調味料の壺のうち、一つはサキさんにまつわるものだが、もう一つは柚香の母に関係している。
 柚子の砂糖漬けが入ったその壺は、柚香の母が教えてくれた柚子餅の材料だった。
 この柚子の砂糖漬けは、以前取引先の人がただでくれた柚子の皮を使っている。
 柚子餅は普段甘味処では出さず、お古の着物や野菜などをくれる取引先の人にお礼のためだけに作って渡していたものだ。
 自由に使えるお金を持っていなかった柚香にとって、お金と同じ価値があった大切な柚子餅。
 柚子に付着した砂糖をある程度落としてしまえば、甘さを抑えることが可能だ。
 まだ彦仁(ひろひと)にも食べさせていない柚子餅で、柚香は恒平との勝負に出ることにした。


 12月も下旬のある日、彦仁(ひろひと)と柚香は母屋の応接間で恒平を待っていた。
彦仁(ひろひと)、待たせたな」
「このようなお時間を取っていただき、誠にありがとうございます」
 二人は立ち上がり、深く礼をした。
「そちらがお前の見初めた女性か?」
「お初にお目にかかります。柚香と申します」
 恒平の他者を圧倒するような雰囲気に気圧されそうになりながらも何とか挨拶する。
 足が震えてくるのをぎゅっと押さえつけた。

 恒平の異能を柚香は結局知らないままだった。
 他人の異能を本人の同意なしに他言することはご法度とされているので、彦仁(ひろひと)も話せないし、柚香が聞くこともできない。

(それでも、正攻法で)

「加賀谷さま、どうか私を彦仁(ひろひと)さまと結婚させてください」
 母屋の応接間は洋間になっていて、柔らかいソファーの上で柚香は膝についてしまいそうなほど頭を下げる。
「だが柚香さん、あなたと彦仁(ひろひと)では身分が違いすぎる。そうだろう?」
「ええ、承知しております」
 柚香は頭を下げたまま応える。
彦仁(ひろひと)は加賀谷家の長男だ。現在もひっきりなしに縁談の話が来ている。
 結婚は家同士が行うものだ。加賀谷家のことを考えると、彦仁(ひろひと)にはもっと両家が均衡の取れた女性を妻にするのがふさわしいと私は思っている」

(悔しい。その理屈じゃ、私は何も言い返せない)

「父上、俺は柚香さんを心から愛しています。彼女以外を妻にすることは考えられません。
 どうか俺たちの結婚を認めてください」
 彦仁(ひろひと)も柚香と同じように膝につきそうなほど頭を下げた。
「お前もいい加減諦めなさい。私から言えることは以上だ」
 恒平はソファーから立ち上がった。
 柚香は顔を上げ、懇願するように恒平の顔を仰ぎ見て、藁をもすがる思いで申し出た。
「最後にお願いです。加賀谷さまのために私が作ってきた甘さ控えめの甘味を食べていただきたいのです」

(美味しくできたとは思うけど、この甘さでよかったのか心残りだわ。お口に合うといいんだけど)

「ほう、分かった。それを食べて仕事に戻るとしよう」
 恒平はお手並み拝見と言わんばかりに再びソファーに座り直した。


 恒平が菓子切で柚子餅を刺して口元に運ぶ姿を、柚香は祈るように見つめた。

(大丈夫。甘さは大丈夫)

 何度も自分に心の中で言い聞かせる。
 咀嚼する恒平の口元が止まり、「おお……」という感嘆の声が漏れた。
 三人の間に一瞬沈黙が訪れる。

「はっはっはっは! これは愉快だ!」

 柚子餅を嚥下した恒平が突然笑いだしたので、彦仁(ひろひと)と柚香は顔を見合わせる。
「っくっくっく……柚香さん、なかなか芯のある女性だな。嫌いじゃない」
 なおもおかしいらしく、身体をくの字に曲げてまで笑っている。
「父上……?」
 困惑した声で彦仁(ひろひと)が声をかける。

 ひとしきり笑って満足した恒平が二人に告げた。
「柚香さんの気概に免じて、結婚を許そう」
「……! ありがとうございます!」
 二人は立ち上がって礼を述べる。

「じゃあ、私は先に仕事に戻る。彦仁(ひろひと)は後でいいから来なさい」
「かしこまりました」
「柚香さん、甘味美味しかった。また作ってくれ」
「はい! 喜んで」
 機嫌よく恒平は自室に戻って行き、陽が当たっている机の上には空になった皿と菓子切だけが残されていた。