人という字の成り立ちが分かったような気がしてしまう。オータだから、倒れかかっても気持ち悪い角度で潰されずにいられるのかと思った。

だけど、漢字の成り立ちを悟ったところで、苦しさが消えるわけではなく、痛みはしっかりとここにある。

非社会で生まれ続ける劣等感。自己肯定感という概念の捏造と喪失。その渦中にあり、只今、私が抜け出したのではなくオータがその渦のど真ん中に無遠慮にビールをかぶるという暴挙の果てに入り込んできただけだ。その渦中で藻掻くでもなく、私はビールに塗れたオータの肩に顔を埋めたまましばらくじっとしていた。

どうしようか、と思う。どうすればいいかじゃなくて、どうしたいのかにだけ焦点をあてたら、黙ったままでいたくはないような気がしてきた。

霊にもなれないような言葉を慎重にオータの肩に埋め込むことにする。

「………たとえば、さ」
「ん?……あ、無理して喋るなら本当に喋らなくていいぞ」
「無理、は、しない」
「分かった。オータ君がぜんぶ聞いてやるよ」
「うん、あのさ、……十時に何か約束とか講義とかがあるとして、それで、オータは、というか、みんなは、十時に間に合わせるのにどれくらいの時間がかかるのか、とか、どれくらい前に起きればいいのか、とか、そういうことをすぐに考えることができて、自分の時間っていうものを、自分のものとして所有、している」

ぺらぺら、深度不明の言葉が自分の内から昇っていく。

「でも、私は、そういうことがうまく分からない、らしい。ううん、ひとりで暮らすようになってから、分からなくなっちゃって、いつも前の日からすごくすごく不安で、仕方ないんだよ。みんなと同じように生きている顔をして、本当は、毎日、怖い。何時に起きたらいいんだろう、何時に寝たらいいんだろう、どういう服で行けばいい? 朝ごはんは何を食べる? 持ち物は? 考えることが次々でてきて、身動きが、とれなくなる。それで。それでさあ、いつの間にか、怖くて、仕方がなくなってた、」

「……うん」

「なのに、平然とした顔で生きなきゃいけないんだ、外に出たら、ぜんぶ当たり前ですよって言われてるような気がする」

人間は社会で生きられなければ、生きていないのと同然であるとみなされると思っている。引きこもって、外界から閉ざされたこの部屋は墓地同然であり、私はただ心臓の動く動物だ。

そうやって虚しくて悲しい矢印を繋げていったら、ますますもうここからは出られない。

大袈裟かもしれない。正当化さえできないような事柄を正当化しようとしている自覚はある。

でも、これがたぶん、いま生きているうえでの、ほとんどだ。どうしようもない私の、ほとんどなのだ。

「お風呂にもはいれないんだ。はいりたくないから。あのさ、理由それ。はいりたくないからはいれない。でも、みんなははいりたくなくてもはいれる。わたしははいりたくなかったら、どうしてもどうしてもはいれない」
「で、こんな臭いわけ?」
「……うん、……ゴミも捨てるタイミングがわからないから、ずっと捨てられない。溜まっていく。部屋も生きてるだけなのに、汚れていく。部屋の掃除、したくないから、できない。しないと、ってずっと思っているけど、したくないから、しない」
「なる、ほど」

どうせ分かっていないくせに必死に相槌をとろうとしている。それでも何言ってんだよと笑いはしないらしい。笑い飛ばされたら、本当に宇宙の彼方まで飛ばされて塵になりそうな勢いで弱ってるから、助かるけれど。

