軋む戸を二回叩き、中に入る。入ってすぐ爽やかな潮風が髪を攫った。
 久しぶりに来た彼女の部屋には相変わらず何も無い。潮の匂いが滲み付いた椅子が一つだけある、晴れてる日は窓を開け放って涼しい海風が入る部屋。僕と彼女の思い出の部屋。
 おばさんー彼女の住むアパートの大家さんーは彼女が迷わず帰って来れるように、と部屋を空けているそうだ。
「久しぶり、海月(みづき)さん。……ここに来ると何から話そうか分からなくなるな……」


 僕と彼女の出会いは、今から十年前にもなる。
 僕の母親の故郷であるこの港町は、自宅から遠く年に一度行くか行かないか、そんなところだった。だから行く時は一週間くらい泊まっていく。
 あの日ー夏休みに一週間帰省した時の二日目だったかー僕は星を見に高台に行った。街灯の無い高台は一層星が綺麗に見えるお気に入りの場所だった。
 ただその日は先客がいた。それが彼女、海月さんだった。高台には何回も来たことがあったが、彼女には初めて会った。
『誰かいるの……?』
『…………』
 歳は僕より少し上の、多分一五かそこらで、でもその歳のわりに淑やかだと思った。
『……君はここによく来るの?』
『っ?!あ、う、うん……』
 隣に座るように促されると、急に話しかけられた。夜空に溶け込んでしまいそうな透明な、でも耳に残る高くて涼しい不思議な声だった。
 星を見に来たのに、どうも彼女に目が移ってしまう。背中の真ん中まである長い髪を垂らしている。宝石のような美しい瞳は星空を見ていて、すっと溶け込む白い肌が陶器のように滑らかできめ細やかで、そんな彼女から目が離せなかった。
『何か……付いてる?』
 ふと彼女が星から目を離し僕の方を見る。しっかり目が合うと、胸がキュッと苦しくなる。
『い、いや……何も、付いてない、です……』
『そう……』
 そう言って、彼女はまた星に目を戻した。
 一目惚れとはこういうことなのだと、幼いながらに実感した。

 僕は一生あの夜を忘れはしないだろう。

 家に帰ってからそのことを親や祖父母に話すと、彼女が「海月」という一七の少女であることが分かった。高校には行っておらず、去年の春ここに一人で引っ越してきたという。彼女の大家さんに聞くと、彼女は放浪癖があり、いつもどこかをフラフラと歩いているらしい。朝にはいなくて、夜は基本帰ってきている、と言うが晴れた日は毎日外に出てどこかを歩いている。
 次の日から僕は彼女を探しに暇さえあれば外に出た。すぐ会える日もあれば全然会えない日もあって、結局帰省最終日は会えずに自宅へ帰った。

 次に帰省したのは三年後の高校一年生のとき。中学生は部活だ受験勉強だ、行けず仕舞いだった。その時も一週間泊まって、毎日外に出た。大家のおばさん曰く、いつも飽きずにほっつき回ってるというから探しているが、見つからずに三日経った。
 四日目、僕は高台に向かった。相変わらずそこには誰もいなくて、大きいため息をついてから原っぱに寝転んだ。鮮やかな水色の空と動く雲を眺め、じんわりと汗をかく。
『あ、……』
 聞き覚えのある不思議な声、いやそれより少し低く感じた。
『っ!海月さん……!』
 声のした方を向くと、前会った時より幾分大人びた彼女の姿があった。
『あ、えっと……久しぶり。しばらく見てないけど……』
『中学は部活とか勉強が忙しくて来てなくて……』
『そっか……元気そうで良かった。』
 気にかけていてくれたのか、そんな発言にやはり好きだと再確認する。その日は会えてなかった三年間を彼女に話した。彼女はずっと聞いてくれて、少し笑ったり頷いたりしてくれた。高一の夏、彼女に会えたのはそれ一度きりだった。

