衝動的にでてしまう。

なにを喋ればいいのかも分からないし、五日もお風呂にはいっていない身体では焼き肉なんて絶対にいけないっていうのに。

「……もしもしなに」
『え、なんかめちゃくちゃ不機嫌じゃん。いや、焼き肉いかんかなって』
「いかん」
『いやー、もうちょっと迷う素振りみせてくれよ。絵の課題厳しい?』

それどころか、生きることがもう厳しいんだよ。

鼻を啜ってしまう。それで、ああ、泣いてることがばれたかも、最悪だよ、とげんなりした気持ちを抱いていたら、『ニーナ?』と焼き肉よだれ犬のテンションとは全く別の心配気な声音が電話口から落ちてきた。

そうしたら、また涙が滲む。

なんだ。苦しいことを隠したかったふりをして本当はこの男に気づいて欲しかったみたいだった。げんなりなんて嘘っぱち。浅ましすぎる自分の思考回路に気づいて、また、今、自分のことが嫌いになった。

「焼き肉、ムリ」
『いや、焼き肉とかいう以前に、お前、どうした?』
「……別に」

たぶん、客観的に見たらどうもしていないのだ。

他の人にしてみたら、蟻レベルのことで躓いて永遠にうずくまっている。レベルいちのことが、私には相対性理論並みに難しい。ただの我儘かもしれない。できないできないって駄々をこねて、本当はやりたくないだけかもしれない。

でも、できない。

死にたくないのに生きる資格がそろそろなくなりそうで、泣いて鼻を啜ったら、部屋がほこり臭くてむせてしまう。平気でスマホを耳に押しつけたままケホケホすれば、『かぜ?』とオータが聞いてくる。

声の向こうで車が通る音がした。

外にいるのかこいつは、と思った。それですら、羨ましい。オータ、私は、家から出ることすら今は難しくてね。改めてオータと自分を比べたらきついんだ。きついんだよ。死にたい以前に、死んだほうがいい気がする。

笑い事にしたいのに、そういうメンタルにもなれなくて黙ったままでいたら、『ニーナちゃんよ』と舐めたような口調でオータがもごもご話し出した。

この喋り方は幼い頃からずっと変わっていない。

何だよ、と心の中で言い返す。しゅう、と間延びしたようなタイヤの音がまた聞こえる。

『今、俺どこにいると思います?』
「……そういうつまんないクイズ、今いい」
『ヒント、外』
「………いいって」
『スペシャルヒント、ベランダ出て』
「出れない」
『はあ? お前どうせ家だろ』
「出れないっ」
『いや、なん』――……でれないんだってっ」
『ニーナ?』
「でれない、ムリ、もう、ムリ」
『おい、』
「ムリムリムリ、ムリムリ、オータ、私もうムリ、ムリすぎる。死にたい、嘘だけど、死にたい、どうしよう、何もできない、もうムリ」

本当に、無理なんだよ。それでも、完全にパニックになれない。百パーセントの爆発ができない。オータには、こいつなんだよ何歳児だよって思われているかもしれないけれど、こちらとしては理性が変に混じったままで気持ち悪い。

一秒後には熱くなった自分に冷めている。そのうちに、本当にヒステリックになってるのか、オータにやばいと思って欲しくてわざとヒステリックぶってるのかさえもう自分では分からなくなる。

高校の時、倫理でならった。知っている。退行、赤ちゃん返り、成人しているのに何してんだよって感じ。実質赤ちゃんと変わらない。泣くことしか出来ない。違うのは首がすわってるところだけだ。

オータの口ぶりから推測するに、どうせカーテンをあけてベランダに出て暗い夜を見下ろしたら、うるさい柄シャツが目に入るっていうオチだ。

そんなところで世界はうまいこといかなくてもいいから、せめて普通のことが普通にできる力を私に授けてほしい。

スマホを握りしめたまま、唇を噛む。

焼き肉どころじゃないって、もうこれで分かるだろう。じゃあ、今日はいいやって言ってくれていいよ、という気持ちと、私のことを見捨てたらあんたには失望して焼き肉も一生行かないからな、なんて、自分本位でしかない気持ちが混じりあう。

そうこうしているうちに、一言も喋らない相手の電話口から、コツコツ、と鉄を叩くような音が聞こえて、オータが何をしているのか分かってしまった。

なじみのある金属の響きだ。

やめろよ。どうすればいい。対面したら、私とオータの差が明るみに出る。まるで自分がオオカミ人間だったってバレるような気分になると思う。

今夜は、月が出てる? もうそれならいいや、月夜の晩だけゴミ人間になるという設定で。そうやって馬鹿なことを考えている間に、鉄の音が聞こえなくなる。

オータが足を止めたのだろう。つまりは、そういうことだ。納豆のねばねば以上に切っても切れない縁を結んでいる相手のことくらい、分かってしまう。

恐らく今、階段を登りきったオータが私の部屋の玄関の前にいる。私がどうしても最近超えられなかった世界の向こう側。扉ひとつで、社会、と、非社会に変わる。その隔たりが私にはあまりにも大きすぎる。