もう一度、肩に鼻水を擦り付けたら「一万五千円がニーナにとってティッシュなことのほうがオータ君的にはやばいんすよね」と呆れたように背中を叩かれる。

全てを許すような、全てを肯定するような、そういう風に相手にとられかねない態度は安易に見せるものじゃないんだよ、オマエ。ぺらぺら、言葉が昇ることを止められない。

「それでさ、そうしたら、私、お風呂も入ってないし、部屋も汚いから、自分もすごく汚い感じがして、実際汚いわけで、外に出られなくなって、ああもうダメだ最悪だ、って思ってたらいつの間にか夜が来てるんだ。お腹も空くしお酒も飲むし煙草だって馬鹿みたいに吸う。テレビだって見る。SNSだってやるし、そういうつまらないことはどれだけでもできるのに、洗濯はできない。皿も洗えない。したくない、から」

「したくない、から、か」

「うん、メールの返事もLINEの返信も、全然できない。自分のしたいことしかできない。もう、誰にも会えない。べつに、会いたくないから。するべきことが一つ以上あったら、どれを優先すればいいかわからない。ぐるぐる、ぐるぐるって、ずっと頭が回ってる。どうしよう、どうしよう、やらないとってずっと思ってるのに、ずっと、なんにも、やれない」

埋めていた肩から顔をあげる。

オータがいまどんな気持ちで私の告白を聞いているのか分からないけれど、ビールをかぶったような男だから大丈夫かもしれないやと馬鹿みたいなことを必死に自分に言い聞かせている。

「理解、できないでしょ? 理解しないで、いい。ただの、わがままなんだろうなあ。私、わがままで、意志の力が弱くて、当たり前のことさえ、できない。でも、できないのかやらないのか、わからない。……オータには分からないよ。私も分からないことばっかりでさ、私がそんなやつって知らなかったでしょ。なに甘えてんだよって思ってるでしょ。わたしも思うんだ。じょうずに生きられないなら、生きることもままならないなら、生きてる価値ないかもって」
「………ううん」

何に対しての否定なのかはっきりしない。それでも、オータは首を横に振った。

言霊って本当にあるのだろうか。吐き出しても書いたわけではないから、別に可視化されずに生まれた瞬間消えていく。

だけど、言葉にした瞬間、本当になる感覚はなんとなく分かった。自分が思っていたことが頭の中に溜め込んでいたときよりも鮮明になる。吐き出さない方がいいこともあるみたいなことを、オータは言ったけれど、私はいま吐き出していて、ほんの少し救われている気がする。

救われるような器でもないくせに。神様もきっと怒っている。まじでごめんね、舐めた態度で天罰も甘んじて受けるつもり。もっと世の中には苦しんでいる人がいて、治らない病気に侵されている人がいて、それなのに、こんな怠惰を極めて駄々をこねているようなやつがあっさり救われた気になるなんて、不公平だ。

だけど、そんな良心など放り投げた先で、オータに対してありがとうと思ってしまえば、またぼろぼろ目の奥から涙が溢れてきた。

オータの肩で目元を擦る。うん、と喉仏が耳のすぐ傍で切実な音を立てて唸った。

「………私ね、二リットルのペットボトルの水も、最後まで飲みきることができないんだよ」
「うん」
「いつも、あと一口を残して捨てちゃう。もったいないなって思いながら、捨てちゃう。小さなことだけど、みんなできることが、私はできなくてさ、」
「うん」
「だから、自分が、嫌いで、嫌いで、大っ嫌いで、こんな自分になりたかったわけじゃないのに、なりたい自分といつも反対側にいて、最悪だよ。でも生きてる。死ねないの。笑っちゃうよね。一番嫌いなものを手放せない。この世界でいちばん自分が嫌いだ、誰よりも嫌い」
「ニーナ、」
「嫌いなんだよ、嫌い、嫌い、嫌い、最悪、」