 翌年の夏も一週間滞在した。その夏は彼女とよく会えた。彼女は相変わらず淑やかで儚く美しかった。砂浜で、堤防で、高台で、灯台で、静かに変わりゆく景色を眺めて、少し昼寝して、話して、過ごした。

 それが彼女と会った最後だった。

 高校三年生の夏は受験勉強に勤しんだ。ちゃんと志望校に受かり、春から大学生。しかし、祖父母の家からもっと遠くなってしまい、より行きづらくなってしまった。

 それでも帰省した大学一年生の夏の一週間。
『実はなぁ……海月ちゃん、去年の夏から家に帰ってねぇんだと。』
 僕は毎日走り回って彼女を探し回った。一年も行方不明の彼女がそう簡単に見つかるはずもなく、無念にも捜索を断念した。
 力なく歩き続けた結果、高台に来てしまった。
『海月さん……』
 彼女を呼び続けて枯れた声で小さくまた呼ぶ。無論、返事は無い。
『っ……あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!!!』
 掠れた情けない叫び声を上げて、泣き崩れた。人間は馬鹿だ。大切なことほど言葉に出来ずに伝えないで、無くしてから大切だったと気付くのだ。

 全ては夏の日に起きた。

 ふらっと消えてまた来る彼女は海を漂うクラゲのようで、そう……海の幽霊だったのだ。


 彼女が行方を眩ませて、もう七年になる。僕も社会人になり、この港町にも毎夏訪れるようにしている。ただ数度、されど数度会った彼女がどうしても忘れられず探し回っている。
 小学生の初恋を今まで拗らせるなんて少々幼稚だと思ったが、彼女を忘れさせる人に出会ったことがない。幾度か女性に告白されたこともあったが、どうも乗り気になれず丁寧にお断りした。

 茹だる夏の夕方、僕は堤防にいた。漁船を見送り、波の歌を聞く。風が吹き、奏でるように梢も歌った。はらりと花びらが舞って、舞台を華やかにする。その歌が心地よくて、目を瞑った。
 ふと彼女の声が聞こえた気がした。軽く握った右手を口の前に持ってきて軽くふふっと笑う彼女の声。今でも鮮明に思い出せる。ふと彼女が恋しくなって、頬が熱くなる。複雑にねじれて入り組んだ道を進んだ先に、彼女はいるのだろうか。瞼が開く。

 僕は堤防から砂浜に来た。スラックスの裾が波打ち際で濡れる。蒸し暑い空気とは反対にひんやりと冷たく熱を攫っていく。
「早く帰ってきてください、海月さん。」
 離れ離れでも彼女にときめいて仕方ない。
「僕は……今とっても幸せです!その幸せを!貴女にも分けたいんです……!」
 大海原に向かってどこかにいるはずの彼女に叫ぶ。夕日が水面を反射して、僕を夜に溶かしていく。

 日が落ちるのは早く、あっという間に目の前に満天の星空が広がった。そろそろ帰らないと祖母が心配するだろう。波打ち際から離れ、砂浜を歩いていると、僕の足音と合わない別の足音が聞こえた。
「あ……海星(ひとで)くん。」
 ビクッと肩が跳ねた。後ろを振り向くのを躊躇った。
「大家のおばさんがここにいるって……」
 上手く言葉が出てこない。絶対そうなのだ。そうなのに、もし違っていたら……そんな訳ないのに考えてしまう。
「海星くん……?」
「いま、まで……どこにいたんですか……?」
「え、っと……貯金と荷物もって海外フラフラしてた……」
「っ……!なんで……急に……」
「海星くんの話聞いてて……私も色々見たくなったから……急じゃないよ……?おばさんに言ったし……」
 彼女は少し饒舌になっていた。でも声や雰囲気は少しも変わらない。
「なんて……?」
「んぅ……?『少し出かけてくる』って……」
「何が少しですか……」
 僕は一思いに振り返り、彼女を逃がすまいと抱きしめる。
「えっ……」
「どれだけ心配したと思ってるんですか……!七年です!七年も……音信不通で……良かった……無事で……」
「ご、ごめんね……?」
「許しません……!離しません……どこにも行かないで……」
 彼女の細い腰を、華奢な肩を、優しくされど強く抱きしめた。すると、彼女もまた僕の背に腕を回して、抱きしめ返してきた。
「……ただいま。もうどこにも行かないよ……」
「っ……おかえり……な……さい、海月さん……」
 家に帰るなり、涙でぐしゃぐしゃの顔を皆に晒すことになって恥ずかしかった。何故か彼女は嬉しそうな顔をしていた。
 その日の夕飯は彼女とおばさんとその他近所の人を呼んで、大勢で食卓を囲んだ。

