唖然としてしまう。
非社会で、どうしようもない人間の順位がたった今入れ替わってしまったような気がした。これじゃあ、ミイラ取りがミイラになるだ。私に合わせて、私よりまともじゃなくなるなんてどうかしている。
オータは私のことをずっとやばいやつだと思っていたらしいけれど、私はオータがこんなことをするやつだなんて全く知らなかった。
まだ開けていないビールを三缶抱えて、陽気な笑顔を浮かべながらオータは再び私の前に戻ってきた。私が買ったものなのに、「あげる」と偉そうなことを平然とした態度で言う。差し出された一缶を仕方なく受け取ってプルタブを開ける。オータもそれに続く。
「もう、今日くらい、この世で一番やばいやつになればいい」
そう言って、オータはまたビールを逆さまにして振り回した。銀色の飛沫が顔に直撃したから、その瞬間、プツン、と自分を辛うじて繋ぎ止めていた理性のようなものが切れる。
怒りの作用じゃない。なんだろうな。やったことはないけれど、富士山の頂で全財産を山の下めがけてばらまいてもいいやって、そういう諦めに近かった。
私もオータめがけてビールをかける。そうやって、私たちはビールの空き缶が散乱した埃だらけの部屋で、暫くアサヒスーパードライをかけあっていた。
どこかの神様、世界新聞に載せてくれてもいいよ。祝うべきことの一切ない場所での盛大な祝福、限界部屋でアサヒスーパードライをかけあった奴ら、日本人、二十代前半の男女、みたいな言葉で大いに結構である。
全ての缶ビールの中身がなくなって濡れた床に腰を下ろしたら、オータは中腰になって湿りに湿った私の頭をわしゃわしゃとかき混ぜるかのように撫でた。
「はは、お前、きったない」
「オマエも、人のこと言えない」
「うん、でも、なんか、全然世界でいちばんやばいやつになれてる気はせんね。まあ、俺、ニーナちゃんに言わせてみればまともですしね」
「うん、人、誰も殺してないし」
「きたねー床でひっそり生きてた細菌類は、アルコールでめちゃくちゃ死んだかもだけど」
「……てか、これ、浸水したらどうする気」
「そしたら、下の階の部屋の人にサッポロエビスのギフトセット贈って謝るしかないのでは」
「……ちょっと高いやつじゃん」
「うん、ちょっと高いやつ」
はは、とオータが笑う。
あれ、もしかすると、この男。昔から、こんなやつだったのかもしれない。突拍子もない何かに出会うとオータはいつもそうやって気の抜けた顔で口角をあげて目を細める。私が鯨座だと言い張った朝もこんな風に笑っていたのだろうか。
「ニーナ、」といつも通りのトーンで名前を呼ばれて、もう一度わしゃわしゃと犬にするような手つきで髪を撫でられる。
それから、ごん、と頭突きをされた。幼稚園児みたいな攻撃だ。皮膚からアルコールが沁みて、とうとうこの男は酔っ払ってしまったのかと思った。
こちらも、それじゃあ、酔ったふりをしてやろう。世界一やばいやつにはなれないけれど、世界一くだらない忖度ならできそうだ。頭突きを返す。そうしたら、オータは歯を見せて笑って、おでこをあわせてきた。
性的な触れ合いではない。理由がなくても、人は額をくっつける。時には、それが許されるらしい。
「なあ、」
「なに」
至近距離、前髪から一滴のビールが落ちる。オータが唇を震わせる。
「俺と一緒に住む?」
「……は、」
言われた言葉を咀嚼できずに、聞き返す。目を見開いた先で、また髪の毛先から銀色の雫がぽとりと落ちた。
「オータ君と、ニーナちゃん、一緒に住むか?」
「なんだ、アホになったのオマエ」
「ううん、真剣」
「……急に、何だよ」
「うん、急にそれがこの世で一番な気がしてしまった。知らない星がひとつなくなってもあんまり俺たちはダメージ受けないけどさ。水金地火木土天海、がなくなってみろよ。やばいよそれは。それと同じで、鯨座のミラがなくなったら俺はやばいんだよ」
「………」
「自滅、してほしくない。他人事だけど、何気にさ、鯨座は俺の人生の目印のような気もするんだよな。だから、監視する。学生だからとか、どっちのマンションに住むんだとか、その他諸々は後でいい。とにかく、俺は、お前が自滅しないように監視したい」
「………」
「ニーナ」
見上げた先で、オータの瞳が震えていた。
私にはその瞳が、何故か輝線星雲に見えた。星と星の間にあって自らで光るもの。
頭に「ないものねだり」の七文字が過ぎる。それからオータは額をゆっくりと離して、「一緒に住もう」と、お尻の疑問符を殺して丁寧に言い直した。
