手を伸ばして、施錠を解く。それから、下手くそに深呼吸をして床にしゃがみこんだ。

すぐに扉が開いて、外の冷気が入り込んでくる。排気ガスにプラスチックを混ぜたような硬い風。

そうだった、社会ってこういう匂い。理由もうまくまとまらないけれどどうしても顔を合わせたくなくて俯いていたら、「お、生きてる生きてる」とオータはほっとしたような声音で当たり前のことを言って、扉を閉めた。

ぽん、と頭にオータの手のひらが乗る。

「……触らないで」
「なんか、湿ってるけど、なぜ?」

理由なんて聞いてどうする。

黙ったまま、大きな手から頭を遠ざける。そうしたら、オータが玄関の電気をつけた。視界が明るくなって、あーあ、どうしよう、情けなくてしゃれにならない、と心臓が慌て出す。

頼むから視界にいれてくれるなよ。人間なのに人間じゃないみたいななれの果てで、あんたにかけてもらいたい言葉なんてひとつもない。

「……もしかして、風呂」
「………っ」
「はいってない?」
「………」
「いつから?」
「………」
「言うと、お前、非常に臭う」
「………」
「だから、俺に会いたくなかったん?」

顔を覗き込まれる。自分でも臭いと思っているのだから、オータはもっと強烈に異臭を感じているだろう。

酒を飲んで煙草を吸ってお風呂に入ってないって、最悪なトリプルコンボだ。そんなに匂うなら近寄るなという文句すら声にはならなくて目を閉じる。

オータの目にどんな風に映っているのか考えるだけで、鬱になりそうだった。いや、もう、鬱だろうか。鬱だったらいいな。いいのかな。SNSでもよく見かける。鬱、鬱、鬱、鬱、鬱、誤用、真実、画数の恐いただの言葉。

何もできないことに病気の名前をもらえたら、私は救われる気がする。本当に病気の他人のことなんて今は考えていられない。お風呂にはいれない病。部屋の片付けができない病。人との約束が守れない病。ゴミが捨てられない病。エトセトラ、エトセトラ、病、病、病。処方箋なんてなくてもいいから、ただあなたは病気ですよという診断が欲しい。そうすれば、全て病気のせいにできるって思う。

私は、私が悪くないって、本当は、ずっと思いたくて仕方がない。

沈黙に痺れをきらしたのか、オータが許可もとらずに靴を脱ぎ、私の横をすり抜けて部屋の方へ歩いていった。

結局のところ、首がすわりきってしまった私は、オータがいれば赤ちゃんにもなりきれず、玄関にしゃがみこんだまま、ぽとぽと涙を落とすしかなかった。

中途半端だ。零にも百にもなれず、微妙なところで右往左往して、困り果てる。非社会でも無力ならば、もうどこにいても発光できない。

マンションの一室。自分の城でさえ、守ることも壊すこともできない人間のことを、オータはどうせ全くもって理解できないだろう。

「うわ、」と不快を滲ませたような声が部屋の方から聞こえた。

それが、にわかに催涙のスイッチとなった。

オマエがどうしても入りたそうにしたから鍵を開けたのに、うわ、なんて分かりきった反応をわざわざ示すのはなんなんだよ。

シュミレーションで抱く想像をした感情を、実際に自分のこころに宿してしまえば、思ったよりも苦しくて怒りの炎がふつふつを沸き立つ。

怒り、悲しみ、呆れ、絡まって身動きがとれなくなるのは他でもない自分自身だ。自傷、自爆、自滅。感情でさえ、上手にラベリングすることができず、自らを攻撃してくる。だけど、私は私の守り方を知らない。だから、痛い。生きてるって、本当に、本当に。痛みの連続だ。

「……もう、いいから帰って。死んでないって確認しただろっ、生きてるよ。仕方なくずっと生きてるから、さっさと帰れ!」

玄関の扉にむかって、怒鳴る。

そうしたら、後ろから足音が聞こえてきて、身構える間もなく突然手首を掴まれた。痛いほどの力で引きずられて、部屋へ連れて行かれる。

目に入ったのは、案の定、紺色の柄シャツ。繊維には皺がなく、手首を掴む肌はさらさらとしている。ああ、ほら、こんな時でも、オータはやっぱり健やかでまともでおめでたい。

容赦なく引きずられ、盛大にぶつかった空の缶ビールが、ケトン、ケトン、とドミノみたいに連鎖して倒れていく。