葵はショウウィンドウに近寄り、物珍しく楽器を眺めていた。
 龍笛や琵琶、琴など様々な楽器が置かれている。
 新品の楽器たちは、色鮮やかな化粧を施されているが、これが使い込まれると、木の地肌が表れ、また違った味を見せてくれるのだ。もちろん、音色も変化していく。使い込まれて音楽家の手に馴染んだ楽器ほど、深く幻想的な音色を出す。まるで、楽器に魂が宿っていく過程のようだ。

「楽器屋、入ってみるかい?」

 黒田の言葉に葵はうなずいていた。
 ショウウィンドウの店に入ってみると、さらに沢山の楽器が所狭しと並べられている。
 服に引っ掛けてうっかり倒したり壊したりすれば弁償の憂き目に遭う。二人は気を使いながら楽器の森を抜けた。
 そこを抜け出せば、今度は本のようなものが並んでいる。急に本屋か図書館にでも迷い込んだようだった。
 葵はその本のうちの一冊を手に取り、めくる。
 思わず声が出そうになった。

 ――これ、楽譜の本だ。ここに並んでいるもの、全部?

「怪盗が盗んだ楽譜は、こうして楽器職人が複写して、楽器屋で販売しているんだよ」

 黒田が耳打ちしているのが、遠くで聞こえているような感覚に陥る。

「なにかお探しですか?」

 店主らしき男がにこやかに話しかけてくる。

「お二人で楽譜探しですか? 男女の音楽が混じり合う合奏は素敵ですよね」

「ええ、まあ、そんなところです」

 黒田は苦笑しながら受け答えした。
 男女の仲で合奏するのは特別な意味を持つが、自分たちはそういうふうに見えるらしい。

「これは、犯罪ではないのですか?」

 葵の声は硬いものだった.
 店主はキョトンとした顔をしている。

「これ、こないだ怪盗に盗まれた楽譜ですよね。これがもう流通してるなんて……」

「ええ。怪盗のおかげで、下流階級にも音楽が浸透しているのです。それは悪いことですか?」

 店主の無垢とも言える答えに葵は言葉を詰まらせた。
 彼は朗らかに笑いながら、さらに言葉を続ける。

「怪盗は義賊、俺達の英雄ですよ。貴女のような舞姫とは反りが合わないかもしれませんが」

 ――私の顔を知ってるんだ。
 それはそうだ、葵はこの間まで舞姫として舞台に立っていたのだから。
 血の気が引いた彼女をかばうように、黒田が「冷やかしに来てしまい、申し訳ない」と謝ってから店の外に出た。

「葵さん、言葉と場所には気をつけてくれ。さっきの質問、相手を間違えたら怒らせてたぞ」

「すみません……でも……」

 葵は顔色が悪い。
 今日は久々に歩きすぎて、足首も痛んでいた。
 黒田はそれを察したのか、「どこかで休もう」と広場に向かう。
 広場なら、どこか座れる場所もあるだろう。

 しかし、広場に近寄るごとに、楽器の音が聞こえてくる。
 ベベン、という独特の音色は、三味線だろうか。
 広場の噴水前に陣取るようにして、男が座っていた。
 三味線を持つ男の前には、お茶缶の筒。演奏しておひねりをもらうようだ。
 男の顔は黒子のように黒い布で覆われており、表情は見えない。文字通りの覆面演奏家だ。

 ベベン。ベン、ベベン、ベンベンベベン。
 三味線の音は軽快に響き、リズミカルに刻まれている。
 男の顔は見えないのに、葵はなぜか、彼が自分を見つめているような気がした。

 ――踊れ。俺が舞わせてやる。
 三味線でそう言っているように聞こえた。

「葵さん?」

 黒田が声をかけたときには、葵は広場に踊りだしていた。
 三味線の音を聞いているうちに引き込まれ、誘われてしまった。
 その音色はさらに細かくリズムを刻み、ベベベベベン、とバチを強く叩くたびに、葵の舞も激しくなっていく。
 わぁわぁ、と周囲の拍手喝采が聞こえた頃には、葵は汗だくであった。

「すごい! アレって舞姫の葵さんだよね!?」

「引退したって聞いたけど、変わらず素敵な踊り!」

 そんな称賛を浴びていたが、不意に足首の鋭い痛みが再び襲ってきた。
 バランスを崩しそうになるのを、黒田が支える。

「大丈夫か? あんま無理するなよ」

「踊れた……」

「は?」

「ねえ、私踊れたわ! もしかしたら、また舞姫に戻れるかも!」

 葵はキラキラした目で黒田の両手を握ってブンブンと振った。
 どうして急に踊れたのかはわからない。
 ただ、また踊れたことに感激した葵は、自分の可能性に希望をいだいたのだ。

 黒田が振り返ったときには、もう三味線を弾いていた男はいなかった。

 その後、夕方まで楽器屋通りを歩き回って調べたが、どうやら禁曲はまだ楽譜は出回っていないらしい。
 それはそうだ、天候を変える力を持った楽譜なんて流通してたまるか。
 ひとまず、黒田と葵は探偵事務所に戻ることにした。

「僕は警察署で手に入れた資料の情報をもう少し調べてみる。君は先に寝ていてくれ」

「はい。おやすみなさい、黒田さん」

 しかし、葵は興奮でなかなか寝付けなかった。
 ――私が、踊れた。また舞姫に戻れるかもしれない。いや、きっと戻ってみせる。あの舞台に。
 彼女にとって、妹の茜からの嫌がらせなんて大したことはなかった。
 ただ、自分がもう踊れないということに深い絶望を覚えていたのだ。
 その中でつかんだ希望に、彼女がすがるのは仕方のないことと言える。

 やがて、やっとのことで眠りについた葵だったが、深夜に目を覚ました。
 トイレにでも行こうか、とベッドから起き上がると、窓辺に大きな鳥のようなシルエットがあった。
 巨大な鴉――。

 葵が悲鳴を上げそうになるのを、「しーっ、お静かに。探偵殿に見つかると厄介なことになるのでね」と鴉が唇に人差し指を当てた。
 それこそは葵と黒田が探していた怪盗――紅鴉であった。