのです」
なるほど、舞姫を輩出する始音家に伝わる楽譜であれば、その曲の真価を発動するには、舞姫というピースが必要なのかもしれない。
「泥棒さん、あなた、自分が何をしようとしているか分かっているの?」
禁曲の演奏を少しでも間違えれば、災厄が起こる。
それで命を喪う人だっているかもしれない。
いくら葵の大ファンで、茜を憎んでいるとしても、これはやりすぎだ。
差し伸べられた手を取るか、払いのけるか?
葵は迷うことはない。
払いのけるに決まっている。
彼女にとって、世界とはあの踊るための舞台だ。
それをぶち壊されてはたまらない。
「葵さん、誰と話しているかと思えば……」
葵がバッと振り返ると、部屋の入口にもたれかかるようにして、黒田が立っていた。
「やあ、名探偵。いい月夜ですね」
「まさか、探偵事務所に泥棒が来るとは思わなんだ。自首するなら警察署に行く方をオススメするぜ。僕の手間が省けるからな」
「おっと、もう葵さんと話している余裕はなさそうだ」
怪盗は葵の手を握る。
今度は何を、と身を固くすると、手の甲に接吻された。
ぎょっとする葵に、「それでは、またお逢いしましょう」と微笑んで、紅鴉は窓辺から飛び立っていった。
「あの野郎、葵さんになんてことを」
唖然としている葵の手の甲を、探偵は苦々しい顔をしながら消毒液で拭った。
しばらくして、ホットココアを飲んで落ち着いた葵が怪盗との会話をかいつまんで伝える。
「ふうん、あのカラス、禁曲を演奏する気か」
「警察内部に詳しかったのですが、関係者でしょうか……」
「いいや、どうせ僕に変装して潜り込んだんだ。アレは猿真似だけは上手いからな」
黒田は苦いブラックコーヒーを飲んで顔をしかめていた。
――紅鴉は舞姫を必要としている。そして、始音家には舞姫は二人しかいない。
すなわち、葵と茜の姉妹だ。
あの怪盗は茜に復讐すると言ってのけた。ならば、必然的に彼に必要とされるのは葵だ。
「こりゃ、また勧誘に来るかもしれないな」
探偵はやれやれと肩をすくめた。