突然の提案に、こんなはずではなかったとか、一体どういう魂胆だとか、思うことが次々と出てくる。一緒に住むとは文字通りであり、しかしそこにはたくさんのあれこれが付き纏う。そんなに簡単なことではなく、限りなくファンタジーな提案だ。
だけど、ビール塗れになった私は、まともという概念から本気の勘当をされたようで、軽率に頷いてしまった。
「じゃあ、準備するか」
「なに」
「掃除。自分たちとこのくそみたいな部屋を何とかするぞ。俺がいたらお前はできると思うから」
「……うん」
頷いたら、オータが照明スイッチに手を伸ばした。カチ、と音がして部屋は白い明るさに支配される。
やっぱり光は、私を救わない。
部屋の状況は、思っていたよりもビールのせいで散々だった。深まった夜の中、私たちはお互いの姿を見合って大声で笑った。途中で、ゴン、と薄い壁の向こうからお叱りを受けて、非社会のくせ社会の一部であることを実感させられる。
どうしよう、どうしよう、と思いながらもずっとできないでいたことを「ここからやろう」とオータに提案してもらえれば、私はようやく一つずつ片付けることができた。
ビールで濡れた床をバスタオルで拭いて、そのまま床の埃を取る。空になって散乱していた缶ビールと煙草のゴミをゴミ袋に押し込んで、食器や調理器具も洗う。オータはビールで濡れた外見のまま、溜まりに溜まったゴミを捨てに行くのに部屋とゴミ捨て場を何往復もした。
仕上げに私たちは交互にシャワーを浴び、この部屋のとりあえずが完了したときには、朝の五時を過ぎていた。
「朝焼け見るの一億年ぶりくらいだ、俺」
煙草の煙を吐き出す私の隣で、オータが遠くで昇る朝日に目をやりながら欠伸をする。なるほど一億年ぶりなんだ、と私は適当に相づちを打った。
私の、社会再デビューはこのベランダからはじまるらしかった。肺に沈み込んでくる煙草の感じは、朝だと別格だ。知らなかったけれど、気に入ってしまう。
「でも、俺は煙草まじで嫌いだから、これからは俺がいるところでは遠慮して」と、オータが文句を言ったので、私たちって本当に一緒に住むのか、と他人事のように思った。それは実のところ一番重要なことかもしれないけれど、今の私にとっては取るに足らない問題だった。
夜明けの真ん中に二人で立っている気がしていた。
ベランダのコンクリートの地面は冷たくて、足の裏が少し痛い。社会はやはり厳しさしかくれないけれど、目に沁みるような朝日のグラデーションだけは、何故か包み込んでくれるような温かさがあった。
「朝が来たから、呪文だけ唱えておく」
灰皿に煙草の先をなすりつけたところで、オータの分厚い掌がぽん、と私の頭にのる。
魔法も使えないまともな人間のくせによく言う、と思いながら見上げたら、オータの瞳は乾いているのに輝線星雲のようにまた震えていた。
風が吹く。はは、ドラマ。だけど、リアル。どうしてもこれはリアルだから、痛くて冷たくて、清潔になった前髪は揺れる。首にあるほくろだけ発光したような気がした。
ミラ。私のミラ。私だけのミラだ。
「ニーナはニーナだよ」
オータの声に、私は心の中で仕方なく頷いた。
ニーナはニーナ。私は私か。一秒後も、私のまま。どう足掻いても、そうなのか。嫌だ。それでも、受け入れるしかないみたいだ。
大人になったら、インスタグラムのフォロワーが一万人を超えるような人間になれないことは置いておいて。それなりに毎日幸せで、人にちょっと憧れてもらえるような丁寧な生活を送ることもできそうにない。
それでも、どうしても、私は私らしい。
「……ニーナはニーナ」
言葉にして唱えてみる。呪文じゃない、ただの現実だ。だけど、心に降りていた重たい帳が静かに消えていくような気がした。
「……ニーナは、ニーナ」
「そう、お前はお前」
「私は、私」
「うん」
何度も口に出して、確かめる。オータはそのたびに相槌をしつこく打ってきた。
鯨座の首のところに位置するミラは膨らんだり縮んだりしている。光ったり光らなかったり、とても不安定な星である。
何度も何度も、私が私であることを受け入れるために言葉にして確かめていたら、次第に歌でも歌っているような気分になった。
奇妙な心地。日日是好日とは対極にある私の理想とはかけはなれた日々。それでも、もう、どうしても、仕方がないらしかった。
そうして、ベランダは、少しずつ不完全体の朝に染まっていく。