「海星(かいせい)!もう遅せぇから、海月ちゃん送ってあげてぇ!!」
「分かった。」
「送り狼すんなよぉ!!笑笑」
「するか///!」
 港のジジィ共に呑まされ軽く酔った頃、僕と彼女は二人で外を歩いていた。
「海風が涼しいね……」
「酔いも覚めますね。」
 彼女は小さく頷いた。
「ねぇ、海星(ひとで)く」
「海星(かいせい)です。」
「私は、海星(ひとで)って呼ぶの……私も海月(くらげ)って呼んで……?」
 その時、あぁそうか、と腑に落ちた。大きくため息をつく。
「全く貴女って人は……それでなんですか?海月(くらげ)さん。」
「海星(ひとで)くんは……いつ帰るの?」
 ハッとした表情の後、視線を地面に落とした。
「明後日です。」
「次来るのはまた夏……?」
「そうですね。」
 アパートの玄関前まであと少しだが、彼女は歩みを止めた。
「海月さん……?」
「もっと……海星くんといたい……」
 そんな言葉で胸がキュッと締め付けられる。
「僕は帰りますよ。」
「フラグが立ってるのに……?」
「フラグじゃないです。」
「……この七年……すごく楽しかったけど……同じくらい寂しかったの……」
 彼女は少し歩いて僕のシャツの袖を掴んだ。
「海星(かいせい)くんに会えなくて……」
 少し俯く彼女の紅潮した頬は色っぽくて、僕は生唾を飲み込む。ジリジリとすり減る理性をなんとか保つ。
「海月(みづき)さん、酔っ払ってるんですから、早く寝ましょう?」
 彼女は少し唇を尖らせた。
「海星くんからしたら……私なんて何でもないのかもしれないけれど……私は……」
 そんな事言われては仕方ない。彼女の肩を掴んだ。
「言ったでしょうが。こっちの気も知らないで……七年もほったらかしにされて、二五になっても初恋拗らせてるんですよ……!」
 彼女は模範のようなきょとん顔を向けた。
「それって……」
「僕は貴女が好きです。だからこそ、貴女を大切にしたいんです……」
 頬に触れると、気持ちよさ気に頬ずりする。
「私も……海星くんのこと……好き……だから、」
 その時だけ妙に時間が遅く感じた。ゆっくりと彼女の唇が動く。
「送り狼して……?」
 僕の中で理性の糸がぷつっと切れた。彼女は玄関の鍵を開ける。
「送り鮫の間違いじゃないですか?」
「そうかもしれない……」
 入ってすぐ、靴も履いたまま、僕らは接吻を交わした。酸素を奪うような、深く、熱い口づけ。
彼女は僕に縋るように抱きついて、首を食む。
「これじゃどっちが鮫か分からないですね。」
「どっちかじゃない……どっちも鮫なのよ……」

 そうやって夜は更けていった。


 僕は暁光に起こされた。隣にはシーツ一枚で安らかに眠る彼女の姿があった。すると、急に昨夜を思い出し、覚醒した。七つも大人になった彼女も相変わらず美しかった。荒れしらず艶めかしい白い肌。艶のある絹糸のようなヒヤシンスの長髪。海を漂う月の如く、麗しい女性だ。