「……来なくていい。そもそもなんで、何も答えてないうちに私のマンションまで来るの、オータ。頭おかしいだろオマエ。鍵あけないから、ぜったいあけない。ピンポン何回押されてもあけない。こっちは、焼き肉行かないって言ってるじゃん」
『もう焼肉はどうでもいいって。こっちは、最悪ベランダから窓ガラスぶち割って中はいるよ』
「オータにそんなことできるわけない、オータはまともだから。オータは、今もどうせ清潔だし、服だって綺麗なの着てるし、当たり前のことができる人だから」
『はあ? 何言ってんだ、お前。とりあえず、いーから鍵開けろ。クイズの答え。オータ君はニーナちゃんの部屋の前にいます。はい残念、答えられなかったのでペナルティーです、鍵を開けろ』
「………嫌だ」
『なんで』
「見られたくないから」
『裸か? それなら服着たら。ノーメイクとか、部屋きたねぇとかそういうことはどうでもいいので』
「私っていう人間を見られたくないんだよっ」

鏡を見ていないから分からないけれど、きっとひどい。ぼろぼろの、最上級だ。

メイクどうこうの話ではない。内側も外側も全て汚れて垢だらけ。外にも行っていないし、何もできてないのに、生きてるだけで汚れてしまう。世知辛い。世間にもろくに触れてないくせによく言う。

どうしよう。どうすればいいんだよ。

ほら、また分からないことがひとつ増えた。頭の中が宇宙になる。パニックとは少し違う。どれを優先してどれをあとにまわすか、優先順位のつけ方、したいこととするべきことの取捨選択、それらが全然整わない。

『ニーナ』

ドン、と玄関のところで音がした。帰ってよ、と思う反面、もう開き直って鍵を開けて、社会と非社会のちょうど境目で泣きわめいてやりたい気もしてくる。

電話はまだ繋がったままであり、オータに何度も名前を呼ばれる。

ニーナ、ニーナ、って。あんた、傍から見たらストーカーみたいだからもうやめたほうがいい。あんたは、まともなんだからさ。それに、私、死んだわけじゃないんだからさ。

足が痺れて体勢を変えたら、積んでいた空の缶ビールにあたって、ケトンと間抜けな音と共に転がっていった。

「オータ。ほんとに帰って」
『今、はいそうですかって俺があっさり帰ったら、ニーナちゃんとオータ君に亀裂がはいる気がする』
「それでいい」

ドン、とまた音がする。普段は穏やかな男が乱暴をしている。私は鼻をすすって倒れてしまった空き缶を立て直す。

アサヒのスーパードライ。本当はエビスの味が好きだけど、安いからアサヒで我慢してる。そのくせに、分からないことが増えていって負のエネルギーに負けたら、通販サイトでときめきもしない服を無我夢中で購入してしまう。節約をして、それ以上のお金を使って、貯金もないくせに散財して、自滅していた過去、地続きの今。

オータ、それなのにさ。ダメでダメでどうしようもないくせに、やっぱり、私は今この瞬間も心臓を動かしている。生きる資格もないのに、生きることそれ自体は自らの選択の結果じゃなくて、選択しても選択しなくても何でも、苦しい。

苦しさだけはいつもある。分からないものばかりのなかで、縋るようにそれだけを掴んでいる。

『お前まじで開けろ。やっぱ見られたくないとか知らん。もう最悪裸でもいいから。ニーナに欲情とかしないし。こっちは、このまま帰ったら不完全燃焼でむしゃくしゃする』
「……それは、あんたの都合だ」
『うん、俺の都合。でも、焼き肉も行けない、ムリムリムリばっかりのお前の都合も聞きたいから、さっさと開けて』

プツリ、と糸が切れるように電話口が閉じる。ツーツーと虚しい電子音が耳元で繰り返し響いた。意味もないのに舌打ちをしてしまう。

ゴミ屋敷だし、臭いよ。私は、今、本当に臭いんだ。獣の匂いがする。人間って動物だったんだって、自分の体臭で再確認している。努力をしなければ、進化の先に居座ることもできない。

しばらく暗闇の中、握力で潰した空き缶の尖った部分にデジタル時計の微かな照明が集まってゆくのをぼんやりと見ていたけれど、ドンドンドン!と扉を叩く音があまりに激しくて、このままでは本当にオータが変質者になりかねないので湿った髪をかきあげてウンザリした気持ちで身体を動かす。

顔を合わせる。言葉を交わす。どうなるのか分からない未来のシュミレーションをする。引いた目を向けてみろ。安易に会おうとしたのはオマエなのに何だよって大声で泣きわめいてやるから。

開き直って赤ちゃんのように甘えた怒りをオータにぶつける想像をしながら、這うようにして玄関へ向かった。