生まれたときはきっとこんなはずじゃなかったのに。

最後の捨て台詞のようにオータの顔面めがけてそう言ってやろうかと思った。だけど、「でもさ、」とオータが掠れたような声を被せてきたから、失敗に終わってしまう。

また、抱きしめられる力が強まる。今度は骨じゃなくて、ハートが圧迫されてしまう。

痛い、と抗議した。うん、とくぐもった声を出したくせにオータは聞き入れてはくれず、湿りきった私の髪とオータの頬が微かに擦れた。

「それでもさ、」
「……」
「ニーナはニーナだから」

なんだそれ、と思った。だけど、言葉は真っ直ぐ落ちて、彷徨うこともなく私の懐を撫でて眠った。眠ったら、居座られてしまう。受け入れてはいけない魔法だと思って、オータを遠ざけようとしたけれど叶わない。

乱暴だ。得意じゃないくせに、よくやるよ。乱暴は、ときどき、優しさみたいな顔するから困る。

「……ちがう」

「違わない。お前はお前なんだよ。嫌っても最悪でも、お前はお前でしかなくて、生きたいって思ってくれてるなら、今それだけで、俺はいいよ。いや、思ってなくても、全然いい。生きてるだけで、いいわ」

「……肯定されたく、ない。肯定、しないでよ」

「いや、するし、別に肯定とかそういうことは大事なことじゃなくて、どうでもいい、おまけだよ。お前、俺にどう見えてるか、残念ながら全然分かってないんだよな。お前は、昔から、かなりやばいやつですけど。お前のことまともって思ったことないし、別に今にはじまったことじゃない。でも、わざわざ、お前はやばいやつって、何でもないときに言わないじゃん。こんなにお前が荒んじゃうなら、小学生の時から、おはよーの代わりに、お前はやばいぞって言ってやってればよかった」

「は、」

「わがまま、じゃない。やらないことは、できないからやらねーの。甘えてるわけじゃない。ニーナは、やれることはやる。そんなさ、責めてやらなくていい。自分に厳しくしたって全く意味ないからな。お風呂ははいれないからはいらない。掃除もできないからやらない。ゴミも捨てられないから捨てない。たしかに俺は理解できねーよ。俺はそれ全然できるもん。でも、ニーナだよなあと思う」

「………正当化していいことじゃないんだ。だから、苦しい、」

「あのなあ、正当化じゃないし。別に正しいこと言おうとしてないんだって。お前はお前、って話をしてる。普通じゃないのに、今までずっと普通って思ってたらしいじゃん。なんか、口調的に、みんなにはまともに見せたいってお前、思ってたっぽいじゃん。そりゃ、なんだ、最初はさ、くせーし、意味分かんないし、ヒスるし、部屋やばいし、たぶんお前、ぎりぎりアル中だし、今更だけど煙草吸うやつ大分ムリだし、そもそも俺は焼き肉が食べたかったし、何だマジでって思ったけど、よく考えたら、ニーナはずっと、ずーっと、やばいポテンシャルありまくりだったよなって。なんか最近会ってなかったし、違うとこ通うようになってそれぞれ別のコミュニティが広がったわけでさ、ニーナちゃんがニーナちゃんであること、ひととき俺も忘れてた、みたいな。いや、こんなときだけど、笑える、まじで」

はは、と本当にオータは笑いをこぼして、とんとん、と私の背中を叩いた。

笑えない、泣けるよ。何、勝手に笑ってるんだよ。文句の代わりに押しつけられるものもない。

背中を叩いていたオータの手が、あやすようなものに変わる。手を引かれて渦の外に連れて行かれるような感覚だった。まともなくせに、無責任で、大丈夫なんて根拠もないことをビール臭い全身で訴えてくる。

なんだよ、と気が抜けてしまう。私は元々、まともじゃなかったみたいで、それをずっとオータは感じていたみたいで、なにも一人暮らしを始めてからのことではなかったらしい。そんなのはあんまりだ。あまりに、あんまりな事実すぎて笑えないのに笑いそうになってしまう。

ハロー、ハロー、ドコカノアナタ。私は、もともと、やばかったらしい。その件について、どう考える。ディスるなら、愛のないディスりがいいよ。愛のあるディスりなんてそんなものはないのだから。

空想の中で社会とか弱い交信をしてみる。