「こんにちは、柚香ちゃんいるかい?」

 女中が義父母宅に帰ってしばらくしたころ、店舗の裏口から声がした。
 柚香が裏口の引き戸を開けると、材料を仕入れている卸問屋の中年男性が小豆の入った袋を持って立っていた。
「今日は小豆だけだったよね」
「はい、いつもありがとうございます」
 小豆の入った袋を受け取る。
 卸問屋は商品をもってまず義父母宅を訪れ、代金をそこで受け取ってから、商品だけを店舗に持ってきてくれる。柚香には金銭管理が許されていないため、このようなひと手順を踏む必要があるのだった。

「あとこれ、うちの畑で獲れた野菜と女房のお古の着物ね」
「わあ、かぼちゃとさつまいもだ。それに冬用の着物もあるなんて。
 うれしい。おじさん、本当にありがとう」
 柚香は心からお礼を述べた。

 柚香には自由に扱えるお金がない。
 それを知っている取引先の人が、柚香のためにこっそりと様々な物をくれたりしているので、何とか凌げている状態が続いていた。


 もらったかぼちゃとさつまいもを調理場に置きに行った際、みたらしのたれの隣の壺を開けて中を確認する。
 香ばしい薫りがして、思わずため息が漏れた。
 中身に対してではない。
 サキさんを思い出したからだ。

 サキさんがいたから、ここに来てからの最初の五年間をやってこれた。
 両親が恋しくて泣いてばかりの柚香に、包み込むような優しさをくれた。
 基本、柚香は給仕をしていたが、最後の方はサキさんと分業して仕込みの手伝いもできるようになっていた。
 一日一食のおにぎりしかもらえなくても、甘味の残りを二人で笑いながら食べれば寂しくなかったのに。

 あの日、目が覚めてサキさんの姿がどこにも見当たらず、一階の店舗に下りたら、調理場の机に置手紙を見つけた。
『柚香ちゃんへ
 ごめんなさい。
 一人残してしまうことを許してください。
 私は結婚して遠くに行くけど、あなたと過ごした日々は忘れません。
 幸せを願っています。 サキ』

「サキさん! サキさん!」
 すぐに店舗の裏口から外に出てサキさんを探したけれど、どこまでも無音の暗闇が続いているだけだった。
 両親に加えて姉のような存在も失うとは思っていなかった。
 こぼれる涙が幾度も頬を伝って、その度に涙の筋がすうっと冷えていく。
「サキさん……!」
 今はもうここにいない人の名前を呼びながら、その場に座り込んで柚香は泣き続けた。

「お前はあいつみたいに逃げられると思うなよ!
 親戚は逃げられないからな。
 分かったら、明日からはお前一人で店を回すんだ」
 ここに連れて来られたとき以来に会った義父から言われた言葉が、耳の奥でこだましている。
 しかし、サキさんと二人で切り盛りしていたときより店が繁盛したことで、会計担当を置くことになり、女中との二人体制になったのだった。


「そうだ、そろそろ洗髪しなくちゃ」
 独り言を言いながら柚香は手にしていた壺に蓋をして調理台の隅っこに置いてから、調理場で湯を沸かすために井戸に水を汲みに行く。
 この建物に風呂はなく、貸してもらえる場所もなければ、銭湯に行くお金も持ち合わせていなかったから、柚香はこうして調理場で沸かした湯を使って水拭きをすることで毎日体を清めていた。洗髪は週に1回できればいい方だった。もちろん、体を清めるために調理場で湯を沸かしていることは養父母には秘密にしている。

 丹念に櫛で梳いてから、皮脂でギトギトした手触りの肩甲骨までの長さの栗色の髪を湯で洗う。
 普段は耳の下で団子状に一つにまとめて三角巾を被ってしまえば、あまり髪の汚れは気にならなかった。
 柚香の髪色はこの国に多い黒色ではなかったため、幼いころはこれが原因でいじめられたりもした。
 でも、あのころは絶対的な味方の両親がいてくれたから、全然つらくなかった。
 今よりもずっと幸せだった。

 洗髪後の髪は自然乾燥するまで待つしかない。
 その間に、柚香は先ほどもらったさつまいもを蒸かす準備を始めた。

(売上をくすねられたけど、夕飯を食べられるから、今日はいい日だ)

 調理場の窓から見える夕暮れが美しく感じられて、柚香は口角を少し上げて微笑